3、本音と体温
すべてをくつろげ終えると、ラズローはさっさと部屋を出ていってしまった。
誰もいない間に、と足元にドレスを脱ぎ落とすと、べちゃり、と重たい音がする。だいぶ水を吸ってしまっていたようだ。
バスタオルの要領でカーテンの端切れを身体に巻きつけたころで、ラズローが毛布を二組持って戻ってきた。主寝室や書斎などは鍵がかけられていたので、使用人部屋から拝借してきたらしい。
かなりくたびれてごわごわしていたが、今は頬ずりしたくなるくらいありがたかった。
「とりあえず、身体をあたためるのが先だ。冷え切った脳みそじゃこの状況を打開するアイデアも浮かばない」
どさ、どさ、とラズローが鎧や手甲を脱いで床に転がしてゆくのを、エティエは恥ずかしさで直視できなかった。
ふたりでそれぞれ毛布にくるまり、暖炉前のソファに肩を寄せ合って座る。エティエは裸にカーテンを巻きつけた状態で、ラズローはトウラウザーズを穿いただけで上半身は裸だ。
肌を守るものを失くしてしまうと人はこれほど不安になるのかと、エティエは膝を抱えて小さく震えた。
外ではまだ雪風が恐ろしい唸り声をあげている。目の前で暖炉の炎が燃える景色だけが、エティエの知る日常と繋がっていた。
母親たちはそろそろ、ふたりが消えてしまったことに気付いただろうか。裏庭には
あれこれと考えるうちに、エティエの目から涙が零れだしていた。
「なんだよ、泣くなよ……涙が凍るぞ」
「ごめんなさい。私が、私のせいで……」
「別に。お前にトラブルに巻き込まれるのは今に始まったことじゃない」
それ以上慰めるでもなく、ラズローはふいと顔を逸らす。だから一瞬、エティエは彼を不機嫌にさせてしまったのだと思った。
辛辣な言葉が飛んでくることを覚悟して、身を固くする。
「ほら、いつだったっけ? お前がさあ、野いちご狩りをしたいとか言い出してさ。ふたりで屋敷を抜け出して森に行ったら道に迷って――」
しかしラズローが口にしたのは糾弾でも非難でもなく。その声はあっけらかんとしていて、どこかこの状況をたのしんでいる
(ああそうだ。彼はこういう人だった)
エティエの胸に、不意になつかしさが込み上げてきた。
ラズローは口が悪くて素直じゃない。それに最近はいつ会ってもどこか機嫌が悪そうで。
でも本来の彼はいつだって明るく前向きで、一番にエティエに手を差し伸べてくれる人なのだ。
今だってそうだ。さっきも。その前も。
――ずっとずっと昔から。
(私は昔からずっと、そういう優しいラズローが好き……)
暖炉の炎に照らされる彼の横顔。大人になって男らしく成長した今も、彼の表情やしぐさのひとつひとつに少年のころの面影が覗く瞬間がある。濃紫の瞳はあのころと寸分違わず、本物のラピスラズリみたいに美しい。
隣から見つめているとぎゅうっと胸が締めつけられて、エティエは彼への想いの深さを突き付けられた気がした。
「あの時はどうなるかと思ったけど、お前が欲張っていちごを摘みすぎたおかげで通り道に点々といちごが落ちててさあ」
大人になっても、ラズローはちっとも変わってなんていなかった。エティエがふたりの間にできていると思い込んでいた深い溝は、本当はただ、彼へのあこがれと自分に対する自信のなさの裏返し。
ずっと胸の奥にしまわれていた臆病な恋心が、氷解してすとんと腹に落ちる心地がした。
「ほんと、お前といるとトラブルが向こうからやってきて飽きないっていうか…………へっくし!」
突然、ラズローの語りは特大のくしゃみで中断する。
「ごめんなさい。ふふ。あの、よかったらハンカチをどうぞ?」
ずっと毛布の中で握っていたハンカチを差し出そうとすると、こちらを向いたラズローと目と目が合う。
「……ひさしぶりに見た。お前が笑うとこ」
息が止まるかと思った。とっさに言葉を返せなかった。
エティエだってひさしぶりに見たのだ。ラズローがこんなに優しく笑うところを。
どきどきどきどき。
途端に心臓が強く早く鼓動し始める。エティエが困惑して視線を忙しなくすると、ラズローは「……寒いな。もうちょっとこっち寄れ」とハンカチごとエティエの手を引っ張った。
