第140話 海神の■■※■■‡■仝✦■■■
「人間どもに神代の遺産を渡すなど、愚の骨頂よ。海魔のいない豊かな沿岸は、我らが海神に捧げるにふさわしい」
海人族。魔族の中でも、魚人や海獣に近い特性を持ち、海に住む者たちだ。
彼らは海辺で決起集会をしていた。
「しかし、陸の腑抜けた氏族どもは結局、どこも援軍に応じませぬ。重い腰を浮かばせるのは、いつになるやら」
「海さえ押さえれば、そんなものいつだって良い。我らには海神がついている」
「そうだ! 大老様の言うとおりだ!」
沿岸を埋め尽くす、
その軍勢を率いる大老が、巨大なクラゲで設えた海上戦車の上で立ち、戦士たちに呼びかける。
「皆のもの、今日こそ人間を蹴散らす時だ! 人間は港を作り、陸から海へと渡ろうとしている! 大海魔が、かの地を去った証だ! あの海を我らのものとし、我らの海神に捧げるのだ!」
「「「オオオー!!」」」
彼らは戦意旺盛な、武闘派の魔族だった。
魔獣の脅威は、魔族にも平等だ。海人族は海で人間に劣ることなど絶対に無いが、海には海人族を圧倒する海魔がごろごろいる。
豊富な魔力と栄養に溢れる神樹の森の沿岸は、巨大海魔が支配する海域だった。
そこが、今や人間しかいない。
これは絶好の好機である。
陸にも人間が街を作っているが、海さえ押さえてしまえば、いずれ人間の街はやせ細る。
あとは、陸が得意な魔族にでも攻めさせればいい。
海人族には奥の手がある。
万が一にも、負ける気はしなかった。
「次の沿岸で尾を休めたら、一気に人間の街だ! 海神様と猟犬には、餌をやるな。腹を空かせておけ」
何頭ものサメにクラゲ戦車を曳かせて海を進む海人族の大老が、戦士たちの様子を確認しつつ告げた。
「そろそろ沿岸であるぞ。先導隊はどうした?」
「まだ戻りません。海魔にやられたのやも」
大老にせっつかれた族長は、そんなことを言った。
このあたりの沿岸は、すでに海魔がいくらもいる。先導隊は本隊の休憩地に先乗りして、その周辺で海魔を駆逐する役割があった。
「馬鹿者。そうであっても、誰かは戻ってくるじゃろうが」
先導隊には、強者ばかりが集められている。
全滅だけはありえない。どれほど強い海魔であっても、必ず本隊への伝令は戻すだろう。
「では何が起きているのか……」
「それを確かめるのが、おぬしの領分じゃ。たわけが」
無能のせいで何もわからない。
やがて予定の沿岸にたどり着く。
そこでは、先導隊が困惑していた。
「何をしておる! 何の報告もせずにこんなところで!」
大老の叱責に、先導隊は戸惑いの声で報告した。
「アザラシがいる」
先導隊の隊長が指をさした先に、一匹のアザラシが寝ている。
「……は?」
大老は不機嫌を一音で露わにした。
「だからどうした? くだらない」
「そうだ。くだらない。だがおかしい。海魔が一匹もいない。アザラシだけがいる」
先導隊の隊長は、強者だ。そして、頭も回る。
彼の言葉の意味を、大老は吟味した。
「……おかしいではないか」
「そうだ」
アザラシは群れる生き物だ。奴が
そして逆に、なぜ海魔はいないのだ。
「何が起きた?」
「わからない。見てもらわねば、信じてももらえない。だから、待っていた」
そう告げて、隊長や族長が振り仰ぐ。
「どうする、大老」
大老の胸中に、漠然とした不安が湧いた。原因不明の、何かが。
「……こっちを見ているぞ」
隊長が言った。
いつの間にか、浜で寝ていたアザラシが起きていた。
海人族を、見ていた。
◯
千種が覚醒すると、なぜか海人族の戦士がいっぱいいた。
(……なんでぇ?)
