水槽の中の人魚
「ごめんなさい。叫ぶつもりはなかったのよ」
救急箱をテーブルの上に置いて、ピンセットで挟んだ丸い玉のコットンに消毒液を染みこませる柚葉さんの隣でノゾコさんが俺に謝った。柚葉さんの後ろでは同じように座った源太さんが果林さんに治療されていた。スプレーの消毒液を擦りむいた肘に直接かけられて痛そうな声をあげている。
柚葉さんに治療されてよかった。
「にしても、謎解きではしゃいでこけるなんてな!」
長いテーブルの向かい側で、十市さんが目尻にうっすら涙をためるほど、笑った後にまだ笑いを含んだ声でそう言ってきた。
ノゾコさんの大きな悲鳴はどうやら滞在している二階の部屋まで届いたらしく、食堂に元々いた柚葉さんだけではなく、二階の自室でくつろいでいた十市さんまでホールに集まってきたのだ。
十市さんが爆笑していても俺には彼を怒る権利はない。何故なら、俺が今履いている半ズボンは十市さんから借りたものだからだ。
両膝をひどくすりむいていたため、ジーパンは脱いで治療しやすいように半ズボンに着替えてきた方がいいと柚葉さんに言われた。しかし、俺は半ズボンを持ってきていないと話すと話を聞いていた十市さんが貸してくれると言ってくれたのだ。
「魚澤さんと姫子さんに救急箱の場所を聞いていてよかったわ」
俺の膝に切ったガーゼをのせて、テープでそれを留めた柚葉さんはそう言った。
「ありがとうございます、柚葉さん」
「いえいえ」
俺は右手の腕時計の表面を指の腹で撫でた。表面にヒビなどが入ってないことを確認してほっと息をつく。秒針もきちんと動いている。やっと十七時になったところで、秒針が規則正しく三十秒のところを回っていた。
「村に行ったんだろ? なにかめぼしいものはあったのか?」
十市さんが俺を見る。
どうしたものか。
プラカードを見つけたと言っても俺は内容を知らないし、そもそも十市さんのことは資料館と食堂でしか見かけていない。謎解きにはきちんと参加しているのだろうか。
己龍のことをちらりと見やってから俺は口を開いた。
「十市さんが言っていた島民の失踪が本当だったというのは分かりましたよ。家の中が猛獣に襲われた後みたいに荒らされていて、家も屋根に穴が開いていたり、窓や扉が壊れていたりしてました」
「そうか」
「謎解きは進んでますか?」
「神社には行ったぞ」
十市さんはズボンの後ろのポケットから折れ曲がってしまっている入鹿島調査ノートを取り出して、軽く掲げた。
もうすでに民謡の謎まで解けている。さすがに犬小屋の謎は解けていないようだが。
「民謡の意味は分かったんですか?」
「まだだな」
俺はほっと胸を撫で下ろした。源太さんに続き、十市さんまで答えを分かっているとなると、いたたまれない。
「俺が謎解きに乗り気じゃないと思っていたな?」
「だって、十市さん、全然参加しなさそうだもん!」
果林さんがけらけら笑いながらそう指摘すると十市さんも自覚はあったようで肩を震わせて笑っていた。
柚葉さんは救急箱を閉じて、片付けてきますねと奥のキッチンへと消えてしまった。己龍に何か飲みたいかと問われ、コーヒーを頼んだ。珍しく気を利かせてくれるのは俺が怪我をしたからだろう。
まぁ、この怪我は俺の自業自得なところがあるから、少し恥ずかしいのだが。
「俺もジャーナリストだからな。謎が多い入鹿島のことは調べたいわけだ。スクープになるかどうかは分からないがな」
「でも、謎解きのためにストーリーはいじっているはずだから、今回の謎解きのストーリーが実際の歴史と関係あるかは分かりませんよ」
源太さんの指摘ももっともだ。しかし、十市さんは肩を竦める。
「魚澤に聞いたんだよ。このストーリーは創作なのかって。そしたら、なんて答えたと思う? この島にあった出来事をそのままストーリーにしていますだとよ」
身震いがした。
あの人形小屋に敷き詰められた人形も、猛獣が暴れまわった後みたいな村も、全部、この島で起こった出来事だと。
そんなことがあるのか。
「ウチら、資料館で調べたけど、この島に来た人達、下半身がなくなった状態で見つかったっていうのも本当なの?」
「ああ、本当だ。それは調べ済みだ」
十市さんが胸ポケットから煙草の箱を取り出して、一本咥える。もうほとんど中身がないのか潰れかけた箱がまた胸ポケットに押し込まれる。
「だったら、なんで俺たちは大丈夫なんだ?」
俺の前に己龍がコーヒーを置いて、源太さんの前に水を置く。
「入鹿島へやってきた大学生三人は下半身がなくなった状態で見つかった。そして、スレで「1です」と名乗ってた奴ももしかしたら、下半身がなくなった状態で見つかったかもしれない。となると、入鹿島に来たよそ者は下半身をとられて死ぬんだろ? だったら、どうして俺たちは死んでないんだ?」
