第35話

 そもそも何故、抑止庁ルーラーの諜報部隊がその素性を隠して海上周遊都市サイレンに潜入しているのかといえば、蒸気機関都市ザラマンド海上周遊都市サイレンが敵対的都市だからである。

 表面上は友好的都市であり、観光客の行き来や貿易などもしているが、過去記録に残されているだけでも三回の大戦があった。蒸気機関都市ザラマンドの臨戦令も、海上周遊都市サイレンの総動員令も、この大戦を想定して制定されている。

 だがしかし、表面上は友好的都市である。それに、この二大都市が争えばその隙を突いた他都市からの侵攻が免れない。故に、笑顔の下で互いの脛を蹴り合っている現状があり、その一つが諜報部隊による潜入工作だった。

 ケンとキルシュの任務は、海上周遊都市サイレンの現状を探り、あわよくば都市民に幸福理想公社アルファ・ユートスフィアへの不信感を植えつけること。後半は含みなくあわよくばであり、前者が最優先とされている。

 そうして、偽の経歴と理由を以て海上周遊都市サイレンへ送り出された二人だったのだが、先刻の御披露目式(都市長であるアイドルの姿を披露する場であり、海上周遊都市サイレン演者アクター多しと言えども披露式ではなく御披露目式と呼ばれるのは彼女に限ってのことである)によって、キルシュは完全に萎縮してしまっていた。

 とはいえ、これはまだ彼女が彼女をここに送り込んだ「化物」ヘレシィの本当の恐ろしさを理解していないからだがーーそんな彼女の相棒であり恋人役のケンは、僅かばかり青褪めた彼女の手を取り、予定よりもやや早いが宿へ向かうことにした。


「おや、そちらの方は御気分がよろしくない?」

「あ~……人間がいっぱいいて、人酔い? しちゃったみたいで~……宿で少し休もうと思ってて~……」

「それはそれは、お大事になさってください。宿まで乗機でお送りしましょうか?」

「や~……大丈夫~……」


 あんまりしつこいなら喉笛食い千切ってもいいかな~……などとケンが思っていたことなど知る由もなく、二人に話しかけてきた幸福理想公社アルファ・ユートスフィア演者アクターはさらりと離れた。だがしかし、視線は感じる。体調不良は、幸福ではないから。

 ケンは口内で舌打ちを押し殺し、キルシュを支えながら宿へと進む。進む道すがら、感じる視線、視線、視線。幸福理想公社アルファ・ユートスフィアの社員たちから注がれるそれらを完全に無視して。

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