第13話 覆面作家の逃走。
海の見える街並み。潮風が気持ちがいい。
オリヴィアは目を細め、両手を広げて、風の香りを思いきり吸い込んだ。
「はぁ〜、気持ちいいっ!」
最近のジメジメ、モヤモヤした気持ちが、一気に晴れ渡っていくような青空が続いている。
何もかも忘れて、しばらく旅に出ることにした。もちろんエミリアも一緒だ。そして何か執筆の題材があるといいなぁ、なんていうのも期待しつつ。
あのまま家にいたら、きっといつまでもモヤモヤと婚約を解消したことを思い返してしまうだろう。せっかく踏ん切りをつけた気持ちがまたぶり返してしまいそうで。環境を変えて、気持ちを切り替えたかった。
馬車に揺られて到着したのは南に位置する海岸沿いのリゾート地。なかば浮かれ気分で白い帽子に、白いワンピース、そして、極めつけに真新しい白い靴を身に着け、海沿いの綺麗に舗装された道をまるでステップでも踏み出しそうなほど軽やかに歩く。
どこかで聞いたことがある。素敵な靴は、素敵な場所に連れて行ってくれる、と。
まさに今、自分の目の前には、求めていた素敵な場所が広がっている。オリヴィアは心躍らせた。
海――といえば! あのお姫様の物語!
(あれ? ちょっと待って。確かあの物語のお姫様は王子様と結婚できないと消えてしまうというものじゃなかった? ……と、いうことは――あの“私の物語”は二つの物語のハイブリッドってこと!?)
いや、二つどころではないかもしれない。色々なお話が少しずつ混ざっている。
――なんて、恐れ多い……我が物語。
そして、それだけではなく、前途有望なうら若き青年のファーストであろうキスを奪うという大きな罪を背負ってしまった。――まさしく“悪役令嬢”の所業である。願わくば、あれが彼のファーストではなかったことを祈ろう。
前世の記憶がある私はこの世界では初めてだったのだが、他の経験も記憶があるから心は複雑だ。
弾んで浮かれきっていた気持ちがしゅるしゅると萎えていく。隣で私の百面相を見ていたエミリアが眉をハの字にした。
「お嬢様……感情の起伏が激しすぎますよ。心配になります」
小さく息を吐き出すエミリアにいつもの苦笑いを返すと、どこかホッとしたような表情に変わった。
「そろそろお昼にしましょうか」
エミリアのひと声にパァッと瞳を輝かす。
ここ、港町ネーレイスは、私たちの暮らす城下町カルディアから馬車で半日ほど離れている。休暇を楽しむリゾート地であり、港町だけあって海産物が美味しいと有名だ。
実は前世で港町に住んでいた私にはピッタリの、心が落ち着く場所だ。――ここに来たのは初めてなのだけど。
絶対に新鮮な海の幸を堪能するぞ、と意気込んで歩いていると、不意に後ろから声をかけられた。
「おい、ちょっと!」
(えぇ? これって、もしかして……何かのお誘い? 私って、そんなにホイホイ付いて行くような軽い感じにみえるのかしら?)
――それはそれで、何か癪だな。
そんなことを考えて無視していると、ついにトントンと肩を叩かれた。思いきり顔をしかめて、睨みつけるように振り返ると、私のその顔に驚き、真顔で目を見開いた青年が立っていた。
その顔が見る見るうちに歪んでいく。――ついには『プハッ』と吹き出して笑い始めてしまった。
(なっ、何て失礼な! 人の顔を見て笑うなんて)
ますます眉間のシワが深くなる。その様子に気がついた青年は片手でお腹を抑え、もう片手を口元に当て『悪い、悪い』と言いながら、チラリとこちらに目を向けた。そして、お腹を抑えていた方の手に握られていたものをずいっと押しつけてきた。
「な、何ですか!?」
「コレ。落としたよ。君のだろ?」
「えっ??」
それは――確かに私のものだ。
浮かれきっていた自分を殴りたくなる。恥ずかしさのあまり顔が急速に赤くなっていくのを感じた。落としたことにも気がつかないなんて。さらには、ご親切に拾ってくれた人に向かって、在らぬ疑いの目を向けてしまった。……本当に恥ずかしすぎる。――穴があったら入りたい、とはこのことか。
「あ、ありがとうございます……」
「いや、いいよ。こちらこそ、おもしろいもの見せてくれて……くくっ、ありがとう」
「??」
未だに笑いを堪えたような顔で、片手を振った。彼は気合いを入れるように一度、ピシッと両頬に手を当てると顔を引き締めた。
「ここには旅行で来たの?」
「え? ええ。まぁ……」
「そっか。じゃ、気をつけて観光しろよ〜」
その青年は大きく片手を上げてヒラヒラとさせながら海岸方面へと歩いていってしまった。
(……おもしろいものって、何だったんだろう? 私の顔か? それとも……コレが?)
あっという間に見えなくなった背中の先を、ぼんやりと見つめていると、エミリアが『お嬢様?』と顔を覗き込んできた。
「何を落とされたのです?」
「え? えっとね……」
私の手の中にはたった今、拾ってもらったばかりのものが握られていた。特段、おもしろいものでも何でもない。そっと手のひらを開いて“それ”を見せると、エミリアが目を見開いた。
「お嬢様……それは……」
「ダメね、ずっとこれを持ち歩いてるなんて。でも落としたってことは……やっぱり早く忘れてしまうべきなのかも」
ヘラリと笑って見せるがエミリアを誤魔化せないのはもう分かっている。辛いときは泣いていい、と言ってくれた。――また私に胸を貸してくれるだろうか? ……決してやましい意味じゃなく。いや、役得だけれども。
――私にとって特別なもの。大切な“押花の栞”。
テオと初めて出会った日。私は泣き出したいのをグッと我慢していた。神殿に通い始めてからも時々、この世界の言葉と前の世界の言葉が入り混じってしまい、好奇の目に晒されていた。例え神官であったとしても所詮、同じ人間。自分の理解の範疇を超えるものは気持ち悪いと思うのだろう。
ため息を殺し、俯いている私の鼻にふわりと甘い花の香りがした。不意に目の前に現れた綺麗な紫色の花。その後ろには、同じ色をした瞳がキラキラと輝いていた。
『あげるよ』
テオがくれた花。――“ルピナス”の花。
『この花の意味、知ってる?』
無邪気に笑う男の子に、しょぼくれ顔のまま首を横に振った。私が知らなかったことを知ると得意げな顔をして教えてくれた。
『“いつも幸せ”って、意味なんだよ!』
まだ幼い姿のテオを思い出す。そして、半年前に婚約した頃のテオも思い出した。
『これからは毎日、幸せにするから』
そう言ってくれた今のテオの姿。
私は彼の優しさに守られてきた。いつも私に幸せをくれた。いつまでも彼に甘え続けるわけにはいかない。
あの物語のお姫様も。王子様の幸せを願って泡になるのではなく。王子様の幸せを遠くから祈りながら、地に足をつけてまだ見ぬ世界へ駆け出したっていいじゃないか。
――よし、次回作はそれでいこう!
新しい題材も無事に決まり、複雑な現実から逃走中だった覆面作家は、今度こそこの世界の地に足をつけて歩き始めた。
まさか、この新しい物語が、新しい災いを持ってくるとは夢にも思わずに。
美味しそうな匂いにつられて、ふらりと入ってしまったレストランで、どこか少し幸せそうな呆れ顔の侍女とホクホクと満足げな顔のお嬢様は希望通りの新鮮な海の幸に舌鼓を打っていた。
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