第17話 一人でも大丈夫。
泣き腫らして真っ赤な目をしたエミリアがお茶を用意してくれた。そのお茶をいただきながら、午後は部屋でゆっくりと過ごすことにした。
(エミリアが喜ぶこと……そうだ!)
本の虫である彼女を喜ばせるにはいち早く新作を完成させて最初に読んでもらうのが一番だ。
そう考えたら、いつの間にか筆を執っていた。
――あの物語を完成させないと。
海のお姫様の物語。城下町で海とは無縁の生活を送っていたからなのか、それとも物語が悲恋だったからなのか、今まで思い浮かびもしなかった。あんなに有名な物語なのに。
単純に私が望んでいた結末ではなかったからかもしれない。それなら私が思い描く物語にしてしまえばいい。私はこの世界では作家なのだから。
そういえば、ハッピーエンドになっている物語もあったような……気がするけど。
失恋なんて、当たり前のこと。自分の想いだけではなく、相手の想いがあるのだから。すべてが自分の思い通りに上手くいくはずはない。
前の人生だって、そうだ。一番好きだった人とは結婚できなかった。彼と私の人生は、出会いという交差点で交わっただけ。その先で同じ道を選び、共に歩くことはなかった。ただすれ違っただけの人だった。
片方が想っていても、例え互いに想い合っていたとしても。伝え合い、手を取り合い、同じ方を見て、同じ歩幅で歩いていくのは、なかなかできないことなのだ。
元夫でさえ、そうだ。ずっと同じ道を選び続けることも、同じ歩幅で歩いていくのも、難しいこと。またどこかの交差点で他の誰かと出会い、その誰かとその先の道を選ぶこともある。
自分ではない、誰かの人生を、自分の思い通りになんてできるはずがない。逆に言えば、自分の人生は他の誰かに選ばせる必要などない。自分の意思で自由に決めていいのだ。だからこそ、あのお姫様には自由になってほしかった。泡になるのではなく、声を失ってでも手に入れた“脚”で、今までとは全く違う“世界”で、まるで海の中を自由に泳ぎ回るように、風の中で大地を踏みしめて思うまま走り出してほしかった。
でも、それが難しいことなのもよく分かる。前世の記憶を持って生まれた私もまた同じだから。全く違う世界で、たった一人で歩いていくのは苦しい。それは身を持って経験しているから分かる。
私がこの世界で生きてこられたのはいつも近くで寄り添ってくれる人たちがいたからだ。両親やエミリア、そして、一歩外に踏み出せば、イシュメルやテオがいた。皆がいなければ、もっと早くに消えていただろう。
――実際、皆がいることに気がつかず、18歳までと勝手に諦め、区切りをつけていたのだから。テオに救われていなければ、そんなことにも気づけず、消えてしまっていた。
海のお姫様にもそんな存在が一人でも側にいてくれていたら。物語は変わっていたのかもしれない。彼女を救うためには、愛する人に向けるナイフではなく、ずっと側に寄り添ってくれる人が必要だったのだ。大切に思うなら、苦しみに苦しみを重ねてはいけなかった。愛する人に刃を向けることなど、できはしないのだから。例えそれができたとしても、その先、それで助かった命を生き続けていくのは、辛いことだろう。
彼女の姉たちは、彼女を救いたくて渡したナイフで彼女が自ら命を絶ってしまったことをどう思っていたのだろう。苦しみは苦しみしか生まない。その連鎖がただ続いていくだけなのに。
だから。彼女には自分で自分を幸せにしてあげてほしかった。私もそうならなければならないから。
顔を上げ、背筋を伸ばし『うーん』と大きく伸びをする。窓の外に目をやると、水平線の向こう側に鮮やかなオレンジ色の夕日が沈んでいくところだった。
まだいろいろ詰めるところはあるが、大まかには書き終えた。エミリアに少しでも早く読んで感想をもらいたくて、推敲前ではあるが目を通してもらえるかと聞くと、エミリアは顔をほころばせながら、二つ返事で引き受けてくれた。
「これはもしかして……“お嬢様の物語”ですか?」
エミリアが原稿に目を落としたまま首を傾げる。
「うーん、ちょっと違うかなぁ。あえて言うなら、私の願望……かな」
「願望、でございますか?」
「うん。こうなってほしいな、こうだったらいいなっていう願い」
確かに私の現実を知っている人がこれを読めば、見ようによってはこれが真実なのではないかと思ってしまうかもしれない。でも、そんなつもりは全くなく、本当に希望で書いた物語だ。フィクションである。
あのお姫様の未来がこうであってほしかった、という願望。
物語の最後は、風が吹き抜ける草原を自分の脚で走り出す、笑顔のお姫様が、見たこともない世界でまだ見ぬ未来に向かい、瞳を輝かせている。
――もう、“一人でも大丈夫”だと。
私も甘えてばかりではいけない。守られてばかりではいけない。大切なものは自分の手で守れるようにならないと。
――コンコン。
不意にノック音と、ドアの向こうに聞き慣れた声がした。こちらの様子を伺うエミリアに鍵を開けても良いと頷いた。
開いた扉の向こうから、ルピナスの花と同じ紫色の瞳が私を見つめた。目が合うとその瞳の持ち主はニッコリと微笑んだ。
「リヴィ。夕飯、一緒に食べない?」
「うん。食べる。テオはどうしたい?」
「うーん。リヴィに合わせるよ」
「じゃあ、美味しいもの、食べに行こう!!」
テオは来たばかりで街を歩いてもいないだろう。一日しか違わないが、一通りは観光済みだ。行ってみたいお店も何軒かは目星をつけている。
夕暮れ時の街をテオと並んで歩く。エミリアはまだ続きを読みたいからと部屋に残った。二人きりになるのはあの婚約解消を取り消すことを保留にしたとき以来だ。
部屋を出るときから『何かあったら危ないから』と手を繋がれた。私たちの関係は、婚約者から幼馴染みに戻ってしまったが、こういう何気ないやり取りが変わらないのが嬉しい。
「ねぇ、リヴィ」
突然、呼ばれてテオに顔を向けると、まっすぐに正面を向いたまま、真面目な顔で問いかけた。
「何で婚約を解消したのか、教えて?」
「えっ?」
「僕のこと、好きじゃなくなっちゃった?」
私の顔を覗き込むように視線を向けると弱々しく笑った。その顔に心がズキリと痛んだ。私は首を横に振った。
「テオのこと、大好きだよ」
「じゃあ、何で?」
「そ、それは……」
悪役令嬢かもしれないから――なんて言えるはずがない。言ったところで信じてもらえるのかも分からない。テオのことを信じていないわけじゃないけれど、どう考えても現実味のない話だし、どう説明していいのかも分からない。だから、直接会わないように解消したのに。
どう答えていいのか、迷っているとテオが大きくため息をついた。
「リヴィが言いたくなるまで、待つよ」
「え……?」
仕方ないなぁ、といいながら、力なく笑う。
「僕はリヴィに弱いんだよ? 分かってる?」
「う、うん?」
「惚れた弱みだね。いつまでだって待つけど。僕らの子どもが見られるくらいまでには教えてよね?」
「はっ? え? 子ども??」
驚いて額にシワが寄っていたのか、テオが指先でおでこをツンツンとつついた。
「そうだよ? おじいちゃん、おばあちゃんになるまで二人でもいいんだけど。やっぱり二人の子どもも見てみたいでしょ?」
「子ども……って……え、えぇー!?」
テオは手を顎に当てて、『絶対、可愛いと思うんだよなぁ』と、しきりに頷いている。婚約を解消しているというのに、話が飛躍しすぎていて、ついていけない。――テオは聖女様と婚約する気はないのだろうか?
「ね、ねぇ。テオは聖女様と婚約しないの?」
「はぁ!?」
テオの顔が見る見るうちに険しくなっていく。
その様子に思わず、背中を反らしてしまった。
「ねぇ、リヴィ。確かに、“婚約を解消したい”とは言ったけど。僕はね、一度も“聖女様と婚約する”とは言っていないよ?」
「えっ?」
「もちろん、聖女様の前でもね」
ジトリとした目を向けられる。繋がれた手には、ギュッと力が入り、もう一つのテオの手は私の頬を摘まむ。
「まさかとは思うけど。未だにそれを信じていたわけじゃないよね? だから、婚約解消を?」
「ふ、ふはりの、ひゃまをひたら、わらしがあくやくひ、らっちゃうららい……」
「えぇ? 何だって??」
テオが摘んでいた頬の指の力を緩める。
「だって……二人の邪魔をしたら、私が悪役になっちゃうじゃない」
言っていたことを理解したテオはもう一度、指に力を込める。そして、ムッとした顔のまま、怒ったような低い声を出した。
「リヴィが悪役なわけ、ないでしょ? あのときの聖女様の言葉を気にしてるの?」
俯いた私をテオはふわりと抱きしめた。
「リヴィは“悪役令嬢”じゃない。……僕の大切な人だよ」
ずっと、誰かにそう言ってほしかったのかもしれない。――大丈夫だ。悪役令嬢ではない、と。
私に気がついて、私を救ってくれるのは、いつもテオだ。私は――“一人でも大丈夫”ではなかった。
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