第15話 邪魔しませんよ?

 うっすらと目を開けると、見慣れぬ天井の模様が目に入ってくる。目を擦り、上半身を起こして周りを見回す。


(そっか。私、旅に出てたんだっけ)


 ベッドから降りると窓に近づく。カーテンの隙間から柔らかい陽射しが差し込んでいる。カーテンを端に寄せて窓を開けてみると、ふわりと吹き込んでくる潮風が気持ちがいい。朝日を浴びながら、目を閉じ、深呼吸する。懐かしい香りに心が落ち着く。


(ああ。記憶って、感覚にもあるんだ)


 前世の記憶が蘇る。私は港町に住んでいた。海辺からは少し距離のある場所に住んでいたので、普段はあまり風に匂いはしないけれど、雨の前には潮の香りが混ざる。私はその香りを感じるのが好きだった。


 宿泊施設の二階に位置する客室からまだ人通りも少ない街並みを眺めていると、道をぶらぶらと歩く一人の青年と目が合った。


「えっ?」

「あ……」


 お互いに目を見開き、固まる。彼は歩みも止めていた。あの人は――昨日の栞を拾ってくれた人だ。


「なんだ。やっぱり、お嬢様だったのか」

「なっ、何ですか? そんな言い方、失礼ですよ」

「ああ。ゴメン、ゴメン」


 また目の前で手を振ってみせた。あれは彼のクセなのだろうか。彼は体ごと私に向けると恭しく胸に手を当てて、まるで騎士のように礼をしてみせた。


「おはようございます。お嬢様、お早いのですね」

「ふふっ。変な人」

「何だよ? 失礼なのはどっちだ?」


 ムスッと怒ったように腕を組んだ青年に、プッと吹き出してしまった。何だか、昨日とは逆である。


「ごめんなさい」


 素直に謝ると、『これでお互い様な!』と言って、ニカッと笑ってくれた。ふと、彼が手に持っているものに視線がいく。その視線に気がついたように、彼がそれを持ち上げた。


「あー、今からちょっと行くとこがあるんだよな」

「“釣り”ですか?」

「えっ? “釣り”を知ってんのか?」

「ええ。それで魚を釣るんでしょ?」

「お、おぉ。よく知ってんな、お嬢様なのに」


 ――確かに。この世界で港町出身でもなく、屋敷のある城下町から出たこともないお嬢様が知っているような嗜みではないのだ。だから、彼が私の知識に驚くのも無理はない。でも、これはせっかく私に巡ってきたチャンスだ! 無視できない。


「私も連れて行ってくれない?」

「……へっ?」

「着替えてくるから、少し待ってて!」

「え……はっ? ちょっ、ちょっと!」


 私は窓を閉め、バタバタと急いで着替え、準備を整えると外に出た。未だに呆然と窓を見つめていた青年が施設の入口に現れた私に視線を移すと、一気に眉間に皺を寄せた。


「おい! 誰が連れてくって言ったよ?」

「言ってないから、勝手について行くわ」

「はぁーっ!?」


 満足そうにニッコリ笑うと、青年は頭をポリポリ掻きながら『ハァ』と大きく息を吐き出した。


「……邪魔すんなよ?」

「はい! 邪魔しませんよ?」


 青年はまた大きく息を吐いた。


「……ハリオス」

「えっ?」

「名前だよ、俺の名前! ハリオスっての。ハリーって呼ばれてる」

「そうなのね、私はオリヴィア。リヴィって呼ばれているわ。よろしくね、ハリー!」

「……あぁ、よろしくな……リ、リヴィ」


 顔を赤くして目を逸らして手を差し出す。


(なんだろう? 釣り場までエスコートしてくれるのかな?)


