第32話 シルキオの記憶2
次にヒラクが見たのは、見覚えのある老人の顔だった。
「ほう、これが例のヴェルダの御使いに託されたという生命の水ですか」
ヒラクの口から出た言葉は、さきほどまでの澄んだ声ではなく、低く乾いた声で語られた。
水の入った小瓶をつかんでいる手は、何かを書き綴っていたときよりも厚みを増し、節くれ立った指の関節にはしわが寄っていた。
「シルキオ、おまえはどう思う?」
すぐ目の前にいる老人が尋ねた。
ヒラクは、自分がまだシルキオという人物の中にいることを知った。
だが、もはやシルキオは少年ではない。
「どうとおっしゃいますと? 老主様」
自分が呼びかけた言葉で、ヒラクは目の前の老人が老主であることを知った。
だが現老主ではない。
見覚えがあると思ったのは、「老主の聖室」でヒラクが見た老人と同じ人物だったからだ。
緑色に輝く光と水でできたような女の足元にひざまずいていた老人は、このときはまだやせ細ってはいない。瞳は穏やかで、老獪で高慢な今の老主とはまるでちがった印象だ。
「なぜヴェルダの
老人は眉根を寄せて、シルキオが手にもつ小瓶をじっと見た。
「なぜそれをヴェルダの御使いにお聞きにならなかったのですか?」
「わしの方から何かを質問するなどとんでもないことじゃ。あの方はその小瓶とは別に、ちゃんとわしらセーカの民のために生命の水をくださった。それ以上に何を望むことがあろうか」
「本当にそうでしょうか?」
シルキオは含みのある言い方をして思わせぶりに笑った。
「プレーナと一つとなることがあなたの望みのはずでは?」
「……それは、わしに限らず、プレーナ教徒全体の望みでもあるはずじゃ」
老人は、人のよさそうな顔をかすかにひきつらせた。
その動揺にシルキオはつけこむ。
「もしもこの瓶の水が特別なものであったらどうされます?」
「特別……?」
「果たしてあなたがいつも受け取っている生命の水とまったく同じものなのでしょうか?」
「まさか……ちがうと?」
「さあ、それはわかりません。ただ、それを確かめてみることはできるかもしれません」
ヒラクはシルキオの鼓動が高鳴るのを感じた。
「私が調べてさしあげましょう。この瓶の水とあなたが受け取った生命の水が同じものであるのかどうか。この瓶の水と比較するために、生命の水を少々私に与えていただくことになりますが」
ヒラクはシルキオの目を通して、反応を探るように老人を見た。
「……しかし、もとはプレーナ教徒とはいえ、おまえたち一族はいまや狼神の旧信徒たちとなんら変わらぬ身じゃ。それに、狼神の旧信徒の居住区に生命の水を持ち入らせることなどわしにはできぬ」
ためらう老人にたたみかけるようにシルキオは言う。
「言っていることが矛盾しておりますね。ではなぜその瓶の水をザカイロに渡すよう私におっしゃるのです? 彼が病に伏している場所もまた狼神の旧信徒たちの居住区ではありませんか」
「じゃが、その小瓶の水はヴェルダの御使い自らザカイロという者へ託されたものじゃ。言いつけには背けん」
老人は苦渋に満ちた表情だ。
「……もしかしたら、この水は救いの水なのかもしれませんな」
シルキオはもったいぶったように言った。
「どういう意味じゃ?」
老人は食いつくような目でシルキオを見た。
「ザカイロももとはプレーナ教徒なのです。だが彼は異流の信徒にまで身を落とした。小瓶の水は罪深い彼を救うための生命の水なのかもしれません。死を迎えようとする彼がこれを呑むことでプレーナと一つになることができるのかもしれません」
シルキオの言葉は明らかに嘘だとヒラクにはわかった。
老人を謀ろうとするシルキオの思いがヒラクの中に流れ込んでくる。
「……なぜ、ヴェルダの御使いは、その者にだけそのような情けをかけようとするのじゃ」
老人は平静を装おうとするが表情はどこかぎこちない。
シルキオの言葉をほとんど信じているのは明らかだった。
「私にはわかりませんが、彼は、もとは敬虔なプレーナ教徒だったといいます。死を前にする彼の祈りがプレーナに届いたのかもしれません」
「……では、早くその小瓶を渡してやるがよかろう」
「本当にそれでよろしいのですか?」
シルキオは、老人が本当はそれを望んでいないことを見抜いていた。
「もしもこの小瓶の水が特別なものである場合、それを調べた後、老主様にお返ししてもいいのですよ」
「何を馬鹿な!」
そう言う老人の声は上ずっている。
「それにこの小瓶の水が生命の水とは限らない。それを確かめてからザカイロに渡しても遅くはないと思いますが」
「……」
老人は目を閉じ、シルキオの言葉を考え込んでいる様子だった。
「……わかった」
老人は、ため息と同時にそう言った。
「では、これをおまえに託そう。生命の水は後ほど授ける」
「ありがとうございます」
シルキオは深々と頭を下げた。
そしてまた、すべては闇に包まれた。
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