第4話 幼馴染みの憂鬱。
「テオドール様の婚約者って、どんな人ですか?」
オリヴィアに会えなくなって1ヶ月が過ぎようとしていた頃。突然、エレナがテオドールの婚約者について質問してきた。
最近、児童書であれば割とスムーズに読めるようになったエレナはテオドールの執務室で、その本に落としていた視線を別の仕事をしている最中の彼に向けた。
「そうですね……ごく普通の女性ですよ。そこまで仲が良いわけではありませんが」
これ以上、オリヴィアに興味を持たれては彼女の身が危険にさらされそうな気がするし、何よりも巻き込みたくなかった。彼女を守るという意味でも、咄嗟に“そんなに仲が良くない”と言ってしまった。
(本当はこんなこと、嘘でも言いたくないけど)
「確かに……テオドール様、いつも私と一緒で婚約者様のところには全然、行ってないですもんね」
満足げに微笑む顔に苛立つ。……が、そんな顔を表には一切出さず、涼しげな顔で“ええ”と、微笑んでみせた。
エレナと会話するため、一時的に止めていた仕事の手を再び動かそうとした、次の瞬間――
「それなら、その方と婚約破棄しても問題ないですよね?」
「……は?」
俄には信じがたい言葉に、取り繕えていない低い声が胸の奥底から漏れ出てしまった。そんなことには全く気づかず、お構いなしにエレナは続ける。
「テオドール様。その方と婚約破棄して、私と婚約してくださいっ!」
「えぇっ……?」
ニッコリと笑うその顔に、ゾクッと背筋が凍る。
この1ヶ月間、自分を含めた神官たちがこぞって持て囃した結果、聖女を傲慢な人間へと変えてしまっていたのだ。――自分が望めば、どんな願いでも必ず叶えてもらえる、と。
「今すぐその方を呼び出してください。
従わない選択肢はなかった。すぐにオリヴィアに自分の執務室へ来るように伝えた。しばらくして、執務室に来訪者を伝えるノック音が響いた。
約1ヶ月ぶりに会えた愛しい婚約者。
執務室に入ったオリヴィアの顔が驚愕に満ちていくのを、心臓を鷲掴みにされ、鼓動が止まりそうになるような感覚を覚えながら見つめた。
自分の腕を掴み、ピッタリとくっつく聖女に恐怖さえ感じた。聖女が纏わりつく左腕の感覚はまるで氷のように冷たかった。
――オリヴィアと関わらせてはいけない。
何故か……そう、感じていた。
『リヴィ。悪いんだけど……婚約を解消してくれないか?』
(リヴィを巻き込みたくない。……守りたいから)
――この心の中の声が、伝わればいいのに。
オリヴィアが呆気にとられたかのようにポカンと口を開いた。その光景に心が痛み、目を細めた。
『テオドール様がそうおっしゃっているのだから、あなたも素直に応じたらいかがかしら?』
追い打ちをかけるように聖女が発した言葉に一気に怒りが込み上げてきた。
思わず、左隣に座っている聖女を睨みつけそうになった瞬間、向かいのソファに一人ちょこんと座るオリヴィアと視線が合った。彼女の澄んだ瞳に自分の心の中の黒く燃え盛る怒りの炎を見透かされそうで、彷徨わせた視線を床に落とした。
『えっと……婚約は家のことでもあるので、両親を交えてまたお話させていただいても?』
愛する婚約者の愛らしい声が、黒い霧に覆われたテオドールの心を浄化するように響く。
『た、確かにそうだ。リヴィの家は子爵家だからね。そういうところはしっかりしないといけない。あとでご両親に僕から手紙を書くよ。だからリヴィはそれまで待っていて。……ということで、いいかな? エレナ様』
その答えで、“構わない”と頷いた聖女に安堵し、ホッと息をつき、唇を軽く噛み締めて、何度も小刻みに頷いた。
(そうだ……皆に協力を仰ごう)
