2、おいでませ雪山
びゅおおおおおおおおお……
気が付いたら、エティエは白銀の世界に放り出されていた。
あたりは一面の雪景色で、数歩先がわからないほど強く吹雪いている。
「転移魔法の座標が狂って……!?」
研究室へ帰るつもりが、手元が狂ってとんでもないところにきてしまったらしい。
エティエは真白の雪の上に尻もちをついていた。幸いスカートのパニエと新雪が衝撃を和らげてくれたが、その下に一体どれくらいの雪が積もっているのかは想像もつかない。
「寒っ……!」
極寒の地で、胸元の開いたアフタヌーンドレス一枚。しかも最悪なことに、魔法陣に吸い込まれる時に
焦って周囲を見渡すと、真っ白な視界の端にもみの木らしき樹々の影が見えた。
あちらへ行けば少しは雪風をしのげるかもしれない――と、ふらふら立ち上がったその時。
「樹に近付くな!」
かかとの高い靴で雪の上を踏み出そうとしたエティエの腕を、何かが思い切り掴んで引き戻す。
エティエの身体を手繰り寄せ、凍える風から庇うように抱いたのはラズローだった。
「常緑樹の根元は雪にくぼみができて穴になっていることがある。落ちたら埋まって出られなくなるぞ」
「ラズロー! あ、あなたまで!?」
自分の失敗にラズローまで巻き込んでしまったことを知って、エティエは途端にパニックになる。
「こんな雪山の、どうしよう、わたしのせいで――!」
「落ち着け!」
――大丈夫だ。
抱きしめられた身体を伝い、言い聞かせるように染み込む声。
エティエは目を見開き、頭ひとつ分背の高いラズローを見上げた。そこにあるのは、こんな状況でも少しも揺るがない、いつもの勝気で大胆不敵な彼の顔だった。
「
「つ、使えるけど、この吹雪を押し返すほどの大魔法は……」
「俺たちの周りを覆うくらい、小さなものでいい」
エティエはハッとして、すぐさま簡易の風魔法を描こうと右手を宙にかざす。
ところが、寒さと緊張で手が思うように動かない。
(ああもう、どうして)
エティエは優秀な魔法の使い手であるが、あくまで研究員であって実践には慣れていない。その間にも横殴りの吹雪がふたりを叩く。
震えるエティエの手を、ラズローの大きな手が下から包んだ。
「大丈夫だ」
腰に回されたもう片方の腕が、ぐっと力強くエティエを支えていた。
(だい、じょうぶ)
ラズローの言葉を心の中で繰り返す。するとほんの少しだけ、胸の奥に温かさが点った気がした。
エティエはどうにか、指先で風の結界を描き出した。厚い空気の壁がふたりを覆い、びゅうびゅうとうなる風が遮断される。これで一旦、吹きさらしだけは避けられた。
この魔法は本来、他人に聞かれたくない会話をする時に使用するものである。白銀の世界の中、防音の結界に護られたふたりきりの空間は異様に静かだった。
はぁ、ふぅ、と互いが白い息を吐く音が聞こえる。
どきどきどきどき。
異様に速く鳴り響く心音は、果たしてどちらのものだっただろう。
「……あ」
先ほどから向かい合って抱きしめ合っている状況にようやく気づいたのか、ラズローがパッとエティエの身体を離した。
「
「ううん、ありがと……」
「…………」
「…………」
「……その。向こうにさ、大きな影が見える。多分建物か何かだと思うんだが」
ラズローはエティエの頭についた雪を払い、それからすっと遠くを指さした。エティエが目を凝らしてもただの真っ白な景色にしか見えないが、彼には何かが見えているらしい。
「行ってみるしかないか。お前は俺が
言うなり「ほら」とかがんで見せたのでエティエはあわてた。
「前に進むだけでも大変なのに、そんなことさせられないわ!」
「ドレスとハイヒールで雪の中を歩けるわけないだろ」
「でも、それじゃあ!」
お荷物になりたくない、そう言いかけたエティエの額をラズローが指で小突いた。
「バーカ。適材適所だって言ってるんだよ。俺がお前を背負う。お前はこのまま風の結界を維持して、あと光をくれ。視界が悪くて方向感覚が狂うから、お前の光魔法で導いてほしい。二属性の魔法の同時行使は集中力がいるだろうけど――」
かたちのよい口元が、ニヤリと意地悪く笑う。
「――
こうして、エティエはラズローに背負われ、その背から風と光、二種類の簡易魔法を同時行使した。
ひとつは風の結界。もうひとつは指定した一点に向かってまっすぐ伸びる光の柱だ。
ラズローはずぶり、ずぶりと膝近くまで雪に埋まり、一歩ずつ踏みしめながらエティエの描いた光が導く方向へ進む。
どれくらい歩いただろうか。やがてふたりの前に現れたのは、城と呼んでも差し支えなくらいの大きな屋敷だった。
石造りの窓はすべて雨戸まで締め切られていて、中に人の気配はない。正面の堅牢な両扉は施錠されており、ちょっとやそっとでは開きそうもない。
やむを得ず、ラズローが脇にある使用人用出入口の錠前を剣柄で叩き壊す。
「だぁああっ!」
木扉を蹴破った勢いで、ふたりは転がるようして屋敷の中になだれ込んだ。
ようやく吹雪をしのげるところにたどり着いた。それでも無人の屋敷は真っ暗なうえ、とてつもなく寒い。既にエティエの手足は冷え切ってほとんど感覚がなかった。
それでもどうにか、ふたりは長い廊下の先にある談話室らしきところへたどり着く。
