第118話 かき回すもの
鬼族の牛頭鬼。料理番のヒナ。彼女の朝は早い。
日が昇る前に起きて身だしなみを整え、まずは冷蔵庫を確認する。
「あらら」
熟成させていたソース瓶の中身が、見て分かるほど減っていた。
食材が勝手に減るのは、実のところ珍しいことではない。
こんなことが以前暮らしていた鬼族の村で起きたら、一大事だ。少ない食料を他人の家から盗み出すなど、子供でも殴られて制裁を受けるだろう。
しかし、ミコトの郷にいるのは総次郎と、総次郎が信頼を置くごくわずかな者だけだ。
少しばかり盗み食いをされても、「じゃあもっと作ろう」とでも言うだけである。
ヒナもそれを心得ている。慌てず騒がず、冷蔵庫を確認する。
ソースの他に、バターと卵。パンと蜂蜜がたくさん。砂糖とシロップに、ヒナが窓辺に置いておいたクッキーもきちんと消えている。
ヒナにとって、犯人の特定は容易い。
「……儚くて、柔らかい香り。
現場に残された匂いが教えてくれる。それはヒナにとっては簡単なことで、ごく当たり前のことだ。
ヒナの鼻が、爽やかで上品な花のような香りを嗅ぎつける。
「サイネリア様?」
「ご明察。優秀な妖精から拍手を贈ります」
ぱちぱちぱち、と小さな音が厨房に響く。ヒナの振り返った先に、サイネリアがいた。
「今日は多かったですね。お祭りでもありましたか?」
バターが一欠片、クッキーが数枚。いつもなら妖精が取っていくのはその程度だ。
「黒いものを食べたら白いものが欲しくなる。その無限ループで、フィーバーしたのでしょう」
「この量ですとさすがに、あるじ様に隠したりできませんよ」
作りたてのソースを、総次郎が確かめないわけがない。
「妖精は逃げも隠れもしません。かくなる上は、この首を落としてバターとソースでさっと炒めて詫びを入れましょう!」
サイネリアが蔦で縛り上げたキノコフェレットに正座させ、刀を手にして介錯の構えをする。
フェレットはキュゥキュゥといかにも哀れな声で鳴いて、チラッチラッとヒナを盗み見た。
「えいっ」
「あ」
ヒナの手が、キノコをキュッと締め上げた。キノコの全身から胞子のように光が飛び散る。よく見ればそれは、通常より小さな
「この子は新しいソースの材料にしますね」
「なんという猟奇的なことを!」
「ええっ? バターソース炒めにしようとしてたのに……?」
ヒナは困惑する。
サイネリアは、きりりと顔つきを引き締めた。
「──散ッ!」
大妖精の合図で、
「……あらー」
妖精たちは、たちまち霧散して姿を消した。
いつものことである。
◯
熟成させていたソースが、ずいぶん減っていた。妖精たちが好むものとは思わなかったのだが、そういえば新しくキノコがいた。
そっちに取られたのかもしれない。キノコとソースって相性良いし。
「ヒナはサイネリアに甘いよね」
「そ、そうでしょうか……?」
頭の角を掴んで肩に乗るアイレスを見上げて、ヒナが困惑している。
「そうだよ。あいつのいたずらのせいで、ソース作り直しなんだよ? がっちり捕まえて、なんかさせようよ!」
「サイネリア様は、私なんかには捕まらないと思いますけれど」
困った顔で笑うヒナだ。
「ボクも食べてみたかったのにー。ソース」
「まだまだありますよ」
「ほんと? じゃあなんで追加してるの?」
「材料はいっぱいありますし、あるじ様が街へ持っていくそうです」
「え、そうなのソウくん?」
アイレスはふわりと飛び上がり、俺の背中にぴっとり張り付いた。
「そうだよ」
「じゃあまた乗ってね!」
角をごりごり頭に押し付けてくる。
「はいはい」
いつもこの調子なので、街に行くときにはアイレスも一緒だ。
イルェリーと俺だけで飛竜に乗って行って帰ってきたら、ものすごく拗ねていたことがある。
いつもなにか暴れているアイレスの機嫌を直すのに、付き合いの長いヒナが尽力してくれた。
大人びたヒナとお転婆なアイレスは、まるで歳の離れた姉妹のようだ。
「ソースってほんとに美味しい? あんまり美味しそうな見た目じゃないけど」
「このまま食べたりしませんから」
「だよね。そんなことになったら、またヒナがめそめそ泣いちゃう」
「も、もう泣きませんよ」
恥ずかしそうなヒナの返事に、俺は意外に思ってつい反応してしまう。
「そうなのか?」
「そうだよ。ちょっと前は、めそめそ泣いてたよ。ボクが初めて見た時も、泣いてた。ボクの御側付きになっても、わりと涙目だったし」
「あれは……その、アイレス様が、ずっと眠っていましたので……」
◯
「ご飯? いいよ別に。いらない」
「申し訳ありません……」
アイレスのお側仕えをしているヒナは、自分が何も役に立っていないと痛感する。
鬼族は玄米のまま粥や蒸して食べる米を、ヒナはていねいに搗いて白米にする。
白くなるまで搗いた米を、さらに選別して状態の良い粒に整える。それからようやく、鍋で炊く。
魚は新鮮なものを用意して、皮を綺麗に焼き上げる。塩は少し高さをつけて振る。
山菜は苦みを抜いてから、茹ですぎないように。
天龍族は、あまり味を感じないらしい。食事の良さは舌触りや歯応えや喉越し、それくらいだという。アイレスはそう話した。
「……何も、できません」
牛頭鬼のヒナは、鼻も舌も鋭敏だった。普通の鬼より力も強く体は頑丈だった。
それら全て、天龍族にとっては些末な個体差だ。
天龍を脅かすほどの敵に、牛頭鬼が体を張ったところで盾にはなれない。
料理はただ形と感触を整えれば良く、多少の工夫をしても意味が無い。
アイレスのお側仕えをしているのは、ただ幸運にも偶然出会った天龍の姫が気まぐれに指名したから。
そのお役目には、ヒナはむしろ感謝していた。雑用も料理も、戦士の下でやる何倍もていねいにしなさいと言われる。ヒナにとっては、むしろ望むところだった。
天龍族の食事を用意することも、ヒナには苦痛ではなかった。他の誰よりもていねいに、アイレスのために作り続けた。
「いらないや」
「かしこまりました……。申し訳ありません……」
そう断られたものは、ヒナが代わりに食べた。
すっかり冷めた食事を口に運びながら、罪悪感ばかりが募る。
他の鬼族よりも、ずっと良いものを食べている。
ていねいに仕事をするのは、ヒナにとっては当たり前だ。あまり役に立てていないのに、村の皆よりこんなにも質の良いものを口にしている。
お側仕えになってから、食事を自分で用意できるようになった。食べる物で苦痛を感じることがなくなった。
自分がこんなにも恵まれているくせに、アイレスの無聊を慰めることさえできない。
たまに呼ばれた時に言うことを聞いたり、添い寝をするくらいが精々だ。
「薄いや、やっぱり」
「申し訳ありません……」
たまに食事をしてくれる。
「でも米も魚も、ヒナの作るやつは柔らかいからいいよ」
「申し訳ありません……」
天龍にとって、普通の食べ物というのは味が薄いのだ。
味付けではない。物の存在が薄い。
だから天龍は強敵や霊山を求める。強い魔力や神性を宿し、力をぶつけても良い相手を。清らかで神性の宿る水を。
あるいは強く興味を惹かれる何かがあれば、天龍の方から俗世に寄って立つことができるという。
いま、アイレスがこの地で育てた米や魚さえ希薄に感じるのは、生に興味を失いつつあるからだ。
永い生と大きな力を備えているのに、虚しさを抱えたままそれを全うすることはできない。そんな時に、天龍の魂は空に還ろうとしてしまう。
そんな状態を、親であるラスリューに伝えるのもヒナの役目だった。
偉大な天龍であっても、それをすぐに解決する手立ては持っていなかったようだ。
「ヒナ、我が子から目を離さないでやってください。今、あの子は気難しい頃なのです」
ただそう告げるだけだった。
「申し訳ありません……」
力も気高さも、慈悲さえ十分に示す鬼族の庇護者に、そんなことを言わせてしまう。それはヒナの心に堪えた。
ある日、ヒナが選別しておいた白米が消えた。
アイレスのためにわざわざ村の外から運び込んだ、ビールの樽まで一緒に。
大慌てしたものの、そこに微かに残る爽やかな花の香りに、妖精の仕業だと気付く。
「サイネリア様……?」
大妖精とアイレスは、いたずら友達のような関係だった。
サイネリアが絡むと、アイレスが遠くの国まで行って暴れて帰ってくることがよくある。
それは他の龍に迷惑がかかっていたりして、ラスリューがその後始末に乗り出すこともあった。
しかし、天龍の姫は暴れ甲斐があった事件を、得意げに語ってくれた。
今回も、もしや、という願いを託してヒナは祈った。
「申し訳ありません……サイネリア様、どうか御力を……」
「お断りします」
不意に、大妖精の声がしてヒナは周囲を見回した。
しかし、その姿はまったく見えない。
「ご自分でどうぞ」
どこかから、そんな言葉だけ残して妖精の気配は無くなった。
「申し訳ありません……」
妖精を思い通りに働かせようとするなど、おこがましい。ヒナは浅ましい考えを恥じた。
でも、他になにをすればいいのかも分からなかった。「ご自分で」などと言われても、自分にできることなど何も無いのに。
その数日後だ。
信じられないほど良い香りと感触のする、不思議な食べ物が消えた白米のかわりに置いてあった。
妖精が持っていった白米とビールは、遠く離れた神樹の森で、
それをアイレスが口にして、顔を明るくした。
ヒナは、そこに希望を見た。
それからは、夢のように目まぐるしく、様々なものが変わった。
仕える相手が変わった。手にするものが変わった。住むところも、やることも変わった。
何より、アイレスが変わってくれた。
何日も眠って過ごすことはなくなり、森の中でいろいろなものを捕まえたり、飛竜を愛でたり、飽きることなく朝に起きてきてくれる。
そして、幸運にも己が
なんの役にも立たないと思っていた、鼻と舌。
それを使うだけで、アイレスが喜びを露わにしてくれる。
ヒナはもう、不安になりながら食事を作っていない。
それはヒナが神樹の森と
◯
「アイレスって、そんなに寝てたのか?」
俺が聞きとがめた部分を問い質すと、アイレスはぷくっと頬を膨らませて不機嫌になった。
「それはずっと前の話だから! 今はちゃんと毎日起きてるし食べてるじゃん!」
「はい。アイレス様は、元気になりました」
両手で角を掴んで暴れられても、ヒナは多少横に揺さぶられる程度で意に介さず微笑んでいる。
すごいな。
というか、毎日ちゃんと食べてすらなかったのかアイレス。それはいけない。
「今日も美味しいご飯を頼むよ、ヒナ。アイレスが食べられるように」
「美味しいのよろしく~」
ヒナは胸に手を当てて答えた。
「お任せくださいっ」
ヒナの頼もしい返事を聞いて、
「……ふふーん」
アイレスは、機嫌良さそうに笑っていた。
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