自分の周りにはオリヴィアのことも自分のことも大切に思ってくれている人たちがいる。今は、その人たちに頼ってもいいのではないか? 一筋の光が見えた気がして、満足げに微笑んだ。
執務室の窓から、覚束ない足取りで、ふらふらと帰っていくオリヴィアの後ろ姿を見えなくなるまで見つめていた。
愛する婚約者に心にもないことを吐いてしまったことに、胸が押し潰されそうだった。本当ならすぐにでも駆けつけて、この腕の中に彼女を閉じ込め、耳元で愛を囁きたかった。
(リヴィのあんな顔、見たくなかった……)
だからあの後、何とか“隙き”を作り、彼女の屋敷に来ることができた。“ちゃんと説明しよう。リヴィなら、きっと分かってくれる” と。
オリヴィアは時々、実年齢よりも遥かに大人びて見えるときがある。今回のことも、あっさりと了承されてしまいそうで怖かった。
だから、この部屋に入ったときの衝撃は想像以上に自身の胸を高揚させた。
いつも冷静でどこか達観している彼女があんなに自分との婚約解消を悲しみ、泣き果てて眠ってしまうなんて。……誰が想像できただろう?
『お嬢様を苦しめる必要、ありますか?』
その質問に、
「違うよ、エミリア。苦しめたくないから、だよ」
テオドールは愛しい婚約者の髪を静かに手に取ると、優しく口づけた。眠る彼女を起こさぬように。
――約13年。
ずっと“幼馴染み”という枠組みから脱却できずにいた。半年前、ようやく彼女と想いを通じ合わせ、念願叶って、婚約することができた。
……というのに。
聖女エレナが現れたことにより、幸せだった日々の全てが変わってしまった。
テオドールは憂鬱そうにため息を吐き出した。
なかなか目を覚まさなかったオリヴィアに手紙を残し、神殿へと戻ってきた。隙きをついて出てきたため、そこまで時間が取れなかったのだ。
(もっと早く……こうするべきだった)
最初からオリヴィアに全てを話していれば、あんなに悲しい想いをさせずに済んだのに。
――という想いと、正直、あんなにオリヴィアに想われていたのかと再確認できたことに、言葉では言い表せないほどの幸福を感じていた。
神殿の敷地内。神官の居住地域にある専用の食堂で一人、夕食を取っていると見慣れた神官が向かいから歩いてきた。
「よぉ、テオ。元気にしてたか? 最近、聖女様にベッタリだってな?」
「その言い方! やめてよ。元気じゃなかったよ」
憂鬱な顔を隠しもせずに、ハァと大きな息を吐き出した。その様子にサイモンは肩を竦めた。
神官のサイモンは神官見習いだった時の同期だ。実は、彼のおかげでオリヴィアと婚約できたという経緯がある。テオドールにとってサイモンは、ある意味、神様的存在なのだ。ただ――それを本人には伝えていないし、本人は無自覚なのだが。
「聖女様は、どうだよ?」
「どう、って?」
「だからさ……なんか色々、大変らしいじゃん」
「まぁ……ね」
日に日に酷くなる聖女の傲慢な態度に、各方面からチラホラ不満の声が上がり始めていた。
「そういえば、最近はサイモンが前に薦めてくれた作家の初期の児童書なら読めるようになったよ」
「へぇ。オーリー・E・ヘニング?」
「そうそう」
つい本人を思い出して顔をほころばせていると、サイモンは怪訝な顔をした。
「テオがその顔するときって、いっつもオリヴィアちゃんのこと考えてるときだよなぁ? なんで作家先生のこと話してるのにそんな顔してんだよ?」
「えっ!?」
まさか顔に出ているとは思わなかった。
テオドールはピシャリと一回、両頬を両手で軽くはたき、緩んだその顔を引き締めた。サイモンには訳が分からず、ますます眉間にシワを寄せた。
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