第16話 元婚約者の嫉妬。

「リヴィ。どういうことか、説明してくれる?」

「テオこそ……何でここにいるの?」


 怒っているようにも見える真顔のテオドールに、オリヴィアは一瞬、怯んだが、気持ちを立て直して聞き返した。テオドールの視線がオリヴィアの瞳から斜め下へと移される。そこから動かない視線に、オリヴィアが辿っていくとハリオスと固く繋がれた手があった。


 オリヴィアはハッと大きく目を見開き、その手を放そうとするがハリオスの力の方が強かった。少し手を引いて、目の前のテオドールをジッと見つめているハリオスの注意を自分へと向けさせた。


『ハリー。ねぇ、ハリーってば!』


 少し距離のあるテオドールに聞こえないように、小声で呼びかける。やっと、こちらに意識を向けたハリオスにオリヴィアは、こそっと耳打ちした。


『あの人はね、私の元婚約者なの』

『“元”? 何だ、それ? 今は違うってことか?』


 オリヴィアは頷いた。目の前のテオドールが唇を噛み締める。もちろん、聞こえていたからだ。


『えっと……とりあえず一度、手を放してもらってもいい?』

『え? あっ! ……悪い』


 気まずそうに笑うオリヴィアにハリオスも苦笑いして手を放した。テオドールの視線は既にハリオスへと移っていた。


「……あなたは? オリヴィアとはどのようなご関係なのです?」

「え? ああ、俺? 俺はハリオスって言います」

「それで? ハリオスさん。なぜ朝早くから今までオリヴィアと一緒にいたのですか? 


 さらに眉をしかめたハリオスの前に、庇うようにオリヴィアが一歩踏み出した。


「私が勝手について行ったの。テオこそ、何でここにいるの?」


 テオドールは静かに一度、目を伏せてから、肩を落とした。


「リヴィがエミリアに何も言わずに出ていったからでしょ?」

「うっ……それは……本当にごめんなさい」


 しゅんと反省したように眉を下げたオリヴィアにテオドールはどこか安心したように『ふぅ』と息をついた。


「とにかく、無事で良かったよ。エミリアから連絡が来たときはもう心配しすぎて、どうにかなるかと思った」

「えぇ?」

「当たり前でしょ? 僕にとってリヴィがどれだけ大切な存在なのか、まだ分からないの?」


 一歩ずつ近づいてきていたテオドールがいつの間にかオリヴィアの目の前まで来ていた。そして一瞬にして、ぎゅっと抱きしめられた。鼻を通り抜けるテオの香りに心の奥底から安心感が湧いてくる。


「婚約だって、僕は諦めてないからね。リヴィが僕とまた婚約するようにさせてみせるから」

「テオ……」

「だから、覚悟してよ? リヴィ」


 テオドールはニッコリと微笑む。オリヴィアの顔が引きつる。こういうときのテオドールには大抵の場合、敵わない。それに――オリヴィアには、もう分かっていた。


 今日、初めて海に来たというのに。思い出すのはテオのことばかりだった。一緒にいたのはハリオスなのに。


 ――テオだったら、こんな時、何て言う? テオだったら、どう思う? テオだったら、どんな顔をするかな? テオだったら……


 前世でしてきた経験なんかよりもずっと。テオのことばかり浮かんできていたのだから。前の世界をすべて含めても、テオが一番なのだということに、オリヴィアは気がついてしまった。


 だから。彼が本気を出したら、きっとそれに抗えない。絆され、流されてしまうだろう。彼の隣は居心地が良すぎるから。


 あの物語の海のお姫様のように真実を話すことができなかったとしても。自分が消えてしまうとしても。王子様に幸せになってもらいたいと願うことが今は理解できる。


 でも――もし、王子様が真実を知ることを望んでいたとしたら? 彼が本当に愛していたのは、どちらのお姫様だったのだろう? もう一人のお姫様は王子様の勘違いをどう思っていたのだろう? 自分の愛のためならば、本当に愛されていなくても良かったのだろうか。そもそも、本当の愛って、何なのだろう? 王子様は勘違いでも違うお姫様を愛して結婚した。それは本当の愛ではないの? もしも、後から真実を知ったら王子様は一体、どうするのだろう? やっぱり君を愛してはいなかったと言うのだろうか? それが――“真実の愛”?


 ――私なら、きっと。


 どちらのお姫様の立場なのかは分からないけど。王子様のことを本当に愛していたのなら。きっと、こうしただろう。海のお姫様とは違い、声を失っていないのだから。


「ねぇ。テオの幸せって、何?」

「え? 何? 急に……」

「私の幸せはね、私の大好きな人たちが幸せでいることなの」

「……リヴィ?」

「だからね、テオにも幸せでいてほしい」


 オリヴィアがそっとテオドールの胸を押し、身体を離すと、隣に佇むハリオスに向かって微笑んだ。


「ハリー、今日は急について行ってごめんなさい。本当にありがとう! とても楽しかったわ!」

「いや……いいよ。俺も楽しかったし」

「本当!? 良かったぁ。また釣りしましょうね」

「あぁ。またな、リヴィ」


 ハリオスもニッと笑い返すと、昨日と同じようにひらひらと手を振って帰っていった。


 彼の背中を見送った後、テオドールが口を開く。


「リヴィ。さっきの質問の答えだけど――」


 テオドールの答えにオリヴィアは『やっぱり彼はブレない人だな』と、彼らしい答えに苦笑いした。



 ◇◇◇◇



(はぁ!? 誰だよ? アイツ!! まさかアイツがあの本の中の相手なのか? ……って、あーっ、もう!!)


 頭をグシャグシャと掻き回す。元々、クセのつきにくいサラサラとした髪は少し掻き回しただけでは乱れることもなく、一瞬で元の状態に戻っていた。


 テオドールの苛立ちは既に頂点に達している。


 まだ婚約者であるにも関わらず、本人がもう婚約を解消していると思っているから、“元婚約者”という立場上、何の防制にもならない。そして、リヴィからそんな扱いを受けていることに、思ったよりも大きなダメージを受けていた。


 リヴィの手前、取り乱すことはしなかったが心の中は大荒れである。宿泊施設に新しく取った自分の部屋に入るなり、この状態だ。街中を探し回っていたエミリアが戻るなり、リヴィは申し訳なさそうにうなだれ、エミリアは涙を流しながら、彼女の無事を喜んでいた。それを邪魔することができず、部屋に戻っていくのを見届けることしかできなかった。


 今朝早く、エミリアから届いた『お嬢様が突然姿を消した』という連絡に居ても立っても居られず、馬を走らせていた。二人が泊まっているという宿泊施設に着くとエミリアはすぐに街の方を探しに出かけていった。入れ替わるように、オリヴィアが海岸方面から帰ってきたのだが――まさか男と一緒だなんて。しかもガッチリと手を繋いでいる。正直……目を疑った。血の気が引き、青ざめていくのを感じた。追い打ちをかけるように“元婚約者”発言だ。――あの男の前で。だから、目の前でリヴィを思いきり抱きしめた。……見せつけてやるように。


 腕の中のリヴィに急にされた質問に驚いた。


『ねぇ。テオの幸せって、何?』


(……僕の、幸せ? そんなの決まってる)


『私の幸せはね、私の大好きな人たちが幸せでいることなの』


(……リヴィらしいな)


『だからね、テオにも幸せでいてほしい』


(それって……僕のことが大好きってこと?)


 リヴィの言葉の意味につい微笑んだ直後、リヴィはあの男と次の約束を交わした。幸せな微笑みは、一瞬にして消え去った。


 彼の背中を見送ったリヴィに向かって、先ほどの質問の答えを返す。


『――僕の幸せはね、リヴィを“いつも幸せ”にすること、だよ』


(僕にとって、リヴィ以外の幸せはあり得ないよ)


 だって僕は――君を守るためだけに生まれてきたのだから。

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