第31話 Prolapse(脱出)

「ん……っ」


穏やかな朝の空気が満ちた静かな部屋の中、田中アリスは目を覚まし、むくりと身体を起こす。ツインテールだった髪は一つに流れ、いつも枕元にあるはずの鏡が無く、よくよく思い返せばここが自室ではないことを起きたばかりの頭で理解する。


(ここは……そうだった、私は昨夜、食事の後に眠って……)


ベッドで寝る習慣だった彼女にとっては人生初の敷布団だったが、部屋に満ちた畳の匂いは存外気持ちが良かった。

布団や下着、パジャマはじっとりと汗に湿っていたが、頭はすっきりと冴えて、まるで悪いものを全部流しきったかのように身体が軽い。


「せきな様はどこに……」

「起きたか」

「ひっ!? だ、誰ですか?」


開けた襖に背を預けて、見知らぬ女性が立っている。その状況にアリスは上半身だけを起こして布団を手に後ずさったが、


「医者で、薬剤師だ。一応な」

「やく……ああ……」


ほっとしたように息を吐いて、安心した表情に戻る。そう言えば昨日ここに寝かされたとき、誰か現れたような……と、思い出していた。


「安心するのはまだ早い」

「え?」

「お前のお祖父様が来る。十分後にな」


その言葉に、アリスの身体が震えた。

蒼白な顔で、しかしその感情は『戸惑い』。

自分がなぜ、大好きな祖父を怖れたのか分からず――


「嘘だ」


言葉と同時に、安堵した。

その安堵で、アリスは自分が祖父をもう信用できないことを完全に自覚してしまう。


「……善悪の判断はつくらしいな。助かる。これで話が通じなければ、最悪この仕事を降りていたぞ」

「……私は、」

「おっと」


女医の懐から出てきたのは、一枚の紙。

『盗聴されている』と書かれたそれは筆で書かれた、美しい字だった。


「私は……お祖父様のためにも、今回の戦いを勝ち上がると約束しました。貴女は祖父の味方ですね?」

「ああ、報酬も受け取ったからな」

「なるほど」


更に見せられたのは、『具合が悪いフリをしろ』と書かれた紙。


「ごほっ、ごほっ……すいません、まだ気分が悪くて……」

「そうか、なら薬を出そう。あまりに我慢出来ないようなら強めの薬を出すが、今日一日寝るしかなくなるぞ? 他の薬を飲むなど論外だ」

「構いません、ごほっごほっ」

「仕方ないな」


そう言って、枕元に歩み寄った女医にピルケースごと錠剤を渡されるアリス。

そこには手紙が入っており、


「今日一日やることがなくなるということなら、私の仕事は終わりだ。その薬は食前に飲むものだからな、『身体に良い』朝食を運んでやる――頑張れよ」


そう言って、去って行ってしまった。

しばらくしてから戻ってきた女医はおかゆを盆に載せて持って来たが、


「あ、そうだ。せきなだがな、昨夜車が爆発して行方不明だ。まぁ知っての通り死ぬような人間じゃないから安心してくれ」

「ぶふっ!?」


その一口目を、盛大に噴いたのだった。


――そして同時刻、別の場所。


「一体どうなっている!」


河川敷の有料駐車場に停めた黒い大型車の中、怒鳴る男の声がした。

中の声は外に漏れない作りだが、犬の散歩をしている男性やランニング中の女性が、見慣れない不審な車を気にしつつ去って行く。


「あの女の死体が無いだと!? ええいもう良い、どうせあの火薬量だ、生きていられるはずがない!」

「私もそう判断します」


スマホに怒鳴る男の横には、黒い球体。

そして更にその傍らには、黒い袴を着た巫女風の衣装のアンドロイド――八咫が無言で立っている。


「ところで武蔵様、この先のプランはいかがいたしますか?」

「プラン……ああそうか、あの女の余計な知恵で、明日の18時に決闘とやらの予定だったな」

「アリス様の体調をおもんぱかってのことですが」

「だからそれが、余計な知恵だろう。下手に休ませるから体調を崩す」

「……」

「まぁいい、プランは私のものを継続する。カグヤとかいうガキの行方は?」

「昨晩は駅前に帰してからは不明だそうです、住民票の住所にもいません」

「子供とはいえ、流石にノコノコ家に戻りはしないか……殺してしまえばそれで終わりだったが仕方ない。今日一日、探して殺せ」

「その命令には従えません」

「何?」


冷たく言い放った声に、黒いセバスチャンが反対した。

面食らった武蔵が何も言えないでいると、黒いセバスチャンは更に言葉を続ける。


「特例的に昨日は迦具夜 彦善の殺害を容認されましたが、今現在の契約者パラディウムはアリス様のみですので。部外者の命令は私も八咫様も拒否が可能です」

「融通の効かないことだ……アリスは?」

「寝ています」

「もう朝だろう! 起こせ!」

「それが、体調が悪いとのことで、先程……」

「くっ……!」


ヘッドフォンをつけた黒服の女性に弱々しく言われ、歯ぎしりする武蔵。

本来なら話し合いなどせず、契約者さえ殺してしまえば終わったものを……と、武蔵から見て愚かな女、せきなに心中で悪態をついた。


「仕方ない、数は少ないが、こういう時のために使える連中がいる。そいつらを使うが……部外者がお前らの敵を殺すことに、不便があるか?」

「いいえ。しかし、一つだけ」

「ん?」

「我々の前に、あのヴァンシップ……ノヴァを連れてくること。それは確約して頂きます」

「……妙な注文だな。聞いてやる義理がどこにある?」

「部外者に詳しくは開示しませんが、より得られる報酬が増える、とだけ」

「ふん、一丁前に謀か」

「いいえ、脅しです」

「は?」


ひん、と空を切る音がして、銀色の針が、その場にいた人間全員の急所スレスレで止まる。

八咫の袖口から伸びた万能ナノマシンの針が生殺与奪を握って、


「ありがとう、セバスチャン」


冷たい声で、八咫が主導権を引き継いだ。


「この程度、容易いことです。あとはご随意に」

「ひっ……」

「武蔵、貴方は優秀な個体。少なくとも、他の人間よりも……あの人間よりも」

「あ、あの、人間……?」

「トモトギセキナ……あいつ!」


それは、機械であるはずの八咫が初めて見せた、怒りだった。


「契約者に黙ってカグヤヒコヨシを処分しようとした引け目があるからって、好き放題! しかも契約させてから……! 腹が立つ! これが怒り!? こんな電気信号、一秒だって耐えられない!!」

「あ……か……ひゅー……っ、あ

あぴっ、ふぇあ……」


黒服の男の首から針が入り込み、肉を盛り上げて体内を進んでいく。脳に到達しているのか、屈強なはずのその男は異常な呼吸をしながら、電流を流されたように痙攣していた。


「や……い、いぇ、お止めください、八咫様!」

「人間ごときが指図するな!!」

「ぐぇっ」


カエルのような声を上げて、男が倒れる。


「は、ひっ、ひ、ひぃ……ひ、」


未だびくびくと痙攣するその様を見て、震える女も過呼吸を起こし、椅子から倒れ落ちた。


「八咫様、これ以上は」

「分かってる」


それで満足したかのように針を引っ込め、武蔵を見据えて八咫は口を開く。


「一度しか言わない、覚えろ」

「は、はい……」

闘いポリオにおいて、私が目指すのは勝利。やっぱりお前の策じゃ足りない……明日私達が完膚無きまでに勝てるように準備しろ。契約者を殺すのは許さない。でもそれ以外は全部やれ」

「わ、わか、わかりました……」

「ん」


八咫が頷くと、空中で金属らしき物体が輪になって、武蔵の皺の刻まれた首に巻き付く。


「こっ、これ、は」

「通信機。しくじったらそれを爆破して殺す。死を回避するためにパフォーマンスが上がることくらい、知ってるでしょ? 何か反論がある?」

「あり、ありません! 命を懸けて、あなた様にお仕えいたします!」

「ん。なら出て。邪魔」

「はいぃ……」


バタバタと、慌ただしく車から出ていく武蔵。その後ろ姿を冷たい目で見届けて、


「最初からこうすれば良かった。『感情』……初めて起動したけど、こんなに私が変われるなんて……」

「全くですね」


呟き、機械が2つ、人の命を弄ぶ。


「さて、これはどうしますか?」

「決まってる」


そして、残った命は、あと1つ。

気絶して床に転がる黒服の彼女がこれからどうなるのか――


「せっかく『教材』があるんだから、少し調べる」


……少なくとも、それを今知る人間は、宇宙のどこにもいなかった。


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