第39話 プレーナへ

 砂漠の轟音、闇にかき消される星、迫りくる砂嵐の恐怖。

 だがしかし、ヒラクの目には、それが空に向かってうねりをあげる緑の光に見えた。そしてそれは砂漠のすべてを飲み込むかのような勢いで、津波のように迫ってくる。


 ヒラクは目を見開いた。


「あれが、プレーナ……」


 ヒラクは呆然と立ち尽くす。

 そのとき、小瓶から飛び出した緑の光の女がヒラクの体を包み込んだ。

 ヒラクは自分の中に女が入り込んでくるのを感じた。女の心が自分の心に溶け込んでくる。ヒラクの目からぼろぼろと涙があふれた。


「ザ……カ……イロ……」


 ヒラクは自分が実体をなくしていくのを感じていた。自分の体が溶け出して、誰かと一体となっていく。そしてさらに大きなものに飲み込まれ、自分自身もまた大きく広がっていく感じがした。


「己を失うな!」


 迫り来る轟音にかき消されながらも、そう叫ぶヴェルダの御使いの声をヒラクは聞いたような気がした。

 黒装束の民たちは興奮した様子のらくだから振り落とされるようにして下に飛び降りた。捧げものとして用意された家畜たちもさらに大きな奇声をあげる。


 月がかげった。

 空高く舞い上がる巨大な砂嵐がセーカに迫ろうとしていた。


 神帝国の兵士たちは一斉にその場から引き上げた。

 砂嵐は分配交換の場を飲み込む勢いだ。


 巻き上がる砂の迫り来る勢いに圧倒され、テラリオは気が抜けたようにその場に立ち尽くす。その手を引いてカイルは言った。


「とにかく中へ!」


「だめだ! 逃げたら殺される……」


 テラリオはひどくおびえた様子で頭を抱えてしゃがみこんだ。剣はとうにカイルに奪われ、遠くに投げ捨てられている。


「何言ってるんだ、いいから走るんだ」


「いやだ! 殺される!」


 テラリオは頑として動かない。


「いいから来い!」


 カイルはその場から引きずって奇岩住居の立ち並ぶ場所までテラリオを連れて行く。セーカへの降り口までは少し距離がある。抵抗するテラリオを引きずっていてはとても間に合わない。とりあえず奇岩住居の一つに避難しようとカイルは考えた。


 奇岩住居のそばまでたどりついたとき、カイルを呼ぶ声が微かに聞こえた。


「カイル!」


 そこには地上に出て来たアクリラの姿があった。

 強い風に煽られながら、立っているのもやっとの様子だったが、カイルをみつけると、必死にそばに近づこうとした。


「来るな! 中に戻れ!」


 カイルが叫ぶ声はアクリラには聞こえない。


 すぐそばまで砂嵐が迫っていた。


 アクリラはそれを見て凍りついたように立ちすくむ。

 カイルはテラリオを奇岩住居の中に押し込めて言った。


「いいか、おまえはこの中にいろ。絶対に動くな。わかったな!」


 カイルは奇岩住居を出て、アクリラのところまで走った。

 そしてアクリラの手を引き、近くに砂嵐をやり過ごせる場所はないか探した。


 だが辺りを見回したとき、カイルは、テラリオが奇岩住居の中からはい出して再び砂嵐に向かっていこうとしているのを目でとらえた。


「行くな、テラリオ!」


 カイルの声は届かない。


 迫りくる砂嵐の轟音がその場の空気を震わせている。急速に気温が下がり、夜空は重い闇となり、すべてをかき消すかのようで、まるでこの世の終わりが迫っているかのようだった。