人魚に足をとられてしまう。
俺たちは何故まだ足をとられていないのか。大学生三人と俺たちの違いはいったいなんなのか。
「よくあるのは罰当たりなことをしたとかだよねぇ。ほら、お地蔵さんのことを蹴っ飛ばすとか!」
「でも、映像の三人はそこまで罰当たりな行動はしていないと……」
「なんだ、お前らもあの映像見たのか」
十市さんの言葉に源太さん以外の全員が頷く。ノゾコさんは思い出してしまったみたいで青ざめている。幽霊や驚かしが苦手なだけではなく、彼女は血も苦手らしい。いつの間にか、俺たちからずいぶん離れた席で小説を開いていた。気にしていないように見えて、こちらの話に耳を傾けているのが分かる。
「ええ、見ましたよ」
「だったら、一つ心当たりがあるだろ?」
「罰当たりな行動ですか?」
「本殿の鍵を開けるんだよ」
「……なるほど」
大学生らしき男三人のうち一人が本殿の南京錠をピッキングしようとした時に、本殿の格子の向こうから人の指らしきものが出てきた。
もしかして、本殿を開けた人間は、全員人魚に足をとられて死んだのではないか。
「でも、そうなるとおかしくないですか?」
「なにがだ?」
「だって、この謎解きの主催は、きっとあの本殿の中も探索できるようにしているはずです。だとしたら、主催者側の人間はあの本殿の扉を開けたことになる」
資料館に鍵まで用意しているのだ。本殿の中に入っていないわけがない。入鹿島の都市伝説などを題材にしているゲームをするのに、島の隅々まで調べるのは当たり前だ。
「手順を踏めば大丈夫かも……」
源太さんは、右手に何かを持って捻る動作をする。
「資料館に鍵がありましたよね? あれで本殿の扉を開けたら大丈夫だとか、ありませんか? だって、入鹿島の人達は本殿を開ける時に鍵を使っていたはずだから」
ピッキングなんて罰当たりなことをしなければ、大丈夫というわけか。しかしまぁ、ゲームで足をとられるなどということは起こらないだろう。カサゴ館に滞在して二日目になったが、俺たちに異変は見られない。
救急箱を置いてきた柚葉さんが今度はクッキーの入った缶を両手に抱えていた。
「わぁ、お菓子!」
「休憩といきましょうか」
「おいおい、あと二時間もすれば夕食なんだぞ」
十市さんもぶつくさ文句を言いながら、開いた缶の中から真っ先にクッキーをとっていった。
「なぁ、琉斗。気になることがあるんだが」
己龍が俺の傍にやってきて、小さな声で話しかけてきた。その声を遮るようにして、大きな水しぶきの音がする。
食堂にいた全員の視線が、食堂の壁の大型水槽へと向けられる。
水槽の中には、何種類かの色の濃い魚。装飾品の岩や水草。
たった今、現れた赤い大きな布。
そして、水の中で眠ったようにぐったりとしている、姫子さんがいた。
「え」
誰の声だったか、呆気ない驚きの声がした後に弾かれたように己龍が近くにあった椅子を掴むと水槽のガラスに向かって持ち上げた椅子を振り下ろした。
しかし、木製の椅子ではガラスを割ることはできない。
水槽の中の姫子さんは水の中から出ようと動くこともなければ、口から空気の泡を出すこともない。
あれはもう、死んでいる。
赤い布は水の中でゆらゆらと動いており、その布は姫子さんの下半身を包んでいた。両足をまとめられ、鮮やかな色の布の先が水に揺られる姿を見て、俺はこう思った。
人魚みたいだと。
「おい、坊主、それじゃ無理だ! どけ!」
十市さんがどこから持ってきたのか、消火器を持って、水槽の前までやってくるとガラスに消火器の底を叩きつけた。椅子の時よりも重い音がするが、ガラスは一部分が白くなっただけで割れる様子はない。
「十市さん、それ貸してくれ」
己龍がさっさと十市さんの手から消火器を奪い取り、思いっきり、ガラスにその底を叩きつけると、先ほどまでの攻防はなんだったのかと思ってしまうほどあっさりとガラスにヒビが広がっていき、水槽の水が食堂の床へと溢れ出した。
「二人とも大丈夫⁉」
果林さんが割れたガラスの近くにいた二人を心配する。しかし、ガラスは飛び散ったものの二人に怪我はない。
「姫子さんっ!」
姫子さんの身体は水槽の中から出てこず、装飾として置かれていた岩にもたれかかるようにして、横たわっていた彼女は眠っているようだった。
眠るように死んでいた。
己龍が姫子さんに駆け寄った柚葉さんの隣に行き、姫子さんの首元に触れ、こちらを振り返ると首を横に振った。
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