第139話 森を進んではならない

 そこは、鬱蒼とした森の中だった。


「街の様子は変わりません。防壁の外まで街が広がり、職人は港や神殿にかかりきりのままです」


「ならば、この戦はすぐに片がつく! 奇襲攻撃だ。この私が陣頭指揮を執る!」


 森の中で集まった兵士たちが、その下知にざわめく。


「伯爵が自ら先陣を切るなど、危険ではありませんか」


「なあに、これも貴き血の務めである。かのブラウンウォルス子爵は、魔族共が領地を自由に行き来することを許した。これは魔族と共謀した疑いがある。ことによっては、子爵を誅伐することすらありうる。私が、その場におらなくてはならん!」


「了解しました、閣下」


 隊長は引き下がった。

 伯爵がもはや子爵を武力で排斥するつもりなのは明白で、そのために兵を動かしていると分かったからだ。


「選りすぐりの精鋭で、奇襲を仕掛ける。街で防戦し、王国の援軍と共に魔族を撃破するぞ。この進軍では領地ばかりではない。戦功も好きなだけ手に入るぞ!」


 伯爵は兵士たちに、檄を飛ばした。


「進軍開始!」


 奇襲のために街道を使わず、兵士たちは森の中に潜んで姿を晦ましながら、ブラウンウォルスへ向けて進軍を開始した。




 ブラウンウォルスに魔族が襲来する。

 街が無防備なのは、子爵が魔族と通じているせいだ。

 王国と人間の手にある神の御恩を守る為に、伯爵は軍を率いて街を保護する。


 それが、伯爵の語った挙兵の大義だった。

 どうして魔族に襲われると分かったのか、子爵は本当に魔族と内通しているのか。

 それらは兵士に語られていない。




 たとえば、魔族との緊張を避けるために、往来を許しているのでは。

 そうした意見を、伯爵に諫言する者はいない。

 進言した者は追いやられ、ただ命令に従うしかない者だけが兵を集め、率いて従っているからだ。


 人間の街が混乱に陥れば、魔族の急進派が見ていればたちまち攻め上がる。

 伯爵がブラウンウォルスを攻め落とせば、魔族も襲来することは確実だ。

 ならば、どう転んだところで伯爵の筋書きは保証される。


 防壁の外まで人が広がったブラウンウォルスは、奇襲を受ければ防壁の内へ入ろうとして人が殺到するだろう。

 必ず混乱が起きる。

 その混乱に乗じれば、一気に市街へなだれ込んでしまうことも難しくない。


「進め進め。楽な戦だ。収穫祭までには、家に帰れるぞ」


 伯爵の率いる一千の兵士たちは、ブラウンウォルスへ向けて森を進んだ。





 それが六日前の出来事だった。


「はあっ、はあっ……! ど、どうなってるこの森は!!」


「おい、偵察隊はいつ帰ってくる? いつになったら、森を抜けられる」


「分かりません……分かりません……分かりません……」


「クソッ、役立たずが!」


 あちこちで、苛立った罵声が響く。

 濃い霧の立ち込める森の中では、もはや十歩も離れれば誰かも分からない影にしか見えない。

 五日間。彼らはずっと、森をさまよい続けていた。


 霧が出てきたと思っていた。そのせいで、輜重隊の到着が遅いと思っていた。

 翌朝になっても濃霧は深く、輜重隊は到着しなかった。

 とはいえ、彼らにも三日分の糧食が手持ちにある。


 ブラウンウォルスに向かえば、食い物も近隣の村から調達できる。

 街道を進ませた輜重隊も、向かう先は同じなのだ。いずれ合流すればいい。


 だから、進軍した。

 そして、今に至る。


 もはや奇襲を諦めて、街道へ向かうために偵察隊を複数出した。

 偵察隊は、一隊たりとも帰ってこなかった。


 何度も木に印をつけて、迷わないようにした。

 全ての印が、霧で溶けたように見つからない。

 いつの間にか、兵の数が減っている。


 彼らの手持ちの食料は、三日分だけだった。

 どんな強敵を恐れない精鋭だろうとも、空腹と剣で戦うことはできない。

 満足に食べられないまま、行軍を続けた。

 飢えに苦しんで食べられそうな野草を噛み、青い実までも口にして、見かけた子ねずみに男たちの手が殺到する。


 魔獣の咆哮も魔族の爪牙も恐れない精鋭部隊が、今や隊伍を崩して歩を乱す。

 規律を保つことも難しくなり、隠した野草の一株を巡って兵長までもが殴り合いの喧嘩をすることまであった。

 大型の獣が狩れなかったのは、かえって幸運だったのかもしれない。十人が食える獣が狩れれば、百人が殺到して殺し合いを演じただろうから。


「霧だ……霧がおかしいんだ……」


「魔導部隊は、精鋭だ……。幻惑魔法なんて効かない……はず……」


 また霧の向こうから、妖しげな獣の悍ましい声が響いた。


「まただ……またあの声だ……!」


「なんで獣がいない……なにも狩れない……食えない……!」


 兵士たちは、恐怖とも怒りともとれない叫びを上げた。

 誰かがえづいて、胃液を地面に吐き落とす。

 その兵士のそばには運悪く、伯爵がすぐ近くを歩いていた。


 胃液が足にかかり、伯爵は激怒した。


「臭い……臭いぞ! 貴様、それでも男か!」


 腹を空かせて青ざめた伯爵が、ぎろりと兵士を睨み、殴りつけた。


「ゴホッ、オエッ……」


「聞いておるのか!? この馬鹿めが!」


 さらに強かに兵士を殴り、倒れ伏した彼を蹴りつける。

 誰の目にも明らかな八つ当たりだった。


「謝罪もせんとは、無礼な奴め……! そこに跪け! その首をはねてやる!」


 怒りのままに剣を抜く伯爵を、周囲の兵士はぼうっと見つめるだけで、誰も止めなかった。

 倒れ伏した兵士の首に、剣が振り下ろされる。


「それはダメでしょ」


 ありえないほどの轟音が、剣を穿つ。

 軽い忠告と共に飛来した閃光が、伯爵の持つ魔剣を貫いて砕いたのだ。

 尋常ならざる攻撃に、茫洋としていた兵士たちが本能のままに立ち上がった。


 腑抜けていたら、死ぬ。

 鍛え上げた精鋭部隊の本能が、形のある攻撃に刺激されて最後の力を呼び起こした。


 そんな彼らの前で、ふわりと霧が薄くなった。

 薄暗い森の中で輝くような白い肌の美女が現れ、男たちが目を見開いた。

 森の精霊を従えるという、傲慢にして不遜な、優美なる長寿族。


 ──ハイエルフが、彼らの前に現れた。


「さすが、戦神の加護を強く受けてるだけあるわね。これだけ迷って、まだ元気があるなんて」


 感心したように言うエルフに、伯爵は叫んだ。


「エルフッ……! 神樹の森を支配する〈雷聖〉のミスティアか!」


 ミスティアはむっと唇を尖らせる。


「失礼ね。支配じゃなくて、保護と研究です。あと、その二つ名って、昔の冒険者が勝手に言ってたやつよ。情報が古くないかしら」


 伯爵は、折れた剣にちらりと目を落とす。

 まがりなりにも鋼の剣に魔術が付与された、伯爵が持つに相応しい名剣だった。

 それが、たった一矢でへし折られたのである。


「雷鎚がごとき弓の威力。……今だ、健在のようだが?」


「普通に『弓聖』で良いと思うわ。そっちの方が、響きが柔らかいもの」


 手にした美しい弓を誇るように見せつけて、ミスティアは告げる。


「さて、そろそろ降伏しない? もう歩くのもつらそうじゃない」


 傲慢な物言い。いかにもエルフだった。


「……姿を現したのは、間違いだったな」


 伯爵は部下が持つ槍をふんだくるように手に収め、穂先を向けた。


「幻惑の魔法が……『迷いの霧』が……どうやって我らの魔導部隊の精神まで侵したのかは、分からんが……こうして目の前に敵がいれば、戦いと抗いの神が見ておられる」


 戦神の加護が、霧を晴らしていく。

 精鋭の底意地を見せる時だった。戦意を高ぶらせれば幻惑魔法の霧が晴れ、霞がかっていた思考が本能の怒りで戦いへと集中させる。


「我らを甘く見るな、エルフが! 戦うぞ!」