「……ちっ。薪はほとんど湿っているな……」
部屋には大きな暖炉と、それを囲むようにL字型に配されたソファがある。だが、暖炉の脇に積まれていた薪の束は、どうやら湿っていて使えないらしい。
「おい、火魔法は?」
「…………」
「おい!?」
寒さで思考がぼんやりしかけていたエティエは、ラズローに頬を掴まれて我を取り戻した。
「あ、その、だめ……。火の精霊の気配が薄くて……。何か、媒介となる魔石があれば小さな火を点すくらいはできると思うんだけど。ごめんなさい……私が
「………魔石ならある」
ラズローは胸元から鎧の下に手を突っ込んだ。首に下げた革紐のようなものを取り出すと、ぶちりとむしり取る。
「ほら、これ。この魔石なら、火種くらいにはなるんだろ?」
「これ……」
ラズローが差し出したのは小石ほどの大きさのラピスラズリだった。底部に魔力を蓄える術式が刻まれ、魔石として加工されている。エティエはその紫色の石に見覚えがあった。
「昔、私がラズローの誕生日にあげたやつ……?」
それは、ラズローの十歳の誕生祝いにエティエがはじめて自分の力で作った魔石だった。彼の瞳と同じ色であるラピスラズリに術式を刻み、己の魔力を込めたお守りだ。
「ずっと身に着けていてくれたの?」
「……悪いかよ」
まさか、十年以上も前に贈ったもの――しかも今のエティエから見ればかなり拙い出来である――を、今も彼が持ち歩いてくれていただなんて知らなかったのだ。
エティエが驚きの表情で見上げると、ラズローはふいと顔を逸らした。「いいから、早く火を」と、ソファ脇のサイドテーブルに敷かれていたクロスを剥ぎ取って暖炉に放り込む。
エティエはあわてて暖炉に近付いた。ラピスラズリの魔石を握りしめ、魔力を込める。すると紫色の石は赤く輝き始め――ぴしりと音を立てて割れると同時に、小さな炎を生み出した。魔石ごと炎を投げ込むと、クロスが燃えて暖炉全体に火が点る。
「……よか、たぁ……」
明々と燃える暖炉を前に、気が抜けてへたり込みそうになったエティエ。するとその腕を、ラズローが掴んで引っ張り上げる。
「今すぐ服を脱げ」
「えっ!?」
突然ぐいと顔を近付けられてそんなことを言われたものだから、エティエは狼狽してのけ反った。バランスを崩してひっくり返りそうになったのを、ラズローが見事に抱き留める。
「早く脱げ」
「えっ、な、なん、え??」
「俺は鎧のおかげでそれほど雪にやられなかった。でもお前はそのままじゃ凍死だ」
言われてはた、とエティエは自分の身体を見る。
エティエのドレスは雪にまみれてぐっしょり濡れた状態で肌に貼り付いていた。手足は白を通り越して青白く、氷のように冷たい。
冷静に自分の状況を把握した途端、急に寒さを思い出したみたいに身体が震えだした。
「えっと、でも」
奥歯がガチガチと鳴る。舌が上手く回らない。
でも、さすがにいきなり異性の前で裸になるのは――。
エティエが躊躇している間に、ラズローは窓にかかっていた厚手のカーテンを剣で切り裂いた。
「代わりにこれでも巻いとけ」
「あ、ありがとう……。でも、大丈、夫? 他人の家の……勝手に……」
「人命には代えられないだろ。じゃあ、俺は何か暖を取れそうなものを探してくるから――」
「待って!」
背を向けて立ち去りかけたラズローの腕を、今度はエティエが掴んだ。
なんだよ、とラズローが振り返ると、カーテンを頭まで被ったエティエはもじもじと視線を彷徨わせる。
「手が、かじかんで……その。上手くドレスのホックを、外せない」
「……は……?」
ごくり、と喉仏が動いた。かなりの沈黙の後、ラズローは「……俺がやる」と呻くようにつぶやいた。
「どうやら、俺たちが飛ばされたのはレスタリッジ辺境伯領の山岳だったみたいだな」
エティエを後ろ向きに立たせて、背中のホックに手をかける。
気まずさをごまかすためか、ラズローは妙に饒舌にしゃべり始めた。
「暖炉に描かれている紋章はレスタリッジ伯のものだ。おそらく領内にいくつかある屋敷のうちのひとつだろうな。……さしづめ夏の避暑用ってとこか」
ぷちん、と音がして胸元がくつろぐ。
ぷちん、と二番目のホックが外れ、今度は肺のあたりが。
「レスタリッジ伯とは面識がある。寛大なかただから、ちゃんと謝れば大丈夫だろ。帰ったら手紙を書いて、それから――」
淀みない口調とは裏腹に、上から順にドレスのホックを外す手つきはじれったいくらい慎重だった。彼が口を開くたび、うつむくエティエのうなじに彼の吐息がかかる。
エティエは恥ずかしさで身悶えたが、それを指摘してしまうとラズローに申し訳ないので黙っておく。真っ赤になった顔をカーテンに埋め、ただぎゅっと口を引き結んでいた。
「あの……、できればコルセットも緩めてもらえない、かしら」
「…………」
ラズローは返事をしなかったが、やがて彼の手がコルセットの紐にかかったのがわかった。
エティエは羞恥心を押し殺すのにいっぱいいっぱいすぎるあまり、ラズローが「新手の拷問かよ……」とため息を零したことには気付かなかった。彼の顔が、エティエと同じくらい赤くなっていたことも。
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