「うわっ、お前の手つめたっ! そのままじゃ凍るぞ!?」
冗談めかして大げさに驚きはしたけれど、ラズローがエティエの手を離すことはなかった。
エティエの細い指先を包むように握り直して、己の毛布の中にそっとしまい込む。
そのままふたりはしばらく、無言で互いの手のぬくもりを感じ合っていた。
ぱちぱちと、暖炉の炎が弾ける。
一体どれくらいが経っただろうか。いつの間にか外の風は勢いが弱まり、静かに降り積もる雪に変わっていた。
沈黙が身に馴染んでどこか心地よさすら感じだしたころに、ラズローがふと、思い詰めたような調子で口を開く。
「……なあ。なんでお前は俺のこと、そんなに嫌ってんの?」
「な……!? そっ、それはこっちの台詞よ!」
「いつも俺といると機嫌悪そうにするじゃねーか」
「それを言うならラズローのほうこそ――」
「俺はさ、お前のこと……。けっこう可愛いと思ってるんだけど」
不意打ちまがいの告白に、エティエは思考が追いつかず口をパクパクさせた。
「そんなに驚かなくてもいいだろ……」
「だって、だって……いつも私を子供扱いするし、留学だって反対したじゃない!」
「――お前を兄貴に渡したくないんだ」
絞り出された声は低く、苦渋の色合いを帯びていた。
「お前がずっと兄貴のこと……クロードを好きなのは知ってるけど、俺はふたりの仲を応援してやれるほど人間ができてない」
「えっ……? 私、別にクロードのこと好きじゃないわ」
「は?」
急に刺々しい視線で見られたので、エティエは自分でも何がなんだかわからないまま当てずっぽうな弁護を始めてしまう。
「えっ、あ、あの、もちろん幼馴染としては好きよ! 分野は違えど同じ研究者として尊敬してるし、それに……」
「いやでもお前、兄貴の在学中はしょっちゅうふたりで図書室にこもってたし、あいつが向こうのアカデミーに行った後もずっと手紙のやり取りとかしてるじゃねーか」
「へ!? そんなの、勉強のことなら同級生より先輩であるクロードを頼るのは当たり前でしょ!? 手紙のことだって、お互いの研究に関する情報交換を――」
「留学だって
「なんでそうなるの!?」
互いにヒートアップしてソファから立ち上がる。すると身体に巻きつけていたカーテンが毛布の中でずり落ちてしまって、エティエは悲鳴を上げてしゃがみこんだ。
《ガキだろ。叶いもしない夢ばかりを見て》
《いい加減あいつを追いかけるのはやめて、少しは――》
もぞもぞと毛布の膨らみの下でカーテンを巻き直しながら、エティエはふと、転移事故の直前に裏庭でラズローにぶつけられた言葉を思い出していた。
(あの台詞ってもしかして……私が
ここ数年、どこかラズローと噛み合わない感じがしていた原因がわかった気がした。
ねじれた糸がほどけるみたいに、エティエの心は急速に落ち着きを取り戻していく。
「研究者なら、誰だって一度はあのアカデミーで学びたいって思うもの。わたしが国費留学に立候補したのは純粋に向学心からよ。そりゃ異国でひとりぼっちよりは、知り合いのクロードがいてくれる方が心強いなとは思うけど……異性として好きとかそういうのじゃないわ」
ゆっくり、丁寧に。誤解なく伝わるよう、エティエは言葉を選んで話した。
ラズローはしばしポカンとした表情でこちらを見下ろしていたが、やがて乱暴に黒髪をかいたかと思うと、ソファに背を投げ出すように座る。
「……バカらし……」
「言うに事欠いてバカって何!?」
「……俺のことを言ってるんだよ」
ハァ、と深いため息をつく。毛布が半分肩から落ち、彼の引き締まった上体がちらりと覗いていた。
「叶わない恋なんだって勝手に決めつけて、自分の気持ちを押し込めてさ。それが全部勘違いだったって? じゃあ始めから我慢する必要なんてなかったってことだろ?」
ラズローはしばらく目元を覆って何かを独り言ちて、それからやおら顔を上げる。
被っていた毛布をひるがえすと、絨毯の上に座り込んだままのエティエの前に片膝をついて跪いた。
「エティエ」
濃紫の瞳がまっすぐこちらを射抜く。そのまなざしに宿る意志の強さに、エティエは瞬きすら忘れた。
