第18話 聖女降臨の意味。
「ねぇ、テオドール様はどこにいらっしゃるの?」
聖女エレナの前には闇夜のごとく漆黒の髪を後ろにカッチリと固め、キラリと光るシルバーの縁取りの細い眼鏡をかけた男が、模範的姿勢で執務を淡々とこなしている。聖女の言葉に視線だけを向けた。
「神殿にはいないようですけど。どこに行っちゃったのですか?」
聖女の質問に手を止め、筆を置くと、人差し指でくぃっと眼鏡を押し上げる。
「神殿以外の仕事もございますから。彼は上位神官です。暇ではないのですよ」
また筆を執ると、滞っていた執務に戻った。
――神官長ケイレブ・プレストン。彼は今、早朝に出かけたテオドールの代わりに、聖女の教育係をしている。意識は聖女に向けたまま、視線は手元の書類に落とす。
――上位神官テオドール・ハンネス。
彼が優秀なのは分かっている。神官になってから半年もかからずに上位神官になってしまった者だ。それ以前に、彼が神殿に来たときから知っている。その時はまだ神官長ではなかったが、先に神官長となった同期のイシュメルの養子になったからだ。彼の神聖力はかなりのものだと聞いていた。
実際、彼に会い、それは単なる噂だけではないことを確信した。彼の神聖力は――神から直接加護を受けたものだ。彼は何か別の役割を遣わされている可能性が高い――
そう考えていたケイレブはテオドールに対して、世話を焼きたいと以前からずっとウズウズしていたのだが、全く変わらない表情と態度に彼のそんな胸の内を周囲の誰も気づいていなかった。――大神官アルフレッドと神官長イシュメルを除いて。
今回、急ではあったがテオドールの代わりを務められることに喜びを感じていた。それもテオドール本人から直接頼まれたとあれば、心も踊る――表情は一切、変わらなかったのだが。
神聖力を視ることができるケイレブはその能力もさることながら、真面目、努力家の一面も持っており、天才肌のイシュメルと相対して、堅実に着実に段階を踏んで神官長まで上り詰めた人物である。
友人であり、同期でもあるイシュメルの数少ない心許せる同志だ。
神殿には公にできない言い伝えが多く存在する。時の大神官と神官長だけに口承されてきた。そのうちの一つが今、まさに自分の時代に目の前で起きている。これは由々しき事態だ。神官長二人は、頭を悩ませていた。
『数十年に一度、異世界から聖女が舞い降りる。
その災いの種をまくのは、その聖女自身――』
今、目の前にいる聖女は“災いの種”なのである。さっそく見事にテオドールの邪魔をしている。聖女の怠惰な生活に彼の神聖力と時間を無駄に使わせていた。彼はとても優秀な神官だ。神殿の仕事も多く任されていた。聖女が指名したことで、専属神官となり、彼が請け負っていた神殿の仕事が遅れ始めてしまった。彼の代わりに二人の神官を配置したというのに。彼の基本的な能力は、神官二人をもってしても足りない。
聖女の災いは、その時々で違っている。
ある時は聖女の知識の取り合いが激化し、国中が荒れた。またある時は聖女の美しさで取り合いが始まり、王家も巻き込み、殺し合うようになった。直近では50年前に降臨があった。その時の聖女は――
「テオドール様はいつ戻られるのですか?」
ただでさえ仕事が捗らないというのに。有り余るほどの神聖力を持っていながら神殿や人々のために使わず、そのほとんどをテオドールに向けるなど。――なるほど、“災いの種”とは納得だ。
大神官様から話を聞いた後、テオドールには保護の加護がかけられた。具体的に言えば、イシュメルがテオドール自身の身体に聖女の神聖力からの保護をかけ、聖女から切り離すことができるようになったところで、ケイレブが聖女自身の神聖力を制御する加護をかけた。
神聖力の強い者は神の代理とされ、加護をかける力を与えられている。ほどんどの神官は神殿で神に祈りを捧げ、鍛錬することで少しの加護を与えられるのだが、テオドールやイシュメル、ケイレブのように加護の力を生まれ持った者もいる。――この時代に降臨した聖女もまた強力な神聖力を持っていた。そのため、テオドールの神聖力をもってしても同等、あるいはそれ以上の力を持つ聖女から自分の身を守ることしかできなかったのだ。大神官や神官長に助けを求めることさえも難しかった。
