第2話 最後のバレンタイン

「いっしょーのお願い、カトちゃんっ‼ アタシにチョコ作り教えて‼ 」

 登校して一番、クラスメートのハナちゃんがバシンと両手を叩いて頭を下げたのは、息をするだけで肺の奥が凍ってしまいそうな、冬の或る日だった。


「う、うん。別にいいけど、どうしてチョコー……」と言いかけて恥ずかしそうに俯き彼女の赤みを帯びた頬を見て思い出した。

 バレンタインデー。そっか、ハナちゃんは誰かチョコをあげたい人が居るんだね。

「じゃあ、今日の放課後、うちにいこっか」

 私がそう言うと、彼女は驚いた様に「え、嬉しいけどお店は大丈夫なの? 」と少し遠慮気味に慌てる。

「大丈夫だよ。明日は定休日だから製造は今日はないの。安心して」

 私の言葉を皮切りにクラス中から実はその様子を見ていた女の子たちが一斉に席の周囲を囲む。

「か、加藤さんアタシもおじゃましていいかしら? 」

「ましろちゃん‼ うちもお願い‼ 」

「加藤さん、あ、あたしたちも……‼ 」

 その様子を見て、正直「あちゃー」ともんくが零れてしまいそうだったけど、私はにこりと控えめに微笑みを浮かべた。


「ありがとう、ましろちゃん」

 お礼を言われる程の事も教えていない。簡単なチョコの溶解からの型取りを見せただけで少女達は満足そうに笑顔を浮かべて足早に帰路に戻る。


「よし、と」私は小さくそう言って腰を押さえると、調理場の片付けに取り掛かる。

「あ、ま、かとうさん」

 予想だにしていなかった他所の呼び声に思わずボールを持った手が大きく動いてしまう。慌てて振り向いた先に居たのは長身ながら余りに細い手足の体系で肩にかかるくらいの黒髪の少女だった。

「ご、ごめんなさい‼ か、お片付け、て、手伝おうと」

 その私の顔を見て、少女は気の毒な程動揺して取り乱す。

 私は、直ぐに笑顔を浮かべて彼女にとって最善の言葉を探し、間もなくそれを拾い上げた。

「うん、ありがとう。五月雨さみだれさん」

 途端、少女は「ほっ」と息を吐き、落ち着きを取り戻す。


「今日は、ありがとうね。か……かとうさん」

「ましろでいいよ? そのかわり私もイツキちゃんって呼んでいい? 」

 少女は顔色をあっという間に真っ赤にして「わ、わたしの名前、知っててくれたの?? 」と乾いた唇から捻り出す。

「当たり前じゃん。うちの学校の駅伝エースの名前だもん」

 五月雨一生いつき。2年生でありながら既に全国の陸上名門高校からスカウトが来てると言う程の逸材の少女。会話をした事はなかったが、見た目の印象と違って何と言うか、人見知りをする娘なのか。

 しかし、今回のこの一連に彼女が参加したという事は。


「そんなエースちゃんのハートを撃ち抜いた男の子の事は、訊いてもいいのかな? 」

 幼子を揶揄うのは、少し自分の心をくすぐるような快感がある。意地悪だったろうか? とも思いながら、彼女の表情を見る。

 だが、そこにあったのは思いもよらない色を落としていた。

「お、おと……さん」

 それは、照れて誤魔化している様には見えない明らかに落ち込んだ表情だった。

「そっか、お父さんと仲がいいんだね」それ以上は踏み込まない方がいい。私は話を打ち切る様にそう言うと蛇口をひねる。


「お父さんね、癌でずっと病院に居るんだ」

 少女は震える声を必死に抑えながら囁く。私は少し蛇口の勢いを落とし、手を動かしながらそれを聴く。

「小さい頃、遊んでもらう時にいっつもかけっこしてね。お父さんに追いつきたいなってずっと思って走ってたの。そしたらさ。いっつの間にか現在みたいになってたんだ」

 そこで、声に大きな震えが混じる。

「お父さん、もうどんな治療も効かないんだって。はは、もうね。最後の中学駅伝も見られないって。お母さんに聞いてさ。今までお父さんにチョコなんてあげた事なかったんだけど……これ、最後……だから……」


「私もね。お父さん居ないんだ。産まれた時から仕事の関係で居なくなっちゃって。うん。きっと喜んでくれると思うな。一生ちゃんのお父さん。きっと」


 私の言葉の後、彼女は俯いて小さく震える。

「あ、ありがどう……ましろちゃん……で、でも……ちゅ、中学最後の駅伝……見てほしかったなぁ。わ、わだじ、な、なんでもっと……もっと」


 生命を創造ったのが神だとして。

 もし、それを操れるモノがあったとしたら。

 人はそれを『魔法』と呼ぶのだろうか。

「人は、生き物はいつか絶対に死んじゃうよ。奇跡があったとしても、永遠に生き続けた人は居ない。絶対にね。それをしっかりと憶えておいてね、一生ちゃん」

 少女にその言葉の真意は理解わからないだろう。証拠はその少し困惑した涙ぐんだ瞳だ。


「お父さんでも食べれるチョコを教えてあげるよ。

 今から一緒に作ろ」


 ――その数年後、五月雨一生の名前は陸上界で世界にまで届く。

 五輪のマラソンで金メダルを獲得した時、記者の「貴女は何故、あの絶望的な状況から逆転を信じて走れたのか」と言う問いに彼女はこう答えている。


「15の時、2月の時点で余命が1ヵ月だった父が諦めずに12月の自分の中学最後の駅伝大会の日まで闘病を果たしたんです。その大会の結果を見た後、すぐに父は亡くなりましたが。諦めない強さを、優しさを。私は知っているから。だから頑張れたんです」

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