第130話 醤の記憶
その日は、起きて顔を洗ったら、そのまま厨房へと足を向けた。
厨房にはすでに明かりと火がついていて、人の気配があった。
「おはよう。もう始めてたのか。早いね」
「おはようございます、あるじ様。今日は、たくさん作らないとですから」
すでに中で働き始めていたのは、ヒナである。
水瓶にはすでに水が汲んであるし、米は研いであって水に浸けている段階。
必要な野菜や食材がほぼ取り出してあって、ヒナは研いだ包丁を拭き上げていた。
「あのっ、あるじ様……」
「分かってる。ヒナがいちばん気になってるやつに、取り掛かろう」
床を掘って作った収納を開けて、樽を取り出す。
それは味噌樽だった。
鬼族のみんなと豆を炊いて潰し、味噌を仕込んだ。その味噌である。
作ってからまだ半年も経っていないのに、と思うかもしれない。だが、味噌というのは仕込む時期によって熟成期間が異なる。
夏仕込みの味噌は発酵が早く、管理が難しい。しかし発酵が早いということは、できるのも早い。
なので、
「お、おお……! ギリギリだけど、いける……!」
「わあっ、すごい……! これがお豆なんて、信じられません」
味見をして、俺とヒナで盛り上がる。
味噌になってる。ギリギリそう言えるものが、そこにあった。
もちろん、もっと長く熟成させた方が味に深みが出るし、匂いも濃厚になる。
まだ胸を張って味噌と言うには、ちょっと足りないかもしれない。
だが、完璧でなくてもいい。そう判断した。
だって久しぶりの味噌だから。
「……あるじ様、泣いてますか?」
「泣いてないよ」
感動していたら、ヒナに心配されてしまった。
いけない。仕事に戻ろう。
さて、味噌として力強く出ていくには、まだ物足りないのだが。
「足りないものは、足していこう」
「はいっ」
腕まくりをして、半人前の味噌の改良に取り掛かる。
味噌として何が足りないか。旨味が足りていない。
旨味とは何か。アミノ酸である。
もちろん、それだけじゃないけれど、大きくはそこだ。
だから、他のものでアミノ酸を足す。特に、植物性の大豆の旨味に動物性の旨味を追加すると、両者が合わさって味わいは深くなる。
今回は、煮干しを使ってそれを足す。
ヒナが下処理してくれた煮干しを使って、いりこ出汁を作った。
「煮干しでいりこ出汁を取る。そして、味噌を溶く。そして、砂糖を加えて弱火で沸騰させないようにしながら、少し煮詰める」
「良い匂いがします……」
「ヒナに言われると自信が湧くね。さて、あとは濾したら完成だ」
濃い琥珀色をした液体ができあがった。
それは、
「煮貫。江戸時代に作られためんつゆだ」
ついに、日本の味となるものが完成した。
かつてうどんや蕎麦は、この煮貫で食べられていた。醤油は味噌の代わりになるし、味噌は醤油の代わりになる。よく言われることだ。
少し味が違うものの、味噌で食べても醤油で食べても、相性が良いものは多い。
なぜか。それは、どちらも
「んー……ん、おお、ちゃんと醤油味する……! めんつゆ……!」
煮貫は醤油の代用品になる。
これなら味噌の若さが、逆にありがたい。こってりした甘みが濃い熟成味噌は、同時に味噌臭さが強く出てしまう。
若い味噌は雑味が少なくさっぱりしていて、後を引かない。味噌に慣れていなくても、味わいやすいという利点がある。
刺し身を食べても、塩や油、酢や香辛料では、どうしても洋風と感じてしまっていた。酢飯で食べたものは美味しかったが、やはりあとひと味が欲しかった。
しかし、ここでようやく、
「醤油っぽいよう……!!」
ちょっと感動してしまう。
「あるじ様が、泣いてます……!」
「そ、そんなことない」
驚くヒナから顔を隠す。
胸中に、安堵がいっぱいに広がったのだ。
味噌と醤油。
それが手に入ったと言えることに。これからは、故郷の味を食べられるという事実に。
「醤油はまだまだ完成が先だけど、味噌がこれなら、待てるな」
仕込んだ醤油は、さすがに熟成が足りない。ヒナが毎日かき回して、面倒を見てくれている。
あちらもあちらで、完成が待ち遠しいものだ。
しかし、今はこのめんつゆで、
「……ちょっとだけつまみ食いしていい?」
「あ、ど、どうぞ」
「ありがとう」
めんつゆで朝ご飯前だけどご飯食べよう。
ご飯を炊く。超がつく早炊きでだ。
鍋に一合のご飯と水を入れ、強火で沸騰させる。沸騰したら蓋を取ってかき混ぜる。それから蓋を戻して弱火にする。火にかけて十分程度で水が無くなるので、火を止めてそのまま蒸らす。
五分。蒸らしが足りない。
でも、それ以上は待てなかった。
鍋から半分ほどを茶碗に移して、新鮮な卵と煮貫を用意。
卵かけご飯だ。
ご飯を炊く片手間で一緒に作った、ネギとアオサしか入っていない味噌汁を横に添えた。
「おお……!」
原初のシンプルさ。そして神々しさが、そこにあった。
良い。素晴らしい。
茶碗に盛られた米にくぼみを作って、卵を割り落とす。艶々と輝く卵黄に、煮貫を垂らして完成させる。
卵から落ちためんつゆを米が吸って、茶色く染まる。その様子だけで米が食えそう。いやなんか変になってる気がする。ふはは。
手を合わせた。
「いただきま──」
「ミ……ニ……ルゥ……!」
地の底から這い寄る、怖気すら覚える声が聞こえた。
「ミ……ニオイ……シュゥゥ……!!」
ガァン! と、すさまじい勢いで扉が開いた。
真っ青な顔で、髪を振り乱し、寝ていた姿のままと思しき薄手のシャツしか着ていない、すごい格好の千種が現れた。
寝起きで血圧が上がりきっていない。なのに、目だけは、気合で爛々と血走らせていた。
「ミソノ……ニオイ……スルゥ……!!!!」
俺は、まだまだ一年も異世界で過ごしていない。
四年もの間、醤の味から離れていた千種。
その隔絶たるや、寝起きの低血圧をも押しのけて厨房まで裸足で駆けつけてくるほどだというのか。
「タマギョカーケロォハァン……!! ワタシノハアァァ!!!!?」
卵かけご飯。わたしのは。
ギリギリでその言葉を理解した俺は、そっと箸を置いた。
「……お食べ」
もはや人の形を失いかけている千種を、どんな方法でも止められる気がしなかった。
「オオオオオオオーーーン!! オーーーーショオオオオユウゥゥゥ……!!!!」
千種は、そこにあるものを見て泣いた。
卵かけご飯と、味噌汁。たかがそれだけのものに。
食べながらも泣いている。泣きたいのか食べたいのかも、よく分からない。
「ヒトの域にとどめておいた闇魔法使いが、本来の姿を取り戻していく。ヒトのかけた呪縛を解いて、ヒトを超えた神に近い存在へと変わっていく。純粋に願いを叶える、ただそれだけの為に……」
横にした木の椀を太鼓みたいに叩きながら、なんか言っている妖精がいた。
なにしてるんだお前。
「いや、ろれつが回ってないだけだろ。どこから出てきたサイネリア」
「おしょうゆぅ……! ぐすっ……おいしいれふ……ふぅうう……!」
千種はしばらく泣いてから、ようやく聞き取れる言葉でそう言ってくれた。
おかわり、という意志を左手で突き出しながら。
「……良かったね」
俺は突き出されたお茶碗を受け取って、二杯目をよそった。
千種はちょっとずつ噛みしめるように、おかわりを食べた。
「よりより」「編み編み」
左右に座ったホロウとフウラが、勝手に千種の髪を梳かして左右から編み編みしているのも構わず、千種は涙を流しながらゆっくり完食した。
「俺の分……」
こっそりため息を吐くと、ぽんぽん、と背中を叩かれた。
「あるじ様、いま炊いていますから」
ヒナに慰められている。そんなにも、残念そうな顔をしてただろうか。
卵かけご飯と味噌汁は、大変美味しかった。
やっぱり久しぶりに醤の味を堪能できたのは嬉しい。俺の隣で三杯目まで食べていた千種ほどではなくとも、だ。
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