第5話 ささやかな抵抗。
「うっ、うーん……」
目を覚ますと目元がひんやりと冷たい。目をゆっくりと開くが真っ暗だ。手で目元を探ると、濡れたタオルが置かれていた。
タオルを外し、窓の外を見ると庭の草花に朝露がキラキラと輝いていた。夕暮れ時だったはずの景色が一変していることに驚き、目を見張った。
「おはようございます。お嬢様。お目覚めになられていらっしゃったのですね」
そっと入室してきたエミリアが微笑む。
泣き疲れて眠ってしまうなど……まだまだ子どもだな、と苦笑いしてしまった。
思いきり泣いたのが功を奏したのか、昨日のジメッとした気持ちが今はとてもスッキリとしている。
(泣くって、凄いことなんだな。心が洗われるって、きっとこのことなんだろうな)
顔を洗い、着替えをすると、朝食を摂りにダイニングルームへと移動する。そこには既に父と母の姿があった。
「おはよう、オリヴィア」
「もう具合は大丈夫なの?」
両親が心配そうに私の様子を伺う。
それもそうだ。私の記憶は夕方以降、プッツリと途切れている。そのまま眠ってしまって夕食を摂らなかったのだ。心配したに違いない。
「大丈夫です。たくさん寝てしまいました……」
ヘラッと笑うと、二人はホッと安心したように優しく微笑んだ。
(そういえば、昨日の婚約解消の件。二人にはどう伝わっているの? テオからの手紙をお父様はもう受け取っているのかしら?)
「あの……お父様。テオから手紙は受け取っておりますか?」
「テオドールから? オリヴィアにではなく、私宛に……ということか?」
「ええ」
「いや。何も受け取ってはいないが……何かあったのか?」
「いえ……そうですか……」
(昨日の今日だし……テオはきっと忙しいものね)
一人でウンウンと頷き、納得していると、両親は怪訝な顔で首を傾げていた。
朝食を終えて、部屋へ戻ると、エミリアがお茶を用意しながら話し始めた。
「そういえば最近、執筆されておりませんよね?」
エミリアの言葉に『ええ、そうね』と返す。
実は――私は、正体不明の謎多き作家“オーリー・E・ヘニング”として執筆活動をしている。
始まりはこの世界の文字を書けるようになった頃のことだった。
幼い頃から私の頭の中には前の記憶が溢れ返り、幼すぎた私はそれに対応しきれず、意味不明な言葉を喋りまくっていた。
そのため神殿へ通っていたのだが、それでもどうしようもなかったとき、字が書けるようになったのを期に、頭の中の事を吐き出すように書きなぐっていた。その本と見せかけたメモをエミリアが偶然、読んでしまったのだ。
読書が趣味で出版社勤務の親戚がいるエミリアは早速それを売り込んだ。お試しにと読んでもらうと手直しされ、あれよあれよと言う間に出版されてしまった。
それこそ最初は覚えているかぎり、童話なんかを書いていたのだけれど、最近では前世の人生を題材とした恋愛小説なんかも書いている。
別に特別すごい人生を送っていたわけじゃない。平凡な人生だった。『こんなの、誰が読むんだろ?』とも思ったが、需要はあるらしい。あちらの世界で平凡でも、こちらの世界では新鮮に映るのだ。
前作は午前0時の鐘が出てくるあの物語を題材とした恋愛小説だった。
この世界で“午前0時”といえば、神殿の鐘の音は切り離せない。この世界の時計の概念は前の世界と同じだ。ただここでは、午前0時と午後0時に12回の鐘が鳴る。神殿の大神官様いわく昼と夜のリセットをするためらしい。
だから、舞台はお城ではなく神殿。主人公の恋のお相手は王子ではなく神官。
そして、その物語は――“私の物語”だった。
前世の色々な記憶と共にこの世界に転生された時のことも思い出した。神様にこの世界で生きるための条件を出されていた。
それは18歳の誕生日の終わりまでに愛する人からキスを貰うこと。それが叶わなければ、私はこの世界から消えてなくなってしまう。
どこかで聞いたことがあるようなお話みたいだけれど、これは半年前、私の身に実際に起こった現実だ。
もうすぐ誕生日を迎えるというとき、愛する人を見つけられるとは到底思えなかった私は、既にその先の人生を生きることを諦めていた。だから、この世界で悔いのないように生きようと。
