第16話・策略


「界隈で話題の東大出身の新人美人調査官の伊地知いじちそらちゃんですよ。前回来たとき、挨拶したじゃないですか」

「そうだったか? 俺、人の顔とかなかなか覚えられねぇんだよな。それよりほら、早く行くぞ」

「はい」

 俺たちはそのまま警視庁を出た。


 地裁は警視庁のすぐ近くにある。十九階建ての大きな庁舎で、簡裁、地裁、高裁の順に階が上がっていく。

 憧れの白鳥裁判官は地裁の所長。つまり、東京地方裁判所のトップだ。

 地裁の守衛さんに警察手帳を出し、門をくぐったとき、何気なく霙が肩を小突いてきた。

「で、誰なんすか。黒咲さんの気になる人って」

「誰がお前なんぞに言うか」

 俺はスルーして歩く足を早める。

「水臭いこと言わないでくださいよ」

「絶対お前には言わない」

「ケチー」

 霙を適当にあしらいながら民事部屋に向かっていると、不意に背後から低く落ち着いた声がした。

「おや? 君……」

 振り向くとそこにいたのは、

「し、白鳥裁判官!!」


 噂をすればなんとやら。目の前には憧れの白鳥裁判官。俺はこれ以上ないほど、ぴんと背筋を伸ばす。

 白鳥裁判官は僅かに白髪の混じった髪を後ろに流し、上品なスーツに身を包んでいた。相変わらず今日もかっこいい。

 白鳥裁判官は穏やかな笑みを浮かべ、品のある歩調でこちらへ歩み寄ってくる。そして、俺の目の前で立ち止まると、少し視線を落とした。

 白鳥裁判官は背が高い。百八十はあるんじゃないだろうか。比較的背が高い方の俺でも少し見上げてしまう。

「やっぱり。君、黒咲くんだよね? 昨日娘の泉水から連絡があってね。君が事件に巻き込まれた泉水を助けてくれたんだろう?」

「は……はい。黒咲晴と申します」

 ……実際には助けたんじゃなくて、取り調べたんだけどな。詐欺容疑で。

「警視庁捜査二課所属の刑……」

 緊張のあまり、まるで警察学校卒業したてかのような大きな声で挨拶を始めた俺を、霙が慌てて止めに入る。

「黒咲さん、声大きいですよ。一般人もいるんだから、抑えて抑えて!」

「す、すまん、霙。お前、先にこの資料持って行ってくれないか」

「いいですけど。後からちゃんと来てくださいよ?」

「わーってるよ」

 霙は素直に資料を受け取ると、くるりと体を反転させ、エレベーターへ向かう。

 そしておもむろに立ち止まり、振り返った。

「……黒咲さん」

「なんだ?」

「サボりは重罪ですよ」

 なにを言うかと思えば。

「口説いっつーの。いいから早く行け」

「へいへい」

 俺たちのやり取りを見ていた白鳥裁判官は、朗らかに笑った。

 ……笑った!?

「なんてこった。貴重な笑顔だ……」

 俺は無意識に、鼻先を指でなぞる。

「ん?」

「あ、いえ」


 今日はなんていい日だろう。帰ったら、寿司でもとろう。

「いやまさか、昨日の今日で君に会えるなんて。いい機会だ。私からも礼を言わせてくれ。娘を助けてくれてありがとう」

「とんでもございません」

「ところで黒咲くん。泉水はすごく君を信頼していてね。もちろん清い交際をするんだよね?」

「交際!?」

 アイツ、親父になんて話をしてんだ!?

「もしうちの娘によからぬことをし……」

「してませんしてません! 白鳥裁判官の娘さんに手を出すなんて、有り得ません! 滅相もございません!!」

「……それは僕の娘じゃ不満ということかな?」

 どう言えばいいの、これ!?

「とと、とんでもないです。むしろ、僕ではとても釣り合いませんし……そ、その、泉水さんも僕を好きというわけでは……」

 クソ、冗談でも言いたくねぇ。

 その途端、こめかみに脂汗が滲み出し、腕には発疹が吹き出した。

 ……マジか。

 俺は自分の体を見下ろして目を瞠る。どうやら屈辱的過ぎて、体中にひどい拒否反応が現れたようだ。

「まぁ、あの子ももう立派な社会人。あまり詮索すると怒られそうだから、これくらいにしておこう。とにかく、これからも泉水をよろしくね」

「はは。はい……」

 白鳥裁判官の顔は笑っているが、その目の奥は笑ってはいない。

「ところで、泉水から連絡は来たかい?」

「……礼を言われました。さすが白鳥裁判官の娘さんですね。しっかりされていて」

 落ち着け、俺。ポーカーフェイスは誰より得意なはずだ。

「いやぁ、親バカだとはわかってるんだけどね。うちの娘は可愛くて優しい子でねぇ」

「……ソウデスネ」

 落ち着け、俺。嘘だって得意なはずだ。相手が悪い。耐えろ、俺。

 一方白鳥裁判官の元々優しげなその目元は、さらにふにゃりと歪んでいる。

 話の通り、白鳥裁判官はあのオオカミ娘にデレデレのようだ。

「そうだ。今日のお昼、一緒にどうかな?」

「え!?」

 思ってもない誘いに、一瞬空耳かと自分の耳を疑ってしまった。しかし白鳥裁判官は柔和な笑みを浮かべ、「この近くに、美味しい和食屋さんがあるんだよ」などと言っている。

 嘘!? マジで!?

「無理にとは言わないが……君とはもっと話をしてみたいんだ」

「ぜひ!!」

 しかし、このときの俺はまだ知らなかった。それらはすべて、父親をも巻き込んだ白鳥の罠だったということを……。

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