第137話 侯爵令嬢の苦難
「野球で決着する、というのは怪我人も少なくていいですわね。王都では決闘でよく死人も出ますのに」
「うちのギルドには、全員が束になっても敵わない最強がいるんだよ。そのナンバーワンは殺し無しで君臨してるから、だね。下の奴らは、上の背中を見るもんさ」
「勉強になりますわ」
侯爵令嬢のメアリは、冒険者ギルドにいた。
このところ、足繁くギルドに通っている。というのも、最初はバッティングセンターに興味を持ったのだ。
武芸五般は、当たり前に修得するもの。メアリにも、当然のように心得はある。
王都では見たこともない訓練方法を目にして、この地ではこれが身につけるべき武芸なのかと直感した。
詳しく話を聞けば、森から出てくる魔獣の中で、もっとも多い死因が一角兎なのだという。
その対策として建てられた訓練施設。訓練を奨励するための、野球チームと試合開催らしい。
勝った方に褒賞が出るので、冒険者も衛兵も真剣だ。試合には出ずとも、バッティングセンターでホームランを出せば景品がもらえる。
これらを作ったのも出資したのも、
ともあれ、メアリの目的は森の奥にある。一角兎の対策をするため、バッティングを練習し始めた。
打つのに慣れたら、訓練用の鎧を着て心臓狙いで撃たれる環境の訓練もできる。
ちなみに、盾を構えて弾くだけでも、攻撃を防ぐことはできる。棒や剣で、芯を捉えた打撃を与えずとも対策にはなるのだ。
なので、野球の試合ができるほどまで極める必要は無い。
にも関わらず、メアリはやってるうちに楽しくなった。
冒険者ギルドに登録して、ブラウンウォルス家に気兼ねなく訓練場や森へ通えるようにした。
ギルドの酒場に通って受付嬢と相談し、野球チームに参加できるようにしてもらった。
森に入る時は護衛の騎士やセヴリアスに監視され、強そうな魔獣に挑戦することはできない。
だが、野球で強者に挑むことはできる。
メアリはやがて、普段に着る服まで冒険者の流儀に倣った格好に近づいていった。森を歩くため軽くて扱いやすい革鎧や、魔獣の毛皮で腰当てを身に着けた。
一般の冒険者感覚では、まだ十分に華美であったが、侯爵令嬢としてはとても勇ましくなっている。
ついに一角兎を自分で仕留めた時には、嬉しくてその毛皮で帽子を作ってしまった。
「最強の冒険者に会いたい? ……本気なの、ラビット?」
「何か問題がありますの?」
冒険者ギルドに来る時は、いつもウサギの帽子を被っている。ついたあだ名が〈
「『依頼書』を出したら、ギルドはそれを遂行するよ。情報を集めてから、依頼を出してるの?」
「白い少女なのですわよね? ぜひとも一度、お会いしたいですわ」
侯爵令嬢は、受付嬢に最強の冒険者との面会を依頼していた。
「……私は、詳しく説明できない。けれど、やめといた方がいいよ」
「大丈夫ですわ!」
「あっそう」
受付嬢は、肩をすくめて侯爵令嬢の依頼を受領した。
賭け事と同じくらい
しかし、冒険者たちには不評だった。どうも貴族っぽくて呼びにくいと。
ウサギを仕留めてあだ名がついたら、そればかりで呼ばれるようになった。
メアリはそれを許した。
故郷の地や王宮では、そんな二つ名は許されないだろう。まして平民が気軽に呼ぶなど。メアリとて許さなかったはず。
しかし、辺境で侯爵令嬢ではない別人として振る舞うのは、思いのほか楽しかった。
ゆえに、メアリは帽子を被っている間は、許そうと決めた。
冒険者ラビット。侯爵令嬢メアリが世を忍ぶ、仮の姿である。
まあ要するに、旅先で遊んで浮かれていたのだ。
そしてラビットは、ピンチに陥る。
「まずいですわぁー!」
最強の冒険者は〈黒き海〉のイオノだった。たしかに、ちょっと考えればそれはありうる話だった。
ただ、
「野球をした冒険者は「白い少女」と言っていたのに! まったく白くありませんわ!」
情報収集が甘かった。
今さらながら、受付嬢の警告が身に沁みる。彼女は説明
もし「イオノに会いたいの?」と令嬢が聞かれたら、首を縦に振るしかない。
