第17話 糸と絆
テラリオは今まさに、アクリラの命綱である緑の糸を切ろうとしていた。
「この糸を断てば、アクリラは二度とここから出られない。先の断たれた糸をたぐりよせたときのアクリラの顔が見ものだな」
「やめろ!」
カイルは焦りと緊張の面持ちで額に汗をにじませる。
「ふん、必死だな。そんなにアクリラが大事か?」
「大事だ。アクリラも、この町も、ここに住む人々も……」
「俺たちの夢よりもか」
テラリオは鋭い声を上げた。
共に自由に生きようと誓ったカイルとの間に割り込み、友情にひびを入れたのがアクリラだと、テラリオはずっと思っていた。彼女さえいなければ、カイルは自分に背を向けることはなかったはずだ。そう思えてしかたなかった。
しかし、テラリオとカイルが不仲になった直接の原因は、テラリオが生命の水を外に持ち出したことにあった。
それがプレーナそのものといわれる生命の水である。
それは、自由のための大きな取引材料であった。
だが、カイルはこのセーカに対する裏切りに賛同しかねた。それでなくとも、手段を選ばないテラリオのやり方には納得がいかないところもあった。テラリオが狼神の旧信徒である若者たちを自分の道具として使うことも気に入らない。カイルにとっては、彼らもまた、自由を求める仲間だった。
プレーナ教徒でありながら、食糧配分や神帝国との商取引の便宜を図ったこともあり、テラリオやカイルはミカイロに優遇され、「異流の信徒」として狼神の使徒たちと交わるようにまでなった。
自分の立場に疑問を持ち、一人悩むカイルの前に現れたのがアクリラだった。
食糧配分の仕事を手伝うアクリラと食糧を調達する役目のカイルは、年が近いこともあり、よく話をするようになった。
「罪深き信仰者」として自ら地上で働くカイルのことを、アクリラは心から敬い、労をねぎらい、カイルの罪の軽減さえもプレーナに熱心に祈っていた。
そんな彼女と一緒にいると、カイルは自由を求めることがひどく身勝手なことのように思えた。
カイルが「これからはプレーナ教徒として地下でおとなしく生きていく」と告げたとき、テラリオはもちろん納得しなかった。アクリラがカイルをそそのかしたのだと思った。なんとかカイルからアクリラを引き離そうとしたが、それは逆効果で、テラリオがアクリラを憎み、カイルを取り戻そうとすればするほど、カイルの心はテラリオから離れていった。
テラリオはこじれた関係に疲弊し、今はもうただカイルさえいてくれればいいと思っている。
「もういい、わかった」
テラリオはナイフをしまい、目をつぶり、苦渋の決断をするように眉間にしわをよせた。
「アクリラも連れ出せ」
テラリオはそう言うと、観念したようにうなだれて肩を落とした。
「俺はおまえを残してはいけない。おまえがいなければ俺の自由に意味はない」
「テラリオ……。おまえがそこまで言うとは思わなかった。でも正直どