第11話 Alteration(変容)

 ――彦善は、夢を見ていた。


 それは誰にとってもありふれた小さい頃の夢で、自分が住むマンションの子供部屋で玩具に囲まれて、一人で遊んでいるだけの夢。


 ――完成したジグソーパズル。

 ――完成した積み木の城。

 ――完成したクレヨンの絵。


 絵を描くのに飽きて、新しいジグソーパズルを組み立てる。

 ジグソーパズルに飽きて、新しい積み木の城を作る。

 積み木を組むのに飽きて、新しい絵を描こうとする。


 ……けれど、描きたいものがなくて、幼い自分の手が止まる。

 そこへ玄関のチャイムが鳴って、振り返れば……


「っ」


 彦善が目を覚ますと、そこには見知った天井があった。

 部屋には目覚まし時計の電子音が響き、ベッド脇にあるそれに手を伸ばした彦善は、自分が制服姿な事に驚いて目を覚ました。


「えっ、え!?」


 慌ててベッドから飛び起きて自分がいた部分を見ると、僅かに薄汚れたシーツと布団がそこにある。


「な、なにやってんだ、僕……」


 布団についた汚れを手で払いながら、覚醒した意識が段々と昨晩のことを思い出させる。自分は夕映の家を出て、駅前でピースメイカーを見て……


「……家に帰ったん……だよな?」


 記憶はないが、自分が今ここにいるということは、そうとしか考えられない。

 だからといってそのままの姿でベッドに入るのはかなり頭がおかしい気もしたが、ともあれ目覚まし時計の表示は金曜日の朝。

 慌てて服を脱いだ彦善は、ベタつく汗を流すために急いでシャワーを浴び……


「いてっ!」


 頭に、痛みを感じた。

 そしてその痛みの正体はすぐに分かった。


「うわやっべ……」


 風呂の床を流れる、赤い血。頭からの出血なのでしばらくは止まらないことを覚悟したが、意外にもすぐ止まったその血は流れきって、痛みも消える。

 そこに違和感を抱きつつも時間が迫っているため、乱暴に髪と体を洗った彦善は新しい下着を着て、急いでキッチンに向かった。


「はぁ!?」


 しかし、そこでも彦善は驚きに叫ぶ。

 両親が海外にいるために普段はほとんど使われないキッチンが、まるでパーティでもした後のように散らかっている。

 しかも散らかっているのはカップラーメンや冷凍食品の袋、あとは大量の空のペットボトルで、考えられることは一つしかない。


「僕……が、やったのか……?」


 さっきシャワーを浴びたばかりなのでもはや分からないが、彦善が一人暮らしな以上、こんなことを出来るのは彦善本人しかいない。 心なしか口臭も何かを食べた後のような気がして、しかし満腹感は微塵も無いのだ。


(む、夢遊病……とかかな……)


 不安になりながらも、それを検索する時間も、スマホと言う手段も、今の彦善には無いのだった。


 ――そして、それからしばらくして。


 マンションの一室に鍵をかけた彦善は普段通りエレベーターを降りて、通い慣れた通学路を進む。

 何故かスマホは見つからず、無性に空腹な彦善が肩を落として歩いていると、


「やあ、迦具夜くんおはよう!」


 後ろから声がした。


「よぉ、財前……」

「昨日は大活躍だったらし……何だか元気無いじゃないか、どうしたんだい?」


 現れたのは、いかにも好青年といった感じの、四角いメガネの男子だった。

 ホコリ一つない制服に身を包み、清潔な白い靴下や光沢のある靴、そしてよく見れば相当に筋肉質なその身体からは、威圧感にも似た真面目さが伝わってくる。


「いや、昨日の夜も色々あってさ」

「……もしや、瓜山さんの件かい?」

「あ、いや、違うんだけど……」

「そ、それはすまない! また彼女を決めつけてしまった!」

「良いってそれは。しゃーないし」


 仲良く並び歩く二人だが、彼らの初対面は決して良好な出会いではなかった。

 今年の春――つまり高校2年生の新学期、中学生時代から続く彦善と夕映の関係をクラスメートの誰かが揶揄やゆし、彦善はそれを無視したが、彼、財前 清晴はそれを真正面から注意した。

 注意された女子生徒はそそくさと帰ったが、そこで振り返った清晴は、


「君が迦具夜くんか、改めてよろしくな! ところで思うんだが、キミは何でその不登校の女子の世話を焼くんだい? 高校は義務教育じゃないんだ、新学期なんだし、既にこのクラスに問題があるとも思えない。学校に来ないのは流石に甘えと言われても仕方ないのに何故……」