なぜなら、イオノに会うために森へ挑む、という名分で滞在を延ばしているのだ。否と言ったら、それが嘘になる。
だから説明できない。遠回しに忠告するしかない。
なのに、メアリは無視して依頼を出した。ギルドはそれを叶えた。
そして、受付嬢が忠告したとおり、侯爵令嬢はピンチになった。
千種は、すでにギルドの応接室で待っている。
「あとちょっとだけ遅く来訪されたら、依頼を取り下げられましたのに!」
侯爵令嬢が”最強の冒険者”の正体を知ったのは、つい昨日のことだ。今日ギルドに来たのは、まずい依頼を取り下げるためだった。
しかし、ちょうど来訪した千種をギルドが引き止めた。メアリはその直後に、ギルドに足を踏み入れてしまったのだ。
このまま会わずに帰ればギルドの顔を潰し、冒険者に噂が広まる。
イオノに会ったのに密命を果たさなければ、名分が嘘になる。
進退窮まる状況だった。
「だから言ったよね、ラビット」
受付嬢が、呆れ顔で言ってくる。
「な、なにか方法はありませんの?」
何かと相談に乗ってくれる、この受付嬢を頼るしかない。
「そりゃま、こうなりゃ手は一つしかないでしょ」
「なんですの?」
「トボけるのさ」
そう言って差し出されたのは、目元を覆うマスクだった。
素性を隠して会う。それが残された唯一の方法だった。
「ど、どうも……えーっと……?」
「わ、私は──ラビットと申しますわ!」
困惑する千種に、マスクを装着したメアリ──否、冒険者ラビットが高らかに強く宣言した。
それは、理にかなった変装に思えた。自分の顔を知る千種なら、すぐに正体は分かるはず。
だが、仮面を着けて偽名を名乗れば、事情があって隠しているのは明白だ。
(これほどあからさまなら、事情があると察してくれるはずですわ!)
口には出さずそう確信して、ラビットは反応を待つ。
「ラビット、さん……? へえー、初めまして」
千種は初めて会った人を見る顔をしていた。
(もしかして、私を覚えてらっしゃらない!?)
王宮でお茶会にも誘ったほど、ばっちり面識がある。しかし、千種は侯爵令嬢の顔など、まったく思い出していなかった。
人の顔を見るのは苦手で、あまりよく見ていないせいだろう。
「あの、ラビット仮面さんは、なんでわたしを?」
侯爵令嬢の動揺を意に介さず(というか気づかず)、千種が首を傾げた。
「わ、私は……最近この地に来たばかりですの。何度か森に挑戦していますけれども、奥まで行けるのはいつになるやら。ですから、この地で一番最強の方に、心構えをお聞きしたくて」
「いちばん……」
千種が、おうむ返しにつぶやいた。
「はい」
「よしんば、わたしが二番だったとしても?」
「一番ですわよ」
ギルドが保証している。最強を紹介しろと依頼したら、千種を出してきたのだから。
しかし、千種はそんなラビットの言葉に、へらりと笑う。
「いやー、二番なんです。一番は、おにーさんが君臨してるので。エルフさんにも、負けたことあるし。わたし、もう三番以下かも」
「ギルドでは、イオノ様が一番になっておりますわよね」
「あっ、はい。ギルドだと、アイレスを抑えられる人が他にいないので……。知ってますか? 白い着物の場違いに可愛い顔したのがいたら、喧嘩はしない方がいいですよ。噛みます」
困った顔で、そんな忠告をする千種。
侯爵令嬢は、意外に思う。
「……王宮の時とは、大違いですわね」
令嬢の記憶では、千種はいつももっとピリピリとした雰囲気で、張り詰めていた。
「王宮……? えっ、まさかそっち関係の人……?」
ラビットのつぶやきに、千種はびくりと反応した。
まるで怖いものから逃げるかのように、身を縮めている。
「い、いえいえ。お見かけしたことがあるなーって程度ですわ!」
慌ててそう取り繕った。
怖いのは、むしろラビット側である。今も、そして以前も、だ。
「そうですよね。仮面の人なら覚えてますよね」
ほっと胸をなで下ろす千種。
(仮面一つで、見覚えを無くさないでくださいますかしら!)
ラビットは、仮面でそんな怒りを隠し通した。
「王宮で見た時より、ずっと健やかそうで……お綺麗になられましたわ」
改めて千種を見つめて、ラビットはしみじみと思う。
千種は、ずいぶん変わっていたのだ。
顔を合わせただけで、まるで魂を冷たい指で撫でられるような気配をしていない。
ドレスを着ても隠せない、痩せこけた不健康な体。いつも不機嫌そうな、あの目。
それらが今では、影も形もなくなっている。
髪も肌もつやつやとしていて、目の下にあった隈は消えた。
ドレスを着るなら、今こそ似合うものが見つかるはずだ。
「あー、あの頃はねえ……」
「なにか?」
「王都のご飯が、めっちゃ不味かったので」
「うっ……」
ラビットに心当たりは大いにある。この街の──セヴリアスのくれるパンや料理は、王宮のそれよりずっと美味しい。
もしも千種があの水準を求めていたら、とうてい口に合わなかっただろう。
「貴族は野蛮人のくせに、変なマナーは押し付けるし」
「ああっ……」
ラビットに心当たりは大いにある。お茶会は十分ほど遅れて来場するべき──という貴族のマナーは、冒険者ならばありえない話だった。
もしも受付嬢が早めに教えてくれなければ、マナー違反で白い目を向けられていたのは自分の方だった。
(もしや、他人を思いやれない無教養な人間は、私の方でしたの……?)
千種に向けられた数々の悪評を、かつて令嬢は諌めなかった。
それは、無礼で思いやりの無いことをする千種が、悪く言われるのは当然と思っていたからだ。
しかし、この地に来てからは、千種の気持ちが少し理解できる。
今さらながら、侯爵令嬢の胸に後悔の念がこみ上げていた。
「王宮の家具だといまいちで、モスファーみたいなベッドとクッションくらいふかふかにしてもらわないと、ぐっすり寝れなかったし」
「それを用意できるのは、
王宮にそれが無いことで文句を言うのは、さすがに無理がある。
侯爵令嬢ほどの地位ですら、この土地に来て初めて味わったあれらの柔らかさ。
あれを作ることができるのは、この世に唯一人だ。
「ま、それはそう。おにーさんは、もはや醤油まで作れるし」
「ショーユ?」
「いえす。めっちゃ美味いものです」
「そ、そうですの」
ぎらん、と千種の目に妖しい光が瞬いた。
「今日は、わさび欲しいから、冒険者ギルドに依頼を出しに来たんですよ」
「もしかして、珍物探しの依頼ですの?」
「あっ、そうです」
冒険者からの依頼も、ギルドではよくあることだ。
遠方まで依頼書を回してもらうには、金や評価が必要だ。ちなみに千種は、実力はともかく評価の方は低く査定されている。
「あと今日は、甘い醤油でもいけそうなお魚を買って帰ります。お刺身で食べます。ついに……お刺身を、お醤油で……!」
勝手に盛り上がる千種だった。
その場に総次郎がいたら『煮貫だから』とでもつっこんだだろう。
うへへ、と頬を赤らめる千種を、ラビットはぽかんと見つめた。
「本当に、お変わりになられましたわね……」
「あっ、いや。別に……美味しいもの、食べてるだけです」
王宮では、こんな千種は絶対に見られなかっただろう。
「お醤油は、おにいさんがなんか美味しいもの広めようとしてるから、この街で食べられると思います、よ」
「……でしたら、私も御恵に与れますわね」
ラビットは、微笑みを浮かべて千種を見る。
もはや怖くはない。それに、今がピンチとも思わない。
ただ、彼女に会えて良かったと感じる。今の彼女になら。
「次に街へ来られた時には、お食事をご一緒しませんか?」
勇気を出して、侯爵令嬢は〈黒き海〉のイオノへ手を差し伸べた。
もう一度、すれ違っていたあのお茶会を、やり直したい。そう思ったから。
果たして千種は、にっこり笑った。
「……人と会う約束すると、森から出たくなくなるのでやめておきます。じゃ」
一方的に言って、風のように素早く立ち去った。止める間もなく。
千種は帰った。
「…………」
ラビットは千種に差し出した手を、ゆっくり握りしめた。
いや、棍棒。棍棒が良い。
冒険者として、普段から
「……今日は、最速弩砲でいきますわよー!」
フルスイングで素振りをして、部屋の空気をビリビリと震わせた。
千種は変わっていない。最強だけど空気が読めない、ヤバい女のままだ。
侯爵令嬢はそう結論を出した。
ただし──
そう心に決めた。
こんな勝手な振る舞いをされて、逃がしてバイバイで終わらせてなるものか。
「ワサビ、でしたわね。……侯爵家の力を、舐めんじゃねえですわよ」
冒険者に接するうちに覚えた汚い言葉遣いをあえて選んで、ラビットは笑うのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます