第3話 聖女様の教育係。

 泣き疲れて眠ってしまったオリヴィアの部屋に、まだ頬に残る涙の跡を、そっとなぞるように優しく撫でる一人の青年の姿があった。


「お嬢様を苦しめる必要、ありますか?」


 エミリアはその青年をジトリと睨みつけるように視線を向けた。





 オリヴィアがエミリアの胸の中で泣きじゃくり、疲れ果てて、すぅすぅと寝息を立て始めた頃、この部屋に訪問者を知らせるノック音が響いた。


 オリヴィアを胸に抱えたまま、その場から動けなかったエミリアは訪問者の名を聞き、その部屋の主の許可を得ず、勝手ではあったが入室を許可した。


 その青年は彼女の部屋に入るなり、息を呑んだ。


 まさか、あんなに泣き腫らしているとは思ってもいなかった。彼はそんな彼女の状態に少しの背徳感と多大な幸福感に包まれた。


 泣き疲れて眠ってしまった彼女の身体をひょいと持ち上げると彼女のベッドへと運んだ。


 彼は、思い出していた。


 まだ幼かった頃。このベッドで彼女と二人、手を繋いで眠ったことを。寝転がって見える天井の模様を動物に例えて伝え合ったり、彼女の頭の中に次々と浮かぶ不思議な物語を聞かせてもらったり。


 それは、とても幸せな時間だった。




 ――今から1ヶ月ほど前。


 神殿の召喚室から眩い光が放たれた。その部屋の魔法陣の中央にはこの世界では見たこともない衣服を身に纏った少女が佇んでいた。


 髪は少し茶色く、ゆるくウェーブがかかり、瞳の色はこの世界では珍しい焦茶色。


 彼女の容姿は、神殿に古くから伝わる“聖女の伝説”の異世界人、そのものだった。


 神殿を纏める大神官アルフレッド・ベネディクト様をはじめ、二人の神官長ケイレブ・プレストンとイシュメル・ハンネスはあまりに突然の聖女の降臨により、その対応に追われた。


 ――古くから伝わる“聖女の伝説”。


 異世界から聖女が舞い降りたその年には必ず災厄が起こるといわれている。聖女にはその災厄を浄化してもらわねばならない。神官長二人は神官たちに新しい聖女の降臨を伝えた。


 聖女の身辺調査や警護のため、丁重に、かつ迅速に対応するように、と上位神官たちに伝達された。


「テオドール。聖女様をお部屋へご案内して」


 神官長の一人であり、養父でもあるイシュメルに指示されたテオドールは胸に手を当てて、恭しく『かしこまりました』と、洗練された所作で聖女を神殿の客室へと案内した。


 任された仕事は聖女の聴き取り調査と身辺警護。


 なんてことない仕事だと思っていた。この時は。まさか、自分の身に人生最大の出来事が起こるなど思ってもいなかった。


 部屋に入ると扉は開いたまま、聖女に話を聴く。


「私は神官のテオドールと申します。まずは聖女様のお名前をお伺いできますでしょうか?」


 不安げに揺れる焦茶色の瞳と視線が交わる。ビクビクとしながらも小さく口を開いた。


「エレナ……と、申します」

「エレナ様、でございますね」


 ここまで一言も言葉を発しなかったため、この国の言語が通じるか不安があったが、こちらの言葉を理解できるし、会話も問題なさそうだ。


 テオドールは、ホッと息をついた。そして、まだ固い表情をしているエレナの不安を少しでも和らげようと、にっこり微笑んでみせた。

 その笑顔にエレナは目を瞬かせた。


「私は18歳です。エレナ様は……」

「わ、私もっ、18歳です! 同じ歳なのですね!」


 質問を遮るように発せられた声に驚いて、今度はテオドールが目を瞬かせてしまった。


 それからは“同じ歳”という共通点から心を開いてくれたのか、すんなりと質問に答えてくれた。必要な質問はひと通り終わり、部屋を出ていこうとすると、エレナはテオドールの袖口を掴んだ。