 そしてアクリラは砂にまみれた顔を涙で濡らして言った。


「カイル、これがプレーナの罰よ。私たちはもう終わりだわ……」


「ばか言うな! 逃げるぞ!」


 カイルはアクリラの手を引き、奇岩住居の一つに入った。すでに中には砂が入り込んでいる。カイルはその場に転がる岩の残骸で窓をふさいだ。


 轟音が耳をつんざく。暗闇の中、カイルはアクリラを身を挺して守るように覆いかぶさり、じっとこらえた。


「……偉大なるプレーナよ、あなたが授けた罪と罰を私は喜んで受けましょう。この身をすべてあなたに捧げん……」


 アクリラはつぶやいた。その目はうつろで、口元には笑みが宿り、恍惚とした表情で、全身を震わせている。

 アクリラの様子がおかしいと気づいたカイルは、闇の中を確かめるように顔に触れ、体を揺する。


「アクリラ、しっかりしろ!」


「あの方がいらした……あの方が……私を迎えに……プレーナが……」


 アクリラは錯乱していた。


「アクリラ、俺を見ろ! 俺の声を聞け! しっかりするんだ、これはプレーナなんかじゃない!」


 砂嵐が二人を呑み込んだ。

 自らアクリラの防壁になるようにカイルはアクリラを抱きしめた。


「プレーナ……プレーナよ……」


 抱きしめるアクリラをカイルは遠くに感じていた。その声がかすれて消えかかる。


「行くな、アクリラ! 行かないでくれ!」


 カイルは必死に叫んだ。


 一瞬、風がやわらいだ。


 ヴェルダの御使いはそれを遠目にとらえていた。

 巨大な津波のような光の中にひときわ強い光を放つ女の姿があった。女は涙を流していた。

 だがすぐに巨大な緑の波はあっという間に女の姿を飲み込み、たつ巻のように上昇した。

 そしてそのたつ巻はセーカの地下を貫く通気孔に入り込んでいった。


 ヒラクは渾然とした光と水とに呑み込まれ、形をなくしていた。

 自分が誰なのかわからない。ただ時々、ヒラクは見覚えのあるセーカの地下通路や室が次々と目に飛び込んでくるのを見た。目で見ているというよりも脳裏に浮かぶという感じだ。


 光と化したヒラクは地下の広場に到達し、御使いの聖室で祈りを捧げる人々の中に飛び込んでいった。

 分配交換の夜、御使いの聖室は祈りを捧げる人々であふれかえる。中に入れない人々も儀式の進行に合わせて、聖室の入り口の前で祈りを捧げている。

 人々は歓喜にむせびながら、ヒラクの緑の光に触れると、祈りの声も動作も止めて、穏やかな眠りについた。


 そのままヒラクの光はプレーナ教徒の居住区にまで入り込んだ。

 苦しげに眠る病人は、ヒラクが光に溶けかかる手をのばすと、安堵したように息を引き取った。


 ヒラクは自分が一体何をしているのかがまったくわからない。ただ、同じく実体を失った女の意識ともわずかにつながっているのを感じていた。女は何かを、誰かを探している。それが誰か、ヒラクは知っている気がした。それは女の意識でなのか、それとも自分の意識でなのかはわからない。


 ヒラクは発光しながらうねるように暗闇の通路を通り抜け、狼神の旧信徒たちの居住区へと入り込んでいく。そこにいる人々はほとんどヒラクの存在に気づかない。


 そして光は狼神復活の儀式が行われた惨劇の場に到達した。

 その場に飛び散る黒ずんだ血はすでに乾ききっている。赤い布が散乱し、八人の男たちの死体が転がっている。かがり火もランプも消えていて、そこにあるものはすべて緑の光に浮かび上がる。

 その現場をヒラクは知っている気がした。

 それは目で見たことなのか、それとも誰かに聞いたのか……。

 そのとき、同じく光に溶け込んでいる女の動揺がヒラクにも伝わってきた。

 光の一部がのびて、一人の男の死体を包み込んでいる。

 女の光の振動が乱れた。そして光から分離するように一人の女が姿を現した。

 女は男の死体を前にひざまずいて泣いている。


「……ちがうよ、その人はあんたが探している人じゃない」


 ヒラクは女の前に立った。

 自分の体はまだはっきりとした実体を持たない。

 ヒラクはその死体の男が誰であるのかすぐにわかった。

 そして女が誰を探しているのかも知っていた。


「それはミカイロだ。ザカイロじゃない。ザカイロはもうここにはいない。もうどこにもいないんだよ、


 ヒラクが言葉をかけると、女はゆっくりと顔をあげた。涙に濡れたその顔は、ヒラクがいつか「井戸の間」で見た母によく似た娘キルリナだった。


「私の名前……キルリナ?」


「そうだよ。ザカイロはずっと、あんたを取り戻そうとしていたんだ」


「ザカイロが私を……?」


「狼神を復活させてプレーナを滅ぼそうとしていたんだ。その結末がこれだよ」


 ヒラクは自らの光で周囲を明るく照らした。


「ザカイロが生み出した狼神復活の儀式の結果がこれだ。あんたがザカイロと思った男はミカイロ……ザカイロの孫だ」


「ザカイロに……孫?」


「狼神復活を果すために、狼神の使徒の娘と結婚したんだ。みんな不幸になった。息子のザイルも孫のミカイロも、ここで命を落とした狼神の使徒たちも」


「……私のせい?」


「ちがうよ、誰のせいでもない。誰のせいでもないから悲しいんだ」


 ヒラクの放つ緑の光が透明に澄んで輝いた。


「あなたはプレーナなの?」


 実体のないヒラクの放つ光に向かってキルリナが言った。


「プレーナ……? ちがう……おれはそれを探していた、それを知りたくて……」


「なぜ?」


「なぜ……」


 ヒラクは思い出しかけていた。自分がなぜプレーナを探し求めていたのか、なぜそれを知りたいと思っていたのか。


「あなたは誰?」


「おれは……」


 ヒラクは自分が誰なのかわからなくなっていた。

 ザカイロとキルリナのことをなぜ自分は知っていたのか? 

 狼神復活の儀式のこともなぜわかったのか? 

 それは誰の体験なのか、誰から聞いた話なのか……。


「わからない……。でもおれはあんたを知っている気がする。その顔が、誰かおれのよく知る人に似ている気がするんだ」


「それは誰?」


「わからない、でもおれにとって大きな誰か……。その誰かとプレーナはつながりがあるんだ。そうだ、だからおれはプレーナに……」


 ヒラクは混乱していた。


「あんたがプレーナなんじゃないのか? おれが探しているのはあんたなのか?」


「私はあなたを知らない。それに……」


 キルリナは両手で自らを抱くようにして言った。


「私はもうプレーナじゃない」


 突然、光が飛び散るようにキルリナは姿を消した。

 それと同時にヒラクはもう自分が狼神復活の儀式の場にいないことに気がついた。


(ここはどこ?)


 ヒラクは緑の液体の中に浸されていた。

 液体に自分が溶け込んでいく感覚があった。

 急に振動が伝わってきた。

 液体は波打ち、薄い光のヴェールのように幾重にも折り重なり、ヒラクを柔らかく包んだ。

 ヒラクはなつかしいような安らぎを覚えた。遠くで声がする。


「生まれておいで、プレーナの子よ。プレーナと一つになる者よ」


 聞き覚えのある声だった。そしていつか聞いた言葉だとヒラクは思った。


(そうだ、この声だ、あの人の声……)


「あなたは生まれながらプレーナに祝福された子よ。還元の主プレーナと一つになることが許された子なの。私と同じくね」


 その言葉を語る女の輪郭がぼんやりとヒラクの脳裏に浮かんできた。


「あなたはプレーナの子。いつか必ず私の元に戻ってくる。プレーナと一つになるために。今のあなたは仮の姿。いつか本当の姿に戻る時、あなたは自分が何者であるかを知るわ」


「自分が何者であるのか……。おれは誰? 教えてよ……」


「プレーナの子……」


「ちがう、呼んでよ、おれの名を!」


 ヒラクの目の前に、はっきりと、その声の人物は姿を見せた。


「ヒラク」


 姿を現した女はヒラクの名前を呼んだ。

 ヒラクはぼろぼろと涙をこぼした。

 ヒラクは五歳の頃の自分の姿になっていた。


「母さん!」


 ヒラクは女の胸に飛び込んだ。


「待っていたわヒラク。行きましょう」


「どこへ?」


「聖地プレーナへ」


 ヒラクの母は小さなヒラクの手を引いて、緑の光の渦の中を歩きだした。

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