第24話 囚われのユピ

 ユピは羊毛をつめた布を敷いた石の寝台に横たわっていた。


 目を覚ますとむき出しの岩の天井が目の前にあった。

 自分が何も着ていない裸の状態でいたことにユピは戸惑った。全身の汗とほこりがきれいに拭われているが、ユピにはまったく覚えがなかった。

 寝台の脇には新しい衣服が置いてある。セーカの服とはちがう。白いシャツに、紺地のベスト、同色の膝丈のズボン、長靴下と皮のブーツが置いてある。生地は厚手のアノイの織物よりも柔らかく、仕立てのいい服だ。

 ユピは体にかけられていた布にくるまり、ひざを抱えて途方に暮れていた。


「その服がお気に召しませんか?」


 入り口のあなをふさいでいた織物がさっとめくられて、ミカイロが中に入ってきた。ミカイロは神帝国の言語を使っている。


 ユピはおびえた顔でミカイロを見た。

 初めて見るその男は、額がはげ上がっているが、見た目より年は若そうだ。口元は微笑んでいるが目は鋭く、抜け目なく冷たい印象を与える。セーカの他の民同様に白い衣服を着用しているが、緑のひもはどこにも巻きつけていない。かわりに全身をおおうように、肩から赤い布をかけている。


「着替えてどうぞこちらへ。食事におつきあいいただけますかな」


 そう言うと、ミカイロはユピの返事も待たずに出て行った。


 ユピはしかたなく寝台から立ち上がり、用意された服を着た。

 神帝国の服を着るのは久しぶりのことだったが、指先がシャツのボタンの留め方まで記憶している。


 ユピがへやを出ると、入り口の外には女が二人待ち構えていた。神帝国人など見たこともない女たちだったが、着替えたユピの美しさは息を呑むほどで、自分たちとは明らかにちがう人種だと感じていた。

 女たちは畏れ多いものを見たかのようにあわてて目を伏せ、そのまま一切顔も上げずにユピを案内した。


 へやを出ると奥まで通路がのびている。

 通路の両側の壁のくぼみに等間隔でランプが一つずつ置かれている。

 一人の女が先導し、もう一人の女がユピを挟んで後に続いた。


 やがてユピは入り口を赤い織物で閉じたへやに行き着いた。

 女たちが入り口の両脇に立ち、布を左右に広げるようにめくりあげた。


「さあ、どうぞこちらへ、お座りください」


 岩をうがって掘り出したような長テーブルがある先にあぐらをかいて座るミカイロが一段低い場所からユピを見上げて言った。


「やはりその方がよくお似合いですな」


 石のテーブルにひじをつき、組んだ指先の上にあごを乗せ、ミカイロは満足そうに笑った。

 ねっとりとした視線にさらされ、ユピは落ち着かない気分だ。


 ユピはミカイロにうながされるまま、通路との段差を補う低い階段を下に降り、テーブルの周りに敷かれた美しい絨毯の上に腰を下ろした。


 ユピは自分が腰をおろしたなめらかな肌触りの絨毯をしげしげと眺めた。色鮮やかな色彩で織られた幾何学的な模様が均等に配置されている。


「美しいでしょう? 神帝国の方はみな気にいられます」


 ミカイロはヘビのような目でユピをみつめながら、血のように赤いワインを悠然と飲んでいる。


 ユピの前にミカイロの下女が次々と料理の皿を運んでくる。

 料理は陶器の皿に少量ずつ盛りつけてある。


「神帝国に通じる者の特権でね、彼の国の料理を模したものも作れる。さあどうぞ。遠慮せずにお召し上がりください」


 そう言って食事を勧めると、ミカイロは血のしたたるような生焼けの肉をねちょねちょと音を立てて食べ始めた。その目は瞬きをすることもなく、ただじっとユピをみつめている。

 ユピはそれを見ているだけで食欲も失せ、気分が悪くなったが、勧められるままにナイフとフォークを手に取った。

 ナイフとフォークもアノイの村にはないものなのに、ユピの手はそれを使い慣れたものとして扱っていた。


「味の方は満足していただけましたか?」


「ええ、まあ……」


 そう言いながらも、ユピはあまり食べてはいなかった。なぜこのような状況になっているのか理解できない。


 食事が済むと紅茶が出された。

 ミカイロは相変わらず赤ワインを飲み続けている。


「さて……」


 ミカイロは給仕のために控えていた女を下がらせると、おもむろに話し始めた。


「あなたが何者であるのか、私にはよくわかっています」


 それまで神帝国の言語で話していたミカイロは、ヒラクとユピの間の共通言語、セーカでは「祈りの言葉」と呼ばれている言語を使い始めた。


「『今、まさに時は来た……今こそ我が目覚めの時……誓いは守られた……復活を果さん……偽神を払い、真の神となれ……』」


 ユピは困惑した表情で、ミカイロの言葉を黙って聞いている。

 ミカイロはその目をじっとみつめ返した。


「あなたが言った言葉ですよ」


「え?」


「あなたが言ったのです。うわごとのように何度も何度も、眠りの中であなたはくり返していました」


 ユピは衝撃を受けたように表情を硬くした。


「覚えていないのですか?」


「……僕は、何も知らない……」


 ユピは声を震わせる。自分が言った覚えはない。だが、自分がうわごとのように言ったという言葉は、頭の奥の何かを刺激する。


「では、質問を変えましょうか」


 ミカイロは動じるユピを冷ややかな目でみつめる。


「あなたはなぜこの言語を使えるのですか?」


「え?」


「この言語は、一般の神帝国の人間は使えないはずです」


 そう言って、ミカイロはにいっと笑った。


「まずはこの言語のことから話しましょうか」


 ミカイロはワインを一口飲んでのどを潤した。


「セーカの民は二つの言語を使います。一つはセーカの民が生活の言葉として使う日常言語、そしてもう一つは、今話しているこの言語、これは『祈りの言葉』ともいわれています。プレーナ教徒がプレーナへ祈りを捧げる言語としているもので、言葉そのものにプレーナの息吹が宿っていると信じられています。ばかばかしい話ですがね」


 ミカイロは吐き捨てるように言う。


「この地の土着の言語は『祈りの言葉』の方だった。だがそれをプレーナへ祈りを捧げる言語としたために、区別するための日常語が新たに作られた。『祈りの言葉』はプレーナの信仰者の神聖な言葉とされている。だがもともとはこの大地に根ざした言語だ。つまり、大地の神たる狼神の言葉そのものだったのだ」


 ミカイロは陶然と語る。


「私の祖父は、その最期のときまで狼神の復活を願っておりましてね。そんな祖父を哀れと思ってか、狼神は一度だけ祖父のもとを訪れた。その時語った言葉を祖父はしっかりと書きとめている。もちろんこの言語を用いてね」


 ミカイロの潤んだ目にテーブルの上のランプの炎がにじんだ。


「『我は姿を変えし者。時を越え、場所を変え、この身が何者となろうと、我はただ一つ偉大なる者』」


 ミカイロはうっとりとした口調で言うと、ユピに視線を移した。


「かくしてあなたは現れた……」


 ミカイロの恍惚とした表情は、酒の酔いからきているものなのかどうか、ユピは判断しかねた。


「祖父の強い狼神復活の願いこそが狼神の旧信徒たちを信仰に引き戻したのだ。祖父の意志を継ぎ、私があなたを完全に復活させましょう」


 ユピはミカイロの様子をあっけにとられて見ていたが、ここで黙ってしまえば誤解は一層深まると思い、やっと口を開いた。


「あなたは何か誤解している。僕は、その狼神というものとは何の関係もない」


 だがミカイロはまったく動じない。


「そう思っても無理はない。あなたはかりそめの姿だ。封印の地で眠る狼神の夢の中にいるようなものなのだから」


「夢の中……」


 その言葉はユピの心を揺さぶった。

 ユピはいつも自分の存在が不確かなものであると感じてきた。ここにいてここにいないような感覚が常につきまとう。

 自分の中にある深い闇のような空白、そこに呑み込まれてしまうような感覚……。

 その理由がはっきりわかれば自分は楽になれるのだろうか……。

 少なくとも得体の知れない恐怖からは解放される……。

 そんなことを思いながら、ユピは自分を支配しようとするものの正体が知りたいと思いはじめた。


「僕は、一体、どうすれば……」


 ユピの言葉に、ミカイロは口の端を引きのばすようにして笑った。


「簡単ですよ」


 ミカイロは立ち上がって近づいてくると、ユピの前で片ひざをついた。そうしてそっと指先で、ユピのあごを持ち上げるようにして顔を上向かせた。


「美しい……いい器だ」


 ミカイロの目には狂気の色がある。その目に映るユピの表情は恐怖で凍りついていた。


「己の力を脅威と感じておいでか? 怖れているのは器であって、本来のあなたではないのです。何も怖れることはありません。すぐにそこから解放してさしあげます」


 そう言ってミカイロは両手でユピの前髪をなであげて、蒼白の顔をみつめた。


「さあ、復活の儀式を始めましょう」


 ユピは声も出せなかった。その恐怖の源は、目の前のミカイロではなく、自分の内側からじわじわと漏れ広がる何かだった。

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