第17話・刑事と裁判官
昼休憩になる前に地裁での仕事を済ませると、地裁の門前で白鳥裁判官と落ち合った。
白鳥裁判官と俺は、徒歩ですぐ近くの高級和食屋に入っていく。その店は、見ただけで回れ右をしたくなるような、厳かな雰囲気を醸し出していた。
さすがは白鳥裁判官。
俺のような人間には間違いなく縁のない店だ。白鳥裁判官の後ろに続き、おずおずと中に入る。
……どうしよう。とりあえず落ち着かねぇ。白鳥裁判官はいつもこんな高級料亭で昼飯食ってんのか。
「黒咲くんはなににする?」
なにって言われても……なにを選べばいいんだ? つか高くね? 今、財布にいくら入ってたっけ?
俺は平常心を繕い、言った。
「……白鳥裁判官と同じもので」
安いものを頼めば気を遣わせるし、白鳥裁判官より高いものを頼むわけにもいかない。選択肢はもとよりひとつしかない。
「じゃ、いつもの二つ」
「かしこまりました」
俺たちが通された部屋は半個室。周りに人の気配はない。こっそり辺りを観察していると、白鳥裁判官がくすりと肩を揺らした。
「常連だからね。店側がいつも気を使ってくれるんだ。ここならどんな話をしても大丈夫だよ」
「あ……すみません。気に触りましたか」
「いや……職業病だね。感心感心。さすが本庁の刑事さんは違いますね」
手を組み、にっこりと笑う白鳥裁判官。その瞬間、白鳥裁判官とあいつの面影が重なった。
……そういえば、白鳥も浮世離れした奴だったな。俺が作った適当なオムライスなんかに目を輝かせて……。
アイツにとっては、俺の生活の方が新鮮だったのだろうか。
いやいや。今はそれよりも、憧れの人との食事を楽しまねば。こんな機会は滅多に……いや、一生ないかもしれない。
ずっと聞きたかったことを全部聞いてやるんだ。
あらためて、俺は向かいに座る白鳥裁判官に訊ねた。
「白鳥裁判官は、いつも外食なんですか?」
「体に良くないとは思ってるんだけど」
白鳥裁判官は肩をすくめている。
「近くにこんな店があるなんて知りませんでした」
「ここは一見さんお断りだからね。職場から近いと誰かに会う可能性も高いし、足が遠のくのは当然だ」
「せっかくの休憩中、同僚には会いたくないですしね」
「僕は運転免許を持たないから、人より行動範囲が限られるんだ。近場で済ませるしかないんだよ」
「噂で聞いたことはありましたが……本当にお持ちじゃなかったんですね」
裁判官とは特殊な仕事だ。人を裁く立場にある彼らは、いつどんなときも人の目を気にしなければならない。
「自分が加害者になるわけにはいかないからね。運転免許を持っていない裁判官は割と多いよ」
「大変なお仕事ですね」
自由に行動することもままならないとは。俺には耐えられそうにない。
「君も同じだろう」
「僕は所詮、法の番人の前に容疑者を立たせるだけですから。裁きを下すのはあなた方裁判官です」
少し嫌味っぽかっただろうか。
白鳥裁判官をちらりと見ると、彼は苦笑気味に息をついた。
「たしかに楽な仕事ではないね。人の人生が僕の一言で決まるんだから」
「……俺、ずっと白鳥さんに憧れていました。判決を下したあとの白鳥さんの言葉は、偽善とかまったく感じられなくて、心からの言葉だってよく分かります。だから、みんなそこで気づく。自分の過ちに」
白鳥裁判官は笑うでも恥ずかしがるでもなく、ただ静かに俺の話に耳を傾けてくれた。
「俺……刑事になってから、ずっともどかしい気持ちを拭えなくて」
どれだけ捕まえても、どれだけ思いを伝えても、懲りずに犯罪を繰り返す奴は多い。
「俺たちがせっかく捕まえても、あなたたち裁判官の下す判決によっては、すぐに出てきてまた犯罪を繰り返す。これじゃ、俺たちがいくら捕まえたってキリがない。正直裁判所にいい印象は持っていませんでした。犯罪者を解放する悪だとすら思ってました」
なにが法の番人だ。涼しいところで調書だけを見て捻りのない型に沿った判決を下すだけのくせに。
刑事になりたての頃は、いつも地裁の建物を見るたびに苛立っていた。
しかし、本音を零す俺に、白鳥裁判官は怒ることも眉を寄せることもなく、相変わらず穏やかな表情で頷いてくれている。
「君の言う通りだ。裁判官はなににも左右されず、自分自身の良心にのみ従って判決を下す。けれど、裁判官だって所詮人間だからね。情は完全には捨て去れないし、出世欲に目が眩んで政治犯罪などでは国に
所詮悪と正義は表裏一体だから、とため息のように吐き出した。
「俺は、あなたの言葉が今でも忘れられません。去年、俺が捕まえた詐欺師の公判を担当した裁判長があなたでした。あなたは被告に、懲役一年、執行猶予三年の判決を下しました」
「去年の詐欺というと……文書偽造、収賄、詐欺、詐欺未遂の罪で捕まった彼だね」
「……最初は納得できなかった。ソイツは結婚直前の男性を騙して、騙されたその男性はそれが原因で自殺した。遺された婚約者のことを思うと、悔しくて仕方なかった」
あのときの悔しさを思い出し、強く拳を握る。
「あんなの殺人となにも変わらない。なのに、被告人は執行猶予で……」
唇を噛み、溢れ出しそうになる感情をグッと堪える。
「でも、あなたは被告に判決を言い渡したあと、言ったんです」
『あなたの行動で亡くなった
その説法を聞いたとき、俺は涙が止まらなかった。人一人を殺した。「人」じゃない。人にはそれぞれ名前があって、家族がいる。一言で片付けていいものじゃない。俺がずっと叫びたかった言葉。けれど、上手く言葉に出せなかった言葉。それを、白鳥裁判官は代弁してくれたのだ。
「……よく覚えてるね」
白鳥裁判官は優しい表情で頷いている。
「俺は、被害者の婚約者のお腹に赤ちゃんがいることまでは知らなかった。それなのに、あなたはすべて知っていた。ただ調書を見て、デスクワークで判決を下してるわけじゃないって、そのときようやく気付いたんです」
頭を殴られたような感覚に陥った。裁判官だって、人間だ。感情は人並み、いや、それ以上にあるだろう。彼らもまた、悔しさを滲ませながら、亡くなった人を哀れみながら、涙を飲んで判決を下しているのだ。
俺はそのことに、白鳥裁判官に会うまで気付くことができなかった。
「君が寄り添うべきは加害者じゃない。被害者だ。だから、君は間違ってないよ」
白鳥裁判官が優しく言う。
気が付けば俺は、ずっと白鳥裁判官に聞いてみたかった言葉を吐いていた。
「じゃあ……あなたは?」
「本当は誰に対しても寄り添ってはいけない。でも、僕も不完全な人間だからね……どちらにも寄り添わなくては、結局判決は下せないんだ」
そう言って、白鳥裁判官は自嘲的な笑みを浮かべた。つられて俺も笑みを零す。
「俺には絶対に無理そうです」
「ははっ。そうか」
白鳥裁判官は笑いながら蕎麦を啜っている。
「あ、皮肉などではなく」
慌てて言うと、白鳥裁判官はまた穏やかに笑った。
「わかってるよ。今日は君と話せてよかった。君は思ったより愛情深いんだな。人には興味がないタイプかと思ってたよ」
「……興味はありませんよ。人の心ほどわからないものはないし」
特にあなたの娘の心はよくわからないし。
白鳥裁判官と談笑しながら食べる昼食は、忘れられないひとときになった。けどまぁ、緊張で味なんて全然わからなかったけれど。
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