首を傾げる。
おかしい。自分はアスラフィエルと一緒に、カニを採りにきただけだ。
お醤油があるし、海鮮食べたい。
そう言っていたら、アスラフィエルが美味しいカニが近くにいると教えてくれた。
「天使!」
「天使です」
天使の導きで、カニが食べられる。
でも、カニを捕るには潜らないといけない。
「アザラシを使いましょう」
「てんさい」
天使は天才だったので、こっそりアザラシの皮を持ち出した。
これで潜り放題だし、カニも取り放題。
そういうわけで、千種はカニがいる場所に来ていた。
天使が「ちょっと遠くなので、下見してきます」そう言ってどっかに行った。
仕方ないので、海岸で寝て待つことにした。
アザラシはいい。こんな海辺でも、皮が分厚くて暖かい。ぐう。
ちょっと騒がしいので目を覚ましたら、魔族に囲まれてた。
いや待った。そういえばアスラフィエルが言っていた。
「カニの密猟団がいて、誰彼構わず襲ってくるかもしれません。退治しちゃっていいですからね」
天使はなんでも知ってるなあ。
あれは密猟団なんだろうか。聞いてみよう。
まだ攻撃も何もされてないし、そうじゃない可能性もある。
友好的に『密猟ですか?』と聞いてみよう。
「ウ゛エ゛エ゛エ゛エ゛ッ」
ああ失敗。アザラシだった。
プラズマが飛んできた。
◯
アザラシが、汚い鳴き声をあげた。
「縄張りを主張している。殺してしまえ」
大老が言うと、戦士が前に出た。
腕の先に海水をまとわせて、魔法で腕をテッポウエビの形に変貌。ハサミを打ち鳴らす。
プラズマ化した高温の海水が、アザラシに叩きつけられた。
「避けた!?」
アザラシは、無傷でそこにいた。
「違う。消えたのだ。影の中に消えて……戻ってきた……?」
「ただのアザラシではないな」
大老はじゃらん、と杖を鳴らした。
族長がはっと顔を上げる。そして、腰につけていた法螺貝を高らかに鳴らした。
「攻撃せよ!」
先導隊が、一気に突撃した。
奇妙なことが起きた。
いきなり、アザラシの背中が割れたのだ。
そして、黒くてぴったりと体にひっついた服を着た人間の女が、アザラシの背中から生えてきた。
大老の目にはそう映ったが、それはアザラシの正体である。
水着を着てアザラシの皮を被っていた、千種だった。
「う゛え゛え゛え゛……はっ、間違えた」
反射で鳴いてしまってから、千種は慌てて掌印を結ぶ。
「千種影操咒法──〈蛸〉」
黒い闇が広がり、人間の胴より太い蛸足が海に生えた。
「なっ……!? ぐ、」「ぎゃァ!!」「ヂィィィイイ!」
海人族の先導隊が、馬よりも速く振り回された黒い蛸足に殴られ打ち据えられて、海に投げ出されて浮かぶ。
蛸足は海という見合った環境に喜ぶように、いつもより太く速く、強かった。
「んー? なんかつっよ」
千種は首を傾げて、自分のやった蛮行よりも蛸足の様子に不思議そうな顔をしていた。
「……闇魔法の使い手か、人間」
大老が立ち上がった。
戦士たちの間に、ぴりぴりとした緊張感が奔る。
「あっ、はい。そういうそっちは、悪い密漁してます……?」
「善悪など、貴様ら闇魔法使いには区別などなかろうが! 人喰いの
「あっ、食べないですけど。さすがに人魚は。お魚でも。……おさかなジャンルでいい、です、か?」
「喧しい!!」
大老は、千種の言を無視して杖を両手で構えた。
「海神様……! なにとぞ御力を示したもう!!」
大きく息を吸い込んで、杖の魔法陣を開く。
「お」
という音を、極限まで低く低く、人の可聴域外の声で大きく叫んだ。
人には持てない喉の両側にある袋のヒダが打ち震えて、叫びは波を散らして海を震わせた。
海の底が揺れる。戦士たちが、急いで大老から距離を取るため馬を走らせた。
次の瞬間、すさまじい波しぶきと共に、巨大な
「お、おおー……」
千種はワームを見上げて驚いた。
口の横に突き出た、死神の鎌のような三対六本の牙。うねうねとのたうつ、ミミズ様の体。目も耳もどこにあるのか不明な、ひたすらに不気味なその姿。
千種が思い出したのは、
「釣りのエサのやつだ……」
だが、エサとしては大きさがありえない。
クジラほどもあるエサなどで、なにが釣れるというのか。
ホオジロザメさえ一呑みにしてしまいそうな顎を持つワームは、甲高い叫びを上げて海人族の戦士たちを平伏させた。
「さあ、我らが海神様よ、敵を誅戮せしめたまえ!」
いま一度杖を振って、大老は魔杖の音波と共鳴して喉を高らかに歌い上げた。
杖の音を聞いたワームが、千種に向けて突進した。
千種は顔をしかめた。
あのサイズ、あの属性、真蛸でも足りない。
であれば、
「うわっ、これやるのヤなんだけどなー……」
気が進まないものを、喚ぶしかない。
「『
瞬時に、千種の影が海へと伸びた。
そこへ広がるのは、まるで海に空いた虚。であるのに、玉虫色の輝きが夜空のようにつぶつぶと輝く。
海神の突進が止まる。その虚に触れたくないとばかりに。
「千種影操咒法──〈抹香〉」
逆しまに滴り落ちるような不自然さで、ドロリと、それが現れた。
タールの塊のように、真っ黒な姿。であるのに、ところどころを玉虫色の輝きがぬめぬめと光らせている。
軍船よりも大きく、海神とされるワームよりもなお大きい。
