第10話 彼と彼女の関係。

「テオドール様からその手を離しなさいよ!」


 手を繋いだままだったことに、ハッと気がつく。離そうとしたその手はテオによってまだガッチリと掴まれたままだ。睨む聖女の視線が痛い。心の中で『ひぃぃ』と小さく悲鳴を上げているとテオが口を開いた。


「申し訳ございません、エレナ様。彼女と二人きりで、もう少しだけお話しさせていただけますでしょうか? 婚約解消の件について、細かい話が色々とございますので」


 テオは『早く話を進めたいでしょう?』とエレナにニッコリと笑いかける。オリヴィアは自分の隣にぴったりとくっついて座る彼のその笑顔にチラリと目を向ける。そして、気がついた。執務室での違和感に。――これは仮面だ、と。


 そのテオドールの笑顔と回答にエレナは少し不満げな顔をしたが、頷いた。


「分かりました。昼休憩が終わるまで待ちます」


 そういうと執務室の方面へと戻っていった。

 聖女の姿が見えなくなると、テオドールは改めてオリヴィアに向き合い両手をギュッと握りしめた。


「リヴィ。今までのこと、ちゃんと話したい」

「……うん」


 テオが眉間にシワを寄せて、『今までごめんね』とシュンと肩を落とした。

 彼の話を聞く気はある。でも今、私の頭の中には先ほどの“悪役令嬢”という不穏なワードがこだましていて、話の内容に上手く集中できない。


 テオが一生懸命、今までのことを説明してくれている。聖女が現れてから神官たちが聖女を持て囃し、傲慢になってしまったこと。同じ歳ということから、心を寄せられてしまったこと。自分にはその気がないけれど、聖女の機嫌を損ねないよう無下に扱うことができないこと。


 それらはすべて理解できている。話も耳に入り、頭で分かってはいる。――けれど……


 私の頭の中は“この世界が何なのか”でいっぱいになっていた。もしも聖女が言ったとおり、私が何らかの物語の悪役令嬢であったのなら。テオに無理やり婚約を継続させることは破滅フラグへ一直線だ。――これは、じっくり考えたほうがいい。