 差し出された手を取ると、ハリオスは驚いたように目を大きく開いて、繋がれた手を凝視した。

 その様子にオリヴィアが不思議そうに首を傾げると、彼はハッと目を瞬かせ、意識を取り戻し、どこかぎこちなく手を引いて歩き出した。


 まだ朝日が差して間もない道を海に向かって二人で歩く。 『そういえば……』とハリオスが口を開いた。


「旅行って、言ってたよな? ネーレイスは初めて来たのか?」

「ええ。そうよ」

「そっか。ネーレイスには何で? やっぱリゾートだからか?」

「うーん。海が見たかったから、かな」

「へぇ」

「釣りもしてみたい!」

「……えぇ……それは、やだな。俺、教えるのとかしたことねーし」

「大丈夫! 私、得意よ!」

「え? はぁ? 何いってんだよ?」


 口角を上げて、胸を張るオリヴィアになかば呆れ顔でハリオスは今日何度目かもわからないため息をついた。


「お嬢様ができるわけねーだろ?」

「経験者よ! ……たぶん」

「何だよ? たぶんって……」


 胸を張っていた割には、少しずつ自信が失われていく様子にハリオスは『プッ』と吹き出した。隣で笑い始めた青年にジロリと不満げな視線を向けると『悪い』と緩む口元を覆った。


 潮の香りが強くなり、景色が開けると、目の前はもう海だった。


「わぁ……海だ!」

「いつもあの桟橋から釣ってんだ」


 ハリオスが指を差した先には、こぢんまりとした桟橋が海の少し深いところまで続いていた。少しでも早く見せたいと先を急ぐように、繋がれていた手をグイッと引いて歩き出す。その背中にオリヴィアはドキリと胸が鳴った。


 テオ以外と手を繋いで歩いたことなど、今までになかった。そのことに気がついて、急に恥ずかしくなってしまった。それと同時にテオがどれだけ自分にとって特別な存在だったのかを思い知る。


 急に押し黙ってしまったオリヴィアの顔を、後ろを振り返ったハリオスが心配そうに覗き込んだ。


「どうした? 急に怖くなったのか?」


 悪戯にニヤリと笑うハリオスにオリヴィアは『そんなことありません!』と頬を膨らませて睨んだ。内心、本当に怖くなってしまったのかと心配していたが、オリヴィアの返答にハリオスは安堵した。


 桟橋まで来ると、先ほどまでの心配など無意味であったかのようにオリヴィアは、はしゃぎまくっていた。上から見える海藻や魚などに興味津々で、手を繋いでいなければ、すぐにでも飛び込んでしまいそうな勢いだった。ハリオスは苦笑いする。


(まさか、こんなに喜ぶなんてな)


 つい先ほどまでは連れてきたことを少し後悔したのだが、今では違う意味で後悔していた。――こんなに楽しんでしまっている自分に。彼女は旅行者で、ここには長くいないというのに。さらにはお嬢様だ。自分とは住む世界が違う。これ以上、深入りするのは危険だと。


「やった! ハリー!! また釣れたわ!!」


 釣りを始めてから、本当に経験者かと思うほどの実力を見せつけたオリヴィアが満足そうに釣り上げた竿の糸を持ち、針から魚を取ってと言わんばかりにハリオスの目の前にずいっと差し出した。


 その慣れたような仕草に苦笑いしながら、魚を針から取ると海水を張った袋の中に泳がせた。今日はもうすでに5匹いる。オリヴィアには釣りのセンスがあるのだろうか。それとも初心者が起こす奇跡のようなものか。ハリオスは肩を竦めた。


「そろそろ終わりにするぞー。お嬢様も帰んないとお付きの人が心配すんじゃねーか? 昨日、一緒にいたろ?」


 オリヴィアの顔が見る見るうちに青ざめる。その様子にハリオスはとても嫌な予感がした。


「えぇ……お前、もしかして……」

「……言ってくるの、忘れていたわ……」

「おいっ!! マジ勘弁してくれよ……」


 オリヴィアが宿泊施設を出てから、だいぶ時間が経っている。手早く道具を片付けると、ハリオスは慣れた手つきでオリヴィアの手を引いた。行きの速さの倍くらいの速度でスタスタと歩く。


 施設の前に近づくと、オリヴィアの足がピタリと止まった。もうすぐ着くというのに、何事かと振り返ると、オリヴィアの瞳はハリオスとは合わずに、その後ろをじっと見つめていた。


「なっ……なんで、ここにいるの?」


 オリヴィアが呟いた言葉にハリオスはその視線を辿る。その先には――宿泊施設の入口に腕を組んで立っている、一人の青年がいた。

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