「好きだ。ずっと、子供のころから」
心臓が止まりそうになる。エティエはひゅ、と鋭く息を止めた。うれしさよりも、衝撃の方が強くて。
ラズローの表情は真剣そのもので、これが彼の本心なのはすぐにわかった。それでもエティエは思わず「う……うそ」と首を左右に振ってしまう。
「だって、私だってずっとあなたを追いかけてて、少しでも近付きたくてがんばって、でもあなたはいつも私のことなんて眼中にないみたいに易々と通り越して、だから――!」
「好きな女に負けたらかっこ悪いだろ。……それだけ」
「言っとくけど、お前が毎回学術試験で高得点取るから総合成績で上回るのすげー大変だったんだからな」と、ラズローは嘆息した。
知らなかった。
エティエがラズローに追いつきたいと願ってがんばってきたように、ラズローもまた、エティエを追いかけて必死に努力していたなんて。
エティエはずっと、ラズローは苦労知らずの天才なのだと思っていたのだ。
(私、ラズローのこと全然わかっていなかった。ずっと見ていたつもりだったのに……)
湧いてくるのは少しの後悔。でもそれ以上に、愛しいという気持ちが込み上げてくる。
「ほ、本当に私のことが好きなの?」
「ああ」
「私のことが好きだから、あのラピスラズリの魔石もずっと持っててくれたの?」
「そう」
「……私も、ラズローのことが好き……」
消え入りそうな声で、恐る恐るつぶやく。
すると途端に、ラズローが毛布ごとばさりと頭から覆い被さりエティエを抱きしめた。
「もっかい言って」
毛布の天幕に視界を覆われ、小さな闇に包まれた。狭い空間にふたりの呼吸のあたたかさが満ち、ラズローの気配がすぐ目の前にあるのがわかる。
「え、す、好き……ラズローのこと……」
「もっかい」
「……すき……」
乞われるまま言葉を重ねると、だんだんと想いはかたちを得て膨らんでいく。そのうち抱きしめられた身体からはみ出して破裂してしまうんじゃないかと、エティエは苦しくも満たされる感覚に戸惑った。
ラズローは大きな犬みたいに、鼻先をすりり、とエティエの頬にすり寄せる。
「ね、お願い。俺のことあたためてよ……。このままじゃ寒くて死んじゃうかも」
こんな鼻にかかった甘え声を出せるなんて聞いてない。
密着した肌と肌が、燃えるみたいに熱かった。
「そんなこと言われても、これ以上どうやって――――んむぅ!」
ほとんど触れ合いそうなくらい近くにあった唇同士が重なった。
ぷは、と小さく息を零して、すぐにふたたび柔らかな熱がエティエの口を塞ぐ。
親密で、あたたかで、やさしいキスだった。
はじめての口付けは泣きそうなほど幸せで、しかしエティエは内心でパニックに陥る。
(ちょっと待って、こういう時ってどう呼吸すればいいの!? い、息が苦し……空気、風の通り道、が…………。ん?
「――そうだわ!!」
エティエは突然立ち上がった。ラズローを押しのけて、被せられていた毛布を勢いよく剥ぐ。
「ラズロー、思いついたわ! 私たちの遭難を外部に伝える方法!」
「まじで!? ……っておい。普通この雰囲気とタイミングでそれを言うか……?」
せっかくの甘いムードをひっくり返され、ラズローはハァ……、と大きな大きなため息を吐く。しかしもうエティエの耳には届いていなかった。
エティエはくるまっていた毛布を放り出すや、カーテン一枚の姿で絨毯に何やら術式を描き始める。一旦こうなるともう、先ほどまでの乙女らしい恥じらいなど吹雪の彼方だ。
「転移術式が複雑なのは、私たちの身体を丸ごと転移させる必要があるから。光と闇と雷の精霊の媒介が必要で、でもそう、もっと扱いやすい風魔法を介した転移――つまり、
魔法局にあるエティエの研究室の床には、帰着用の転移魔法陣が刻まれている。
そこへ流れ込んできた、か細い「助けて」の声を同僚の研究員が聞きつけたのは、ふたりがネイフラム伯爵家の庭から消えて半日ほど経ってからのことだった。
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