第1章-3
シャラ、というのが、ソーレイの求婚した相手だった。
昔同じ学校に通っていた同級生で、六歳から十二歳の間までずっと同じ学び舎にいながら、同じクラスになったのは卒業する前の一年だけだった。
シャラはあわい金髪をした、静かな少女だった。
教室ではいつも本を読んでいて、先生に叱られたことなど一度もなく、だから印象が薄くて、休み時間になれば教室や廊下を駆け回って遊んでいたソーレイにとって、最初の頃の彼女は風景の中に紛れこんだ数あるもののひとつにすぎなかった。
そんなはかない印象が、ある日強烈に変化する。
それは雨の多い夏の終わり頃のこと。
降って湧いたように少年たちの間でボール遊びが流行した。
雨続きで外で遊べず、うずうずしていたのがまずかったのだろう。
男子たちは休み時間になると、教師の目を盗んで机を押しやってスペースを作って、室内で奪うようにボールを蹴りあった。
木の芯に何重もの布を巻きつけた特製のボールは、重たく、蹴ると足の方が痛くなる。
その痛みを我慢して強く蹴れる者がヒーローで、ソーレイはその日、それまで不動の英雄だった級友に挑戦する気持ちで思い切りよくボールを蹴った。
きゃあっ、と恐怖の声をあげたのは周りにいた女子たちだった。
ボールが思いがけない方向に飛んでいったからだ。
直後に、ごつ――と、ひどく分厚い音が確かにしていた。
ソーレイの蹴ったボールが、窓際にいた少女の後頭部を直撃していたのだ。
その被害者が、シャラだった。
「大丈夫だよ、痛くないから」
女子の群れに一斉非難される中、しきりにあやまるソーレイにシャラは言った。
痛がりもせず、嫌な顔もせず、彼女は何事もなかったかのように本を読み始めた。
いつもの風景に溶けこんでいったのだ。
だから安心していたのだが――その日を境にソーレイは気付く。
算数の授業で、彼女は簡単な引き算が答えられなかった。
たまたま目に入った彼女の宿題の答案は、引き算ばかり間違っていた。
街で見かけた彼女はおつりをごまかされているのに気付いておらず、その後、指を折って懸命に計算する姿を見かけるのは二度や三度のことではなかった。
――彼女は、引き算ができなくなっていたのだ。
自分のせいだ、と、ソーレイは思った。強く頭を打ったせいだと。
そのせいで、彼女の頭の大事な器官を壊してしまったのだと。
同時に、恐ろしくもなった。
彼女はとても優秀な生徒。毎日本を読んでいろんな勉強をして、きっと将来は女だてら大物になるに違いないと思っていた。自分はその芽までも摘んでしまった。彼女の輝かしい未来を踏みにじってしまった。
自分はいったい、どう償えばいい――。
深い罪悪感にさいなまれながら、少年は三日三晩考えた。
言い訳などひとつも思わず、開き直ることもせず、ひたすら、彼女の将来を明るくする手立てを――彼女がしあわせになる方法を、考えた。
そして三日目の夜明け前に彼は突如思いつく。
それは、決意と背中合わせの思い付き。
男として責任を取る。
父のような騎士になって、階級を得て、彼女をしあわせにするのだ。
――自分が。
「……だから結婚?」
一軒目よりも静かな店内で、ガッタは頬杖ついて昔話を聞いていた。
ソーレイは「そうだよ」と胸を張って答える。
「男としてそこは引けないだろ」
「いや、理解できない」
ガッタ・ルーサーはまったくの無表情で即答した。
「引き算できないなんて、ただ計算が苦手なだけでしょ」
「分かってない。お前は分かってないぞ、ガッタ。シャラは頭よかったんだ! 俺みたいにテストの点数が悪くて先生に叱られるなんてことなかった! 本当なら今頃いいところで働けるはずだったのに……」
思い出すとソーレイは泣けてきた。
今日、彼女を迎えるためにはじめて出かけた郊外のシャラの家。
傾きそうな佇まいの前で、くたくたの服を着て、シャラは家業を手伝っていた。
クラスの誰もが一目置いていた彼女が、あちこちに木くずをくっつけながら家具の仕上げ磨きをしていたのだ。
くう、と、もう何度目とも知れない自責の念がこみ上げる。
「シャラの輝かしい未来を奪った俺は重犯罪人だ! 何とかして償ってやりたい!」
「はいはい分かった、勝手にしなよ」
熱のこもった男の決断は、しかしガッタ・ルーサーの前では川に落ちた木の葉のごとく実に軽やかに流された。
「おまえ、つくづく冷たいな……」
「別にキミが何回ふられたって僕には関係ないし。それに、明日からそんなことに構ってる暇ないと思うよ」
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