前世での記憶もあるから、もう充分すぎるくらい生きた気がするし、この世界に来てから余分に18年も生きられたと思えば、大往生だ。そして、最後にと選んだのが“私の物語”の執筆だった。
18歳の誕生日。最後にテオに会いにいかなかったことを後悔していると、どうやって知ったのか、私の書いた本を片手にテオが部屋に飛び込んできた。
テオに自分でも知らないうちに恋をしていたことに気づかされ、彼のキスによって、この世界からの消滅を免れた。
テオはその後すぐにイシュメルを連れて、正式に婚約を申し込みに来た。まだ神官見習いだった彼は両親に文句をつけられないよう持ち前の神聖力で、あっという間に上位神官となった。
テオと婚約した私は執筆活動をお休みしていた。一区切りついたという感覚もあったのだが、無事に嫁ぎ先が決まり、自分自身で生計を立てる必要がなくなったというのも大きい。
しかし、今回の婚約解消でまた自分で生計を立てていく必要が出てきた。まぁ、子爵家の一人娘なのだし、選り好みしなければ貰い手くらいいるのかもしれないが、手に職は大事なことだ。それは前世も含め、痛感している。
その点、エミリアに発掘され、開花させてもらったこの執筆の才能は本当にありがたい。
前世での人生含めて、色々と今までのことを思い返していると、ふと題材が頭をよぎる。
「新作を書いてみようかしら?」
(どうせなら、今まで書いたことのないような何か刺激的なものを……そうだ!)
――もしかすると、この世界でも通用するかも!
新作のテーマが決まり、早速、机に向かった。
カリカリという紙とペン先が引っかかる音だけが部屋の中に鳴り響く。
書いているときは忘れたいことを忘れられる。
頭の中は溢れ出す前世の記憶とそれを文章として構築するための言葉の数々が次々に浮かんでくる。
半年ぶりの感覚に夢中になっていた。
◇◇◇◇
エミリアはテオドールから預かった手紙を未だ渡さずにいた。これは彼女のささやかな抵抗である。
エミリアは気づいていた。自分が仕える主が自分自身の想いに気づくよりもずっと前に。
オリヴィアのテオドールに見せる笑顔と、彼女の専属侍女である自分に見せる笑顔の種類が違うことを。常日頃それに嫉妬を覚えていた。だから今回、大切な主をどんな事情があったにしても、こんなに泣かせた彼にお仕置きを与えなければ、気がすまなかった。
幼い頃からオリヴィアに付いていたエミリアは、彼女が苦しんでいることを知っていた。
この国の言語とはかけ離れた言葉を話し、神様に祈りを捧げるため、毎日のように神殿に通い、時に異質なものを見るような嫌悪感を向けられ、気持ち悪がられ、彼女がだんだん心を閉ざしていくのを、一番近くで見ていた。ただ、側で……見ていることしかできなかった。
――何もしてあげられなかった。
そのうち、この国の言葉を話せるようになると、彼女はもう既に精神が成熟していた。――その年齢わずか5歳。専属侍女である自分にさえ、向けらる笑顔は“苦笑い”。
その頃、神殿で出会ったのがテオドールだった。彼はオリヴィアの心を救った。オリヴィアを心から笑顔にさせられるのはテオドールだけだった。
――それなのに……今さら婚約解消だなんて。
ある日、オリヴィアの部屋の掃除をしていて書棚から本を落としてしまった。開いたページを見て、驚愕した。すべて彼女が書いた物語だった。見たこともない、聞いたこともないものばかり。そして、何よりその棚すべてがそれだったのだ。
あんな小さな少女の頭の中に、あれほどの物語が詰まっていた。どんなに苦しかったことだろう。
その本をひとつひとつなぞると涙が溢れた。
この苦しみを、何とか喜びに変えてあげることはできないだろうか。
そう考えたら止まらなくなっていた。半ば、暴走気味に許可を取り、出版社勤務の親戚に読んでもらうと、思ったとおり出版までこぎつけた。
侮るなかれ、伊達に読書家を名言してはいない。
あれよあれよという間に、今では有名作家の一人だ。
執筆活動を再開し、黙々と机に向かうオリヴィアに自然と頬が緩む。時々にやにやと顔を崩しながら夢中で書いている主が可愛くて仕方がない。
エミリアはオリヴィアが好む軽食をズラリと用意し、香りのよい紅茶を淹れる準備に取りかかった。
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