「うるせえな何だお前」


 このように、真正面から逆鱗に触れた。

 それがこうして並んで通う程度の仲になったのを、彦善は清晴の性格故と思っている。クソ真面目で言いたいことは言うが、ちゃんと気遣いもするし悪い奴では決してないのだ。


「あの日以来気をつけていたつもりだったんだが……本当に済まない! 殴ってくれて構わない!」

「僕が構うわ、本当に財前は真面目って言うかさ……その……まぁ……良いんだけど……」


 いっそ変人とすら呼べるテンションだったが、空腹のせいか彦善は言葉を途中で諦める。


「……何だか本当に具合悪そうだね、大丈夫かい?」

「わかんねぇ……」

「まさか朝食抜きとかじゃないだろうね」

「むしろ食べたはずなんだよな……」

「食べたはず……? よく分からないけど、具合が悪いなら早めに病院行くべきじゃないかな」

「……考えとくわ。スマホもどっか行ったからマジで困っててさ」

「そりゃ不運だったね」


 その言葉に返事をするように、彦善の腹が鳴ったのだった。

 そして二人が学校に到着し、自分達の教室に入り、席につくと、やることの無い彦善の目が眠気で細まる。

 空腹と相まって抵抗する気力もなく、目を閉じて、目を覚ましたら昼だった。


「……え?」


 感覚としては、一瞬。

 ふと目を閉じただけのつもりが一瞬で数時間寝入ってしまう……それ自体はありえなくもないことだったが、今朝の出来事と相まって、不安の汗が彦吉の背に流れる。


「おぅーっすお前ら席につけー」


 時刻は四限目、教科は数学、現れたのは初老の教師、佐藤。

 その手にいつものコンパスと三角定規はなく、名簿だけだ。


「げ! 先生マジですか!」


 それにより悟った生徒が、教室の後ろで叫ぶ。


「そーだ。抜き打ちテストだ諦めろー。ほら起立起立ぅー。タブレット出せー」


 特徴的な口調で佐藤は笑い、教師用のタブレットを取り出して何やら打ち込む。

 すると電子黒板に『抜き打ちテスト』の文字が並び、全員が机の上に出したタブレットへとデータがインストールされた。

 挨拶が終わって席に着き、全員が食い入るようにタブレットに来たデータを見れば、そこにはテスト用紙が問題なくインストールされている。


「エラーは無いなぁー? そんじゃ始めぇ」


 パイプ椅子に腰かけ、腕時計に目をやる佐藤。

 突然の抜き打ちテストにとりあえず体調のことを気にしないことにした彦吉は、苦手な数学のテストを目にして、


(……あれ?)


 違和感を覚えた。


〈1×2×3×…×25の値は末尾に0が何個つくか答えよ。〉

〈円周率が 3.05 より大きいことを証明せよ。〉


(なんか今日……えらく簡単だな)


 これくらいなら解けるだろ、と理解してペンを取り、周りに合わせて画面に書き込んでいく。コツコツと画面を叩く音がしばらくして、


(……解けたわ)


 彦吉の手は一度も止まることなく、答案用紙はすべて埋まり、時計を見ればまだ時間的に余裕があった。

 しかし見直しをしようとした彦善の制服の袖が画面に触れて、『提出』のボタンを押してしまう。するとピコッ、と電子音がして、


「あ、やべ……」

「おお迦具夜ぁ、やるじゃないか!」

「え?」



 満点、の表示が流れた。

 戸惑う彦善をよそに、教師は答案を見ながら満足げに頷く。


「いつも言ってるがぁ、数学は閃きが重要だからな。しかしまさかこんなに早く終わると思ってなかったがー……満点じゃ仕方ないな、お前、購買にでも並んで来い。他の者も満点なら各自終わっていいぞ」


 そう言われ、喜ぶものはいなかったが、丁度そのタイミングで教室の扉がノックされる。廊下からは、


「佐藤先生、少しよろしいですか? そちらに迦具夜くん、いますよね?」


 と、女性の声。


「おお、今空けますよぉはいどうぞ。三宅さん、何かありましたかー?」


 現われたのは三宅さんと呼ばれる妙齢の、事務の女性。


「えっとその……お客様が来てるので、至急職員室まで来ていただけますか?」


 彼女はどこか落ち着かない様子で、そう言った。














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