「「「オウ!」」」


「立ち上がれ者共!!」


「「「オオ────!!」」」


 兵士を奮い立たせて、伯爵が槍を掲げた。


「魔導部隊! 全ての魔石を使え! 攻城魔法用ォ意!!」


 魔導士達が集まり、城攻めの魔法を編み込んだ魔導具を解放する。

 伯爵が己の財産をほとんど手放して、どうにか手に入れた秘宝である。一発限りの使い切りであり、そして彼の切り札でもあった。


 魔導部隊に配られた、百二十八枚の銀の板。

 そこに刻まれた魔法陣が輝き、銀板は土塊と化して崩れ、埋め込まれた魔石は魔力を使い果たして割れて消えた。


 宙に生まれたのは、灼熱の業火が練り上げられた螺旋槍。

 攻城級魔法の豪熱が、放たれる前から森の木々を次々と発火させた。霧が押しのけられ、炎が吹き荒れる。

 兵士達の目が、赤く爛々と燃え盛った。


「突撃せよ!!」


 どう! と、波濤のように槍を掲げた兵士達が突撃した。

 ほぼ全員が、ただの自棄だった。

 幽鬼のように果てるくらいならば、戦って死んだ誉れの方がマシだ。その想いが、死の恐怖も空腹も忘れさせ、純粋な戦いへの意力の塊となった。


 それは期せずして生まれた、数百人の狂戦士の群れ。


「神が見ておるぞ!!」


 そう叫んだ。

 迫る大量の鉄と炎に向けて、エルフがうなずいた。


「そう。神がご照覧給わるなら、私の弓を見せてもいいかもね」


 矢筒から、優美な装飾が施された矢を一本取り出す。

 そして、静かに目を細めて告げた。


「──我利私欲に囚われし蒙昧では、身命賭しても我が魔弾に価しなかった」


 冷たい侮蔑の視線に晒されて、伯爵は息を呑んだ。


破城杭砲パイル・キャノン、撃てェえええい!!」


 兵士達の頭上から、森を灼き尽くす勢いで灼熱の槍が放たれた。

 敵味方もろともに、エルフを討ち滅ぼすために。


 矢が番えられる。


「穿ち、貫け──」


 命が下される。


「──悉く」


 膨大な魔法陣が浮かび上がり、次々と消えていく。地の底に入った亀裂へ湖の水が落ちるかのように吸い込まれ、集束する。

 たった一矢に。


霊弓れいきゅう一矢いっし奉上────〈穿うがち〉」


 放たれた矢が、あらゆるものをあまりにも静かに貫通した。音を超えて飛んだせいだ。

 その矢は、宣言どおりに何もかもを貫く魔弾であった。

 指を離れてわずか数百メートルの距離だけしか、存在できないほど。


 だが、それで十分だ。


 空間そのもの・・・・・・に空白が生まれ、引き裂かれた空間が裂け目を修復するために、怒濤となって押し寄せた。

 そして、ぶつかりあった空間の波が、集束した時にそれは起きる。

 あたかも、湖面に石を落としたかのように。

 石を投げ入れられた湖の、沈み込んだ一点に水が集まり、そして弾けるように。


 空間が爆発四散する。


 燃え上がった木々も、攻城級魔法の業火も、空間破砕の波が押し砕いた。

 そして、見えない爆発が轟音と共に発生して、直撃を免れた周囲全てを吹き飛ばす。


 鎧に身を固めた兵士達が、総重量数トンにも及ぶ人間の怒濤が、たかが一矢の余波で引き起こされた爆発に勢いを砕かれ、戦意を喪失した。

 それはまるで、見えない神の鎚が振り下ろされたかのようだった。


「な、……? ぁ……」


 ほんの一瞬で、軍勢と魔法の両方を打ち砕かれ、頭上を覆う焼けた木々までもがその暴威で形を無くして、


「きさ、ま…………雷霆の……化身か…………」


 伯爵は爆発で転がったまま、呻くしかできない。

 そんな彼を見下ろして、美しく凶悪な幻想種ハイエルフが、


「これがエルフちからなのです!」


 なんか勝ち誇っていた。

 伯爵の心は、その姿で逆にぽっきりと折れたのだった。





「うわあ、えげつない。エルフってこわい」


 シオウがうへーと唸っている。


「鵺の獣人が使う妖術も、それなりにえげつなかったけれど」


 イルェリーは肩をすくめて、構えていたクロスボウを下ろした。


「誰も殺さなかったとはいえ、弱体化と昏惑と空腹で衰弱していくの、兵隊としては最悪の体験だよ……」


 伯爵の率いる兵隊は、完全に彼らの術中に嵌められたのである。

 森の中でエルフの姿を捕捉することは、困難だ。姿を消したまま、ミスティアとイルェリーは人間の進路に薬を撒いて焚きしめる。食事時には、霧のようにそのパンを湿らせて口に入れさせた。


 昼を回ったころには、イルェリーの調合した弱体化魔法デバフ薬が、全兵士の思考を鈍く曇らせていた。

 さらに鵺の鳴き声は、精神を脅かす。シオウの妖術的な咆哮が、徐々に精神を狂わせる。


 あとは結界を張って方向感覚を喪失させ、迷いの霧を森に生んで一千人の兵士を彷徨わせたのだ。

 弱らせて衰えた偵察隊は、鬼の戦士たちが端から捕らえて連れ去った。

 伯爵のもとに最後まで残っていた兵士は、六百人に満たない程度だ。


「エルフに兵隊っていないから、分からないのよね。先祖代々、人間にはこれが効くって教わってるだけで」


 一方、やった側のイルェリーは人間によく効くやり方くらいにしか思っていない。


「最悪の種族だな」「たちが悪い」「毒霧ってアリなのか?」「ううむ、毒手の使い手もいたが……」


 鬼族の戦士たちが、そんな会話を戦々恐々として聞いていた。


「しかし、最後でも数百人ならやりがいもあるかと思ったが……。ミスティア殿がお一人で、残りは片付けてしまわれたか」


 ゼンが、ちょっと物足りなさそうに言った。


 最後まで残った最精鋭の数百名を、ミスティアが真正面から戦意と魔力を根こそぎ喪失させてしまっている。

 正直なところ、見ていた鬼族たちも引いている。


「あの力は、なんなんですかね……?」


 イルェリーは、肩をすくめた。


「さあ? ソウジロウが作った弓で全力を出したら、あれができるようになったって言ってたわ」


「もはやバケモノでは……?」


「シッ、森の中でエルフの悪口はまずいぞ」


「失礼ね! もうっ!」


 ミスティアが、イルェリーたちのところへ戻ってきていた。


「降伏したわよ。衛兵たちに回収してもらいましょ」


「もう終わりなの? しょうがないけど」


 イルェリーが口笛を吹いてヒリィを呼び寄せる。

 森を走っていた飛竜が寄ってきて、ちょっと不満げな鳴き声を上げた。ダークエルフの指が、飛竜の長い首を叩いてなだめる。


「あーあ。楽しかったのは、偵察隊を怖がらせながら追い回した時だけだったわね」


 イルェリーはその気になれば、上空から監視も狙撃も好き放題にできた。

 鬱蒼とした森の樹冠を貫く視線は、他種族と同じものを見るために魔法を使うダークエルフにしか持ち得ないものだ。


 今回はあまり出番が無くて、ヒリィが運動不足である。もっと遊びたがっていた。


「ところで、魔族の方の軍隊は?」


 彼らには詳細な事情が伝えられている。

 人間たちの意図も。そして、人間たちが故意に魔族へ情報を流し、侵攻を煽ったこともだ。

 ブラウンウォルスへ向かう軍隊は人間のものだけではなく、魔族からも差し向けられているのだ。

 

 イルェリーの質問に、ミスティアは意地悪そうな目を鬼族に向けた。


「あっちにも、バケモノが行ってるわよ」


「いやいや、口が滑りましたが……ご自身が他者に言うのは、よろしいので?」


 エルフらしくない二律背反ダブルスタンダードでは? そう訊ねる視線に、ハイエルフは肩をすくめて苦笑いするしかなかった。


「チグサに言うのはいいのよ。……本物だから」


 一矢で数百人がひれ伏したエルフが、そこまで言い切るとは。

 その場にいた者たちは顔を見合わせて、まだ見ぬ魔族たちに同情した。

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