聖女がそれらを無意識でしていることが幸いし、未だ彼の存在が感じ取れなくなったことの理由を追及することや、それに対抗する力を放出する素振りはみられない。聖女が本格的に神聖力について勉強し始めたら、厄介なことになるのは間違いない。
今のところは児童文学書や巷で流行りの本などを読むことが精一杯のようで、日中の時間をほぼそれに費やしている。ただテオドールから報告があった通り、覚えが良い。このままでは難しい神殿の書物などもそう遠くないうちに読めてしまうだろう。
そうなってしまえば、本当に厄介だ。今、自分が聖女にかけている加護も、イシュメルがテオドールにかけている加護もすべてバレてしまう。
だから――今はまだ本に現を抜かしておいてもらうのが一番だ。
「そうですね……私には分かりかねますが」
聖女の顔が歪むのを見て、補足した。
「聖女様に本を探してくると言っておりましたよ」
その一言に聖女は満足そうに目を輝かせた。
◇◇◇◇
「……なんで?」
「え……何が?」
オリヴィアの一言にテオドールは首を傾げた。
辺りをオレンジ色に染めていた夕日は、少し前に海の彼方に沈んだ。店の灯りや街灯がポツリポツリとついているので歩くのには困らない。
“リゾート”というだけあって、街中はまだまだたくさんの人で賑わっていた。
先ほどまでオリヴィアと婚約解消の理由について話していた。そして、その理由が以前、聖女に言われた“悪役令嬢”という言葉を真に受けていたからだということを知った。
(リヴィが悪役令嬢なわけ、ないだろ?)
聖女からその言葉を聞いたときも腹が立ったが、その言葉がリヴィを苦しめていたことに更に怒りが増す。オリヴィアを抱きしめている腕に、自然と力が入ってしまった。
朝や昼間とは違って、薄暗い中に灯る淡い街灯と店の灯りはどこかロマンティックな雰囲気を醸し出している。その中で抱き合っている男女がいても、誰も目に留めはしない。抱きしめていたオリヴィアがテオドールの胸の中でポツリと呟いた。
「何で……テオは、私が言ってほしい言葉を、私が言ってほしい時に言ってくれるの?」
「それは……リヴィのことをずっと近くで見てきたからだよ」
下から見上げるように顔を覗き込むリヴィに悶絶しそうになる。大きく深呼吸して、平静さを保ち、優しく微笑んでみせると、オリヴィアはどこか安心したように笑った。抱きしめていた腕を解き、また手を繋ぎ直す。そして、二人は夕食を取る店を探しながら、ゆっくりと歩き出した。
「そういえば、神官のお仕事は平気なの?」
「え、あっ、あぁ……」
テオドールは気まずそうに頭を掻いた。今朝早く神官長であるケイレブの元へ駆け込み、聖女の神聖力を抑えてもらって、自分の代わりを頼んできた。表情が変わらず、真顔で『承知した』と一言だけ低い声を発したケイレブにテオドールは思わず苦笑いしてしまった。
凄い人だということは、持っている神聖力からも分かるし、尊敬できる良い上司だ。ただ何を考えているのか読めず、表情も変わらないため、少し苦手である。しかし、彼の力を借りなければ、ここには来られなかった。だから――心から感謝している。
「ケイレブ様が代わってくれたから……」
「えっ? あの、ケイレブ様が!?」
驚きを隠せないという顔をするオリヴィアについケイレブにしたのと同じ苦笑いを向けてしまった。確かに快く笑顔で引き受けてくれるようなタイプではない。オリヴィアの驚愕の大きさは理解できる。
「うん。でも、あの方は……たぶん良い人だよ」
「うん。それは、私も分かる。ちょっと不器用な人なんだよね」
にっこりと笑ったオリヴィアに、テオドールは顔をほころばせた。――オリヴィアのこういうところが好きなんだ、と。
目星をつけていたであろう店に着くと、キラキラ瞳を輝かせて『ここはどうかなぁ?』と聞いてくるオリヴィアに、緩んだままの顔で『もちろん。いいに決まってる!』と、テオドールは微笑み返した。
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