「……ということだから、リヴィ、婚約解消はしない、ということで――」

「――待って!」


 すべてを話し、スッキリした表情のテオを真顔で見つめ、制止する。それに対し、テオの表情は少し驚いたものへと変化する。


「リヴィ、どうしたの? 突然……」

「婚約解消をなしにするのを保留にしてほしい」

「え……ちょ、ちょっと……待って、リヴィ?」


 握られている手に力が込められる。……少しだけ痛い。でも心の中のほうが、何倍も痛かった。


「少し……時間をちょうだい?」


 すっと立ち上がり、繋いでいた手を離す。ギュッと握られていたはずの手が思いがけず、すんなりと解けたことに、ふぅと息を吐き出した。


「まっ……待ってよ、リヴィ! それって、どういうこと?」


 きっと、考えもしなかった展開だったのだろう。呆気にとられたテオがハッと我に返り、私の腕を引くのに少しの間があった。


「ごめんね、テオ。今は上手く説明できないの」

「えぇ……? リヴィ……」


 テオドールは、まるで空っぽになってしまったような顔で、その場を立ち去るオリヴィアをただぼんやりと見送っていた。



 ◇◇◇◇



「お嬢様!? どうなさったのですか!」


 ふらふらと覚束ない足取りで屋敷に戻ると、その様子に驚いた侍女のエミリアが、慌てたように駆け寄ってきた。――少し前にも、こんなことがあった気がする。


「なぜ最近はいつも神殿からお戻りになると、そのような状態になってしまうのです?」


 エミリアの顔がこわばっていく。心配させまいと微笑んでみせるが、余計にこわばらせてしまった。話題を変えるべく探していると、ふとテオが言っていたことを思い出した。


「ねぇ、エミリア。テオから手紙を預かっていないかしら?」


 その一言にエミリアは目を大きく見開いた。その様子で既に見当がついてしまった。私たちの事情を知っていた彼女が意図的に私に見せなかったのだ、と。


 エミリアは俯くと、前ポケットに手を突っ込む。そして、少しよれてしまったそれを取り出すと、頬を膨らませて怒ったように言った。


「婚約解消などとお嬢様に伝えて、あのような状態にさせたテオドール様を許せなかったのです」


 その手紙に視線を向けず、『お嬢様には申し訳ないことをしたと思っております。本当に申し訳ございません』と手渡してきた。


 別に責めるつもりはない。エミリアはきっと私の代わりに怒ってくれたのだ。そして、その柔らかい豊満な胸の中で思いきり泣かせてくれた。それには本当に感謝している。……正直、役得だとも思っている。


 手紙を受け取ると、さっそく封を開けた。


 見慣れたテオの綺麗な文字に、自然と頬が緩む。彼は本当に綺麗な文字を書く。まるで文字に神聖力が宿っているかのようだ。オリヴィアはそっとその文字列をなぞった。


『――突然のことに驚いたと思う。驚かせて本当にごめんね。婚約解消なんて絶対にしないから、安心して待っていて。聖女様のことは何とかするから。だから、僕を信じて――』


 文字からでも伝わるテオの優しさと誠実さ。目に浮かぶ彼の笑顔。でも今日は、その顔を驚いたものにしてしまった。――テオには、本当に悪いことをしたと思っている。


 反省すると同時に、今、考えるべき難題が目の前に浮かんできた。


 ――“この世界は、何なのか?”


 万が一ここが……何らかの物語の中の世界だった場合、テオの婚約者である私は、聖女様にとっての“悪役令嬢”のポジションであるのは確かだ。


 ――そうだとして。その場合、その“悪役令嬢”はどうしたらよいのだろう?


(大抵の場合は悪役令嬢が婚約者の攻略対象に執着しすぎるあまり、主人公と婚約者との仲を引き裂こうと意地悪しすぎてしまって、断罪されたり、婚約破棄されたり、最悪、処刑されたりするのよね?)


 ――ならば、テオとの婚約は解消した方がいいのかもしれない。


 そんなことをぐるぐると頭の中で考えていると、


「……申し訳ございませんでした……お嬢様」


 私の後ろからテオの手紙を覗いていたエミリアが小さな声で謝ってくる。その顔色は驚くほど青い。オリヴィアはびっくりして目を瞬かせた。


「エミリア!? すごく顔色が悪いわ!」


 今にもガタガタと震えだしそうな身体を、そっと撫でるとホロリと涙が頬を伝う。オリヴィアはどうしていいのか分からず、オロオロと戸惑った。


「お嬢様。私はとんでもない間違いを犯しました。大変申し訳ございませんでした!」


 ガバッと頭を両膝にくっつけそうなほど下げる。私は訳が分からず、さらに戸惑う。


「なっ、どうしたの? エミリア?」


 エミリアはポケットからハンカチを取り出すと、自分の涙を拭いながら、


「婚約解消は間違いだったのですね……それなのに私は勘違いをしてしまって……お嬢様をさらに長い期間、苦しめてしまいました。私がもっと早くこの手紙をお渡ししていれば……グスッ」


 エミリアはさらに激しく泣き出す。どう声をかけていいのかも分からない。だから私は今の私の考えを彼女に聞いてもらうことにした。ちょうど誰かに聞いてもらいたかったのだ。

 ――私のした、決意を。


「ねぇ、エミリア。私の話を聞いてくれる?」


 顔を上げたエミリアにニッコリと微笑む。未だにハンカチをギュッと握りしめている両手を引いて、ソファに座るよう促す。


「私ね、婚約を解消しようと思うわ」

「……え……?」


 涙は止まり、その代わりに開いた口から疑問の声が発せられる。


「……どういうことでしょうか?」

「うん……テオとの婚約を解消するってことよ」

「なっ……なぜなのです!? そんな必要ございませんのに!」


 テオに救ってもらった私の未来を、今度は私自身の手で守るために。私が選択したのは――テオとの“婚約解消”という“結果”だった。

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