それは、巨大なマッコウクジラのようであった。
クジラが、亀裂のように口を開く。嗤っている。奴は、嗤っている。
声も立てずに、この世界を侵したことを歓んでいる。
「海神よ……! 神よ……アレを、討ち給えぇ!!」
大老の発したその叫びは、もはや命令ですらなく、本物の祈りに似た絶叫だった。
果たして海神は〈抹香〉に突撃した。海神と呼ばれし巨獣の雄叫びは、怖気に震えて苦しげでもあり、それを押しのける怒りに満ちてもいた。
ワームの口から突き出た強靭な牙が、ドス黒い〈抹香〉の体に突き刺さる。
押されたクジラの巨躯が、沿岸にまで乗り上げた。
〈抹香〉の体が露わになり、大老はおぞましさに身を震わせた。
クジラじみていたのは、上半分だけだ。尾や腹へと向かうにつれて、その巨体は太く枝分かれする触手の塊になっていたからだ。
牙が深く突き刺さっても、真っ赤な血が流れ出しても〈抹香〉はほとんど無反応に近い。
がちん、と海神の牙が完全に噛み合った。胴の半ばを深々と噛み切られた〈抹香〉が、潮吹き穴から、高く高く赤い血潮を噴き上げた。
このまま勝てる。大老は、失禁しながら歓喜した。
噴き上がった血潮が、粘ついて枝分かれして、人間のような手を形作るまでは。
手だ。爪が鋭いわけでも、関節が多いわけでもない。人間の、普通の、丸みのある指を備える手、だった。
潮吹き穴から作られた真っ赤な血の手が〈抹香〉の頭部を、両側から鷲掴みにした。
開く。
マッコウクジラのような、不格好な直方体じみた巨大な頭部。それが両側から指に引っ張られて、縦に開いた。
開いたそこに、目があった。
あれは、頭ではなかった。まぶただった。人間のような巨大な丸い眼球が、そこにあった。その周りにも、小さく丸い眼球がいくつもあった。
眼があった。眼があった。眼があった。眼があった。眼があった。眼があった。眼があった。眼があった。眼があった。目があった。目が、
目が──合ってしまった。
大老は獣の絶叫を聞いた。そう考えた。その叫びは自分の喉が発するものと気付く理性が、残っていなかったゆえに。
海の騎兵達が、暴れ出す馬に振り落とされた。彼らの使役する海魔は尽く暴れ狂い、程なくして力なく海面に浮かぶ。
死んだように力なく横たわる水棲馬の、目だけがありえないほどギョロギョロと動き回っていた。
まぶたを開いて、〈抹香〉は初めて咆哮した。
何百人もの叫びを重ねたような咆哮は、産声のような悲痛さと、断末魔のような歓喜に満ちていた。
「さっさと撃て」
べしん、とまったく動じない千種の声とツッコミが、剥き出しの目玉を特大触手でぶったたいた。
妖しく濡れ光る粘液まみれの眼球が、ようやく海神を向く。
目も顔も無い海神が、畏れたように見えたのは気のせいだろうか。
じゅりり、と、肉の滴り落ちるような音がして、
〈抹香〉の眼球が、伸びた。その目玉を先端に乗せた肉の触手が、体の内からこぼれるように海神へと殺到。 大小無数の眼球を乗せた触手は、側面にも無数の目玉を備えていた。
玉虫色のぬめ光る触手の奔流が、鎌首を上げる海神まで一瞬で到達して絡みつく。
自らへ殺到する眼球の奔流。海神は反射的な動きで、中央の最も大きな目玉に牙を突き立てた。ワームの牙が、泥のような黒い血で濡れる。
〈抹香〉は哄笑を上げた。嬉しげに。
潰れた眼球が黒い血潮の海を作り、そこから新たな触手の奔流が生まれて海神の顎を飲み込む。
そのまま、触手の奔流が海神の体を飲み込んでいく。海神の体は肉と目玉を剥き出しにした触手に覆われ、
潰れた。
青銅色の血が、ぎゅっと絞られた触手の束の内側から零れ落ちる。痙攣するワームの尾先が、力なく海に浮かび上がる。
無数の眼球が生えた触手が、そのどろりと零れる青い血を啜り上げ、暴食していた。
ずるり、ずるりと、ワームを覆う触手の向こう側で何が起きているのか、誰にも見えない。
ただ、目玉を乗せた肉の芽が、その中からさらに生えて広がりだした。
魂を抜かれたように呆然とする海人族たちへと、それは伸びた。
「沈め」
超特大の蛸足が八つ、〈抹香〉の体を貫いて生えた。
天高くそびえる蛸足の重みが、触手を伸ばした〈抹香〉を黒い影の中へと沈めていく。
沈められながらも〈抹香〉は嗤っていた。大きな命を侵した歓びに、濁った嗤いを唄っていた。
みちみちと、すでに大半が失われたワームの体が千切れて、ついに伸ばした触手ごと〈抹香〉は影に沈む。
先ほどまでの戦いが嘘のように、海には波しぶきの音だけがもたらす平穏な静寂が戻った。
「あいつ喚ぶと、仕舞うのめんどいなー」
そうのんきなつぶやきをしている千種の他には、喋れる者が残っていなかったからだった。
「あっ、天使さん。カニっていました?」
「……まあ、はい。ちょっと向こうに」
「わーい。いってきます」
帰ってきたアスラフィエルが指差す方に、千種はうきうきとアザラシの皮を着て泳いでいった。
「あれが、一番の神敵なのでは……」
天使は思わず口をついて出た考えを振り払い、海を漂う海人族たちの救助を始めるのだった。
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