「あの……テオドール様」

「何でしょう?」


 振り返り、掴まれた袖口に一度視線を落とすと、首を傾げた。


「この世界のことが全然分からなくて……不安なんです。だから、できるだけテオドール様に側にいてほしいのですが……」


 上目遣いで懇願するエレナをテオドールは、じっと見つめた。その視線にエレナは頬を赤く染め上げて、恥ずかしそうに俯いた。


「かしこまりました。聖女様のご希望に添えるよう善処いたします」


 先ほどと同じ笑顔を浮かべ、恭しく頭を下げると部屋を後にした。


 神殿の敷地内の、客室とは別の建物にある執務室へと戻ると、テオドールは大きく息を吐き出す。


 異世界から来た聖女だというから、どんなに素晴らしい人物かと大いに期待していったというのに。蓋を開けてみれば、この世界の同じ年齢の人間と何一つ、変わらなかった。期待が大きかった分、落胆も大きかった。


 聖女の自分を見る目が徐々に熱を帯びてきているのにも気がついていた。嫌な予感は当たるもので。聖女の希望は、わざと報告しなかったというのに。


 その後、テオドールに伝えられたのは“聖女の専属神官”という新たな役職だった。


 それから、聖女にこの世界のことを知ってもらうための教育係として、ほぼ毎日、日中を聖女と共に過ごすことになってしまった。



 ゴーン、ゴーン、ゴーン……



 午後0時の鐘の音が鳴り響く。


「さぁ、昼休憩にしましょう」


 さすがに休憩時間には自由が欲しかった。最近は婚約者であるオリヴィアにも満足に会えていない。こんなに長い期間、彼女に会えなかったことは今までに一度だってなかった。


 初めての経験にテオドールの我慢は限界に達しつつあった。そのくらい絶対的に今の彼はオリヴィア不足だった。


(リヴィが足りない……今すぐ会いに行きたい!)


 ――だからつい、口に出してしまったのだ。


 当たり前のように昼も一緒に過ごすつもりでいる聖女に――“婚約者がいる” と。


 それからは毎日が地獄だった。ただでさえ聖女が降臨してから、オリヴィアに会えない日々が続き、我慢の限界が来るほど地獄だったというのに。


 エレナは聖女とは思えないような半ば脅迫めいた言動をし始めた。この国における聖女の立ち位置と役割を理解し、それを駆使してテオドールの自由を次から次へと奪っていった。




「そろそろ長めの文章を読む練習をしましょう」


 聖女エレナは言葉を交わすのに問題はなかったのだが、文字を読んだり書いたりすることはできなかった。そのため、まずは読み書きから教えることにした。


 テオドールはエレナがこの世界に馴染めば、解放されると考えていた。外の世界は広い。今、聖女の周囲にいる歳の近い者が自分しかいないから依存してしまっているだけだ、と。


 だから、一刻も早く教育したかった。幸い聖女は物覚えが良く、やる気だけはあった。目の前に褒美をチラつかせれば、次々と見事に吸収していった。


「私、このお話、知ってます」

「……え?」


 文字を読む練習に、と用意した本は子ども向けの児童文学書。謎多き正体不明の作家といわれている

“オーリー・E・ヘニング”が初期に書いたものだ。


 ――そして、実はその正体が誰かを知っている。


 幼かった頃に“彼女”から聞いた“頭の中の物語”、そのものだったのだから。


「この世界にも似たようなお話があるのですね」


 エレナの言葉にテオドールはドクドクと鳴る鼓動を気づかれないよう平然さを装い、無理やり笑顔を作った。


(あるわけ……ないだろ? あれはリヴィの頭の中の物語なのだから)


 でも――もしそうだとしたら。本当に同じ物語を聖女が知っているとしたら。それならリヴィは――


(……聖女からリヴィを遠ざけなければ)


 テオドールの持つ神聖力が、そう警告していた。

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