第23話 聖女は貴女です!
「――貴殿が、テオドール様でございますか?」
あの長い階段を駆け上がってきたのだろう。肩を上下させ、ハァハァと息を切らしている神官が教会に駆け込んできた。
「カイル? どうした? 何かあったのか?」
今まさに“婚姻の誓い”を立てようとしていたところに飛び込んできた神官カイルは、ハリオスの言葉に返事をする。
「神殿から急ぎの連絡が来たんだよ、テオドール様宛に」
その言葉にテオドールは、ピクリと眉を上げる。そして、大きく息を吐き出すと『やっぱりね、嫌な予感がしてたんだ』と肩を落とした。
「カイル、といったね。僕がテオドールだよ。神殿からは、何て?」
「あ、はい。神官長イシュメル様より至急、戻るようにとのことでした」
テオドールは目を伏せて『わかった』と一言だけ返した。目を開けるとオリヴィアを見つめた。
「正式な誓いは、また改めて立てるけど」
そういうと素早く、ちゅっ、とオリヴィアの唇に唇を合わせた。
「今はこれで。簡易的だけど誓いを立てるよ」
ぽかーんと口を半開きにしてしまったオリヴィアにテオドールがクスリと笑う。
「さぁ、早く! オリヴィアも誓いを立てて!」
「え、は、はいっ!」
テオドールが人差し指で自分の唇をちょんちょんと指差す。届きやすいように少し前かがみになって差し出すように唇を前に出している。指示されるまま、触れるか触れないかのキスをして、『婚姻の誓いを立てます!』と宣言した。
「ツレナイなぁ、リヴィ。もっと“経験者”の実力、発揮してくれてもいいんだよ?」
「っ!!」
ハリオスやエミリア、そして、今、来たばかりのカイルの前でできるはずない。むしろ、いなくてもできる気がしない。
顔を赤くして、俯いているオリヴィアをギュッと抱きしめ、テオドールが耳元で囁いた。
「これからもよろしくね、僕の奥さん」
耳を抑えてさらに顔を赤く染めるオリヴィアを、満面の笑みを向けたテオドールが、ひょい、と抱き上げる。
「わ、わっ。テオ!?」
「ちょっと、急ぐよ!」
「えっ、えっ? 何? 私も??」
「そうだよ! 父上から一緒に帰ってこいって言われてるから。エミリア、後から荷物よろしくね!」
「ちょっと、テオ。待って……えぇーっ!」
抱えられたまま、階段を駆け降りていく。両腕を回していた肩にしがみつくようにぎゅっと掴まる。軽やかに降りていくのだが、行きに階下まで落ちていった靴を思い出して、少し怖くなってしまった。
あっという間に階段の下まで降りてきたのだが、降ろす気配はない。そのままの状態で、スタスタと歩いていく。
「おーい。ここの馬、連れてってもいいかーい?」
階上にある教会の入口にいるカイルに向かって、許可を得ると、そのまま先にオリヴィアを乗せた。後から自分も乗り、『ちょっと急ぐから、ちゃんと掴まっててね』と声をかけると、馬を走らせる。
「リヴィ、大丈夫?」
「うん! 大丈夫! っていうか、楽しい!!」
馬に乗るのは前世も含めて初めてだ。規則正しく上下に揺れるリズムと頬を撫でる風が気持ちいい。海岸沿いを潮風を感じながら、颯爽と走る。
しばらく馬を走らせて、海が見えなくなると急に寂しさが押し寄せてくる。今まではしゃいでいたのに突然、黙ったままのオリヴィアに心配したテオドールが声をかけた。
「疲れた? 少し休憩しようか」
速度を落とすと、テオドールは馬から降り、木陰へ誘導する。大きな幹に手綱を繋ぐと、オリヴィアの手を引き、馬の背から降ろした。
今までいた街が、小高い丘から遠くに見渡せる。水平線も遥か彼方だ。ぼんやりと見つめていると、馬に水をあげていたテオドールが『どうかした?』と問いかけてきた。
「私ね、前世では港町に住んでいたの。だから……ネーレイスを自分の故郷みたいに感じていたのかもしれない。初めて行った場所なのに、何だかおかしいでしょ?」
苦笑いするオリヴィアにテオドールは首を振る。
「全然、おかしくないよ。やっと、理解することができた。リヴィが今まで困っていたことを」
「え?」
「もっと早く気づいてあげればよかった。ごめん、リヴィ」
テオドールの優しさに、オリヴィアは目頭が熱くなる。いつも気がついてくれるのに。これ以上、何を望むというのか。
「何で……テオが謝るの? 私が話していなかっただけなのに。今までずっと、話す勇気がなかった。だから……ごめんね、テオ」
頬を涙が伝う。まさか、溢れてくるとは思ってもいなかった。テオドールはオリヴィアの頬に手を添えると、親指でその涙を拭った。
「大丈夫。僕はいつでもリヴィの側にいるよ。何があったとしても。だから不安にならないで」
テオドールは優しすぎる。
でももしかしたら、それは“真の聖女”を守る使命からかもしれない。もしそうであれば、“本当の真の聖女”が現れたとき、彼は――
オリヴィアの胸がドクドクと嫌な鼓動を波打つ。胸の前で、ぎゅっと拳を握りしめた。どんなに辛い結果になったとしても、はっきりさせなければならない。イシュメルがテオドールに、急ぎで戻るよう伝えたのなら、なおさら。きっと時間がないのだ。今から“本当の真の聖女”を探さなければならない。――それで間に合うのだろうか。
「ごめんね、テオ」
「ん? 何で? ずっと側にいるのは嫌って――」
「――私は“真の聖女”ではないよ」
「え? 何言ってるの、リヴィ?」
テオドールの柔らかい紫色の瞳を見つめて、力なく微笑んだ。今のオリヴィアにできる、“苦笑い”ではない、精一杯の“笑顔”で。
「だから、貴方が守るべき人は……私じゃないよ」
ポカンとしたテオドールを横目に立ち上がる。
「だから、貴方の側にいるのは……私じゃないの」
パタパタと草をはらうと、もう一度、微笑んだ。
「“婚姻の誓い”……正式にしなくて、良かったね」
胸が痛い。心が痛い。顔中にキュッと力を入れていなければ、すぐにでも泣き出してしまいそうだ。
隣で座っていたテオドールが立ち上がった気配を感じる。泣かないように、ギュッと目を閉じているオリヴィアには今の彼の顔を確認することすらできない。ガサリと足元の草が音を立て、ふわりと温かさが身体を覆った。
落ち着く香りに包まれて、オリヴィアはそっと目を開く。目の前にはトクトクという鼓動が、まるで激しく波打ったオリヴィアの鼓動をなだめるかのように聴こえてくる。
「いい? リヴィ。よく聞いて? 今からリヴィに僕の神聖力を流すね」
優しい鼓動に耳を傾けていたオリヴィアに優しい声が聞こえてきた。そっと目を閉じて、彼の胸に耳をつけ、背中に手を添えた。
温かいものが自分の中に流れ込んでくる。どこか懐かしく、安心する感覚――これが、神聖力の中に眠る記録なのか。
オリヴィアの中にずっとモザイクがかかっていた記憶が鮮明に甦ってくる。転生時に神様と交わした約束事の記憶が。
――君には18歳になるまでに愛する人を見つけてもらわなければならない。その愛する人は、“救世の聖人”。君は彼から神聖力を与えてもらわなければ、この世界から消えてなくなってしまう。それが“魔女の呪い”だ。魔女はこの世界に呪いをかけた。異世界から来る、次の聖女にこの世界を壊させるために。それに対抗するため、時の大神官がその身を捧げ、 “真の聖女”を召喚した。それが、君だ――
霧が晴れたように見えた。
――ただ、このままでは成人を迎えた18歳に消えてしまう。だから、18歳になった日の終わりまでに愛する人からキスをもらうこと。いいね?――
(私が覚えてたのは、最後の部分だけだったんだ)
すべてを理解した。
自分がこの世界に転生した理由も、テオドールと恋に落ちた理由も。そして、自分が“真の聖女”だということも。
オリヴィアは静かに目を開けた。
「テオは知ってたの? 私が“真の聖女”だって」
テオドールは静かに首を横に振った。
「感覚っていうのかな。そういうのはリヴィに感じていたけど。もしかしたら、と思ったのは聖女様が降臨した後だよ」
「そうだったんだ」
「聖女様からリヴィを遠ざけないとって思ってた」
「え?」
「だから会いに行けなかったんだ……リヴィからは会いに来てくれなかったし」
しゅんと肩を落とす。
「うぅ……それは、ゴメンナサイ」
そう言われてしまうと、肩身が狭い。確かに受け身でいすぎたことは反省している。
「……ぷっ。僕ら、謝り合ってばかりだね」
お互い肩を落としている今の状況をおかしそうに笑うテオドールに思わず、つられて笑いを漏らす。
「簡易的であろうと“婚姻の誓い”はすでに立てられてるよ? 僕から逃げようとしないでね、リヴィ」
悪戯な笑顔を見せたテオドールに、オリヴィアは目をパチパチ瞬かせ、そして一瞬、視線を外した。
(もし、私が“真の聖女”ではなかったら、テオは私を好きになっていなかったのかな……)
最初から神様に決められた運命の相手だから惹かれ合ったのかもしれない。――そんなことを考えていると、突然、頬に緩い痛みが走る。
「こら、リヴィ。また変なこと考えてるでしょ?」
「ふぇ?」
両頬をテオにつままれたまま返事をすると、むっとした表情で言った。
「リヴィが“真の聖女”じゃなくても、僕が“救世の聖人”じゃなくても、何度だって僕は、リヴィを見つけるよ」
テオドールは心を読めるみたいだ。彼の顔が真剣なものへと変わる。
「そして、何度だって僕は、リヴィに恋をする」
今度は少し情けない表情を浮かべた。
「前の世界で見つけられなかったのは悔しいけど」
「えぇ? なに、それ……」
「これから先は、絶対に見失わない。だから、覚悟してよね、僕だけの奥さん」
(本当に……テオには、敵わない)
オリヴィアは、今、包まれている幸せな香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
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