第25話 もう間違えない。

『ロベリア……ねぇ、起きて。ロベリア……』


 耳元で囁く愛しい人の声に、ロベリアは目をこすりながら開く。


『ん……なぁに? セオドア』


 重い瞼を薄く開けていると、困ったように眉尻を落としている顔が見えた。思わず、クスッと笑う。普通にしていれば、目鼻立ちは整っているし、見目麗しい方だろう。


 そんな困り顔をしている彼だが、実は時の大神官様である。今、その大神官様を困らせているのは――彼の腕の中でギャン泣きする、彼とそっくりの赤ん坊だ。


『なかなか泣き止んでくれないんだ。アルフレッドはお母様でないとダメみたい……』


 しゅんと肩を落とす、愛おしい大神官様に微笑みを向ける。両腕を広げ、愛する夫によく似た息子を受け入れると、ピタリと泣き止んだ。


 ますますしょんぼり顔をする夫が本当に愛しい。セオドアはアルフレッドを抱きかかえるロベリアを後ろから包み込むように、そっと抱きしめた。


『やっぱり……アルフレッドもロベリアが一番なんだね』

『……“も”?』


 首元にかかる呼吸がくすぐったい。思わず、肩を竦めてしまった。


『そうだよ。僕“も”そうだから』

『なぁに? それ?』

『僕も……ロベリアいないと生きていけない』

『ふふ。大げさね』

『そんなことないよ! 僕の想いの深さにもっと気づいてよね、

『う、ぐっ……苦しいわ、


 後ろから抱きしめる腕にギュッと力を入れたセオドアに、ギブアップを伝えるべく彼の腕をトントンと叩く。腕の中のアルフレッドが『ふぇ……』と声を上げると、ビクついたようにセオドアは腕の力を緩めた。


 二人だけの幸せな時間は、いつの間にか、三人の幸せな時間となっていた。


 ただ一つ、不安なことを除いては。


『その後、アリナ様のご様子は?』


 ロベリアの不安そうな声に、セオドアは安心させるように微笑んだ。


『大丈夫。聖女様は神官長たちがしっかり見てくれているから。……安心して』


 セオドアの微笑みに、ロベリアはホッと胸を撫で下ろした。


 一年前に異世界から降臨した聖女アリナ。彼女は神聖力が高く、神殿の仕事も、あっという間にこなせるようになってしまったとても優秀な方だ。


 ただ、セオドアに心を寄せてしまった。当時、彼の婚約者だったロベリアは、婚約解消を申し出たのだが、セオドアに頑なに拒否された。彼を諦めきれなかった聖女アリナは、彼に媚薬を盛った。


 媚薬を盛られたことに気がついたセオドアは、薬の効果が出始めたときに、婚約者であるロベリアを見たのだ。――ただ……ロベリアは、これに疑問を持っていた。


 果たして、彼は本当に媚薬を飲んだのだろうか?


 彼ほど神聖力を持ち、大神官まで務めている博識な人が、いくら聖女といえどこの世界に来て何ヵ月も経っていない人が作り出した薬を、そんなに簡単に口にするだろうか。――いや、見抜けないはずがない。


 ロベリアの手を握り、ニコニコと甘い笑みを浮かべながら、ここぞとばかりに愛の言葉を次から次へと口に出す婚約者に、ロベリアは思わず、苦笑いを浮かべてしまった。


 聖女アリナの対応に困っていたセオドアが、彼女が立てた企てを“わざと”利用したのだ。――聖女にその正当性を思い知らせるために。そして、自分の溢れるほどの想いに鈍感な婚約者に愛を囁く理由をつけるために。


『仕方ないよね? 僕は“媚薬のせいで”ロベリアに夢中なのだから』


 そう言っては、タガが外れたように押し迫ってくるのだ。――まったく、困った婚約者様である。


 セオドアは“媚薬の効果”を理由にあっという間に“婚姻の誓い”を整えてしまった。それからは――タガを外しっぱなしである。それが証拠に、すぐに二人から三人へとなってしまったのだから。


 三人の幸せな日々は、五年経とうとしていた。


 幼い頃のセオドアとそっくりな息子アルフレッドと、いつものように午後の微睡みの時間を過ごす。ロベリアは、いつもの侍女が入れてくれた香り高い紅茶を口にした――


 突然、焼け付くような痛みが、喉から胸へと流れ込む。この世の痛みとは思えないほどの苦しみが、身体中を麻痺させる。吐き出してしまいたい、でも出てこない。夢中で喉を掻きむしり、その中を何かで洗い流したい――


 ロベリアの記憶は、そこでぷっつりと途切れた。


『お、おかあさま? う、うわぁあぁぁっ!!』


 アルフレッドの叫び声は、まるで拡声器を使ったかのごとく、神殿中を響き渡った。


 近くにいた侍女が駆け寄って来ようとした。アルフレッドがその侍女と今日初めて目を合わせた瞬間――侍女の姿が変わった。黒い髪に焦げ茶色の瞳。この世界には無い色だった。


 その侍女がアルフレッドにそれ以上、近づいてくることはなかった。叫び声を聞いたセオドアが飛び込んでくる。テーブルに伏せ、血まみれで、ピクリとも動かなくなった愛する人を、その淡い紫色の瞳に映すと、限界まで見開く。大きく吸い込んだ息をゆっくりと吐き出しながら、よろよろと、覚束ない足取りで近づく。


『ねぇ、ロベリア。起きてよ。アルフがびっくりしているじゃないか。ほら、起きて。リヴィ』


 冷たくなっていく身体を揺らす。だらりと、腕が落ちる。爪の先はマニキュアを塗ったように真っ赤に染まっていた。


『何だよ……いつも“テオの色が好きだから”って、薄紫のマニキュアを使っていただろう? 僕が“艶やかな赤で妖艶に誘ってくれてもいいよ”って、言ったときはそう言って断ったくせに』


 目の前の“赤”が滲む。


『何で、今は、真っ赤にしているんだよ?』


 セオドアは縋りつくように、ロベリアをギュッと抱きしめた。後から入ってきた神官長たちに魔女を捕えるよう、指示を出す。――魔女に一度も視線を向けることもなく。


『ねぇ、リヴィ。僕はどこで間違えたんだろう?』


 未だに固まったまま、泣きもせず、じっとこちらを見ているアルフレッドを呼ぶ。


『アルフレッド、おいで』


 少し高い椅子からジャンプするように、ひょいと着地して小走りに近づいてくる。セオドアはロベリアを片腕に抱え、もう一方でアルフレッドを抱きしめた。


『アルフレッド。君に――この世界を任せてもいいかい?』


 アルフレッドは無言でコクリと頷いた。

 彼は聡い。そして、とても強力な神聖力を持っている。あの醜い魔女を視線だけで拘束してしまうほどの。


『おとうさま。ぼくは……いつか、ふたりをまもります。だから……だいじょうぶです』


 きっと、彼はすべてをわかっている。

 この世界にとって“救世の聖人”の一人だろう。


 魔女はこの世界に呪いをかけた。“最悪の災厄”をもたらした。ロベリアが遺した、二人の大切な息子アルフレッドが生きるこの世界を壊させてなるものか。自分の幸せだけを願う聖女など必要ない。


 この命にかえてでも守り抜く。

 大好きなリヴィが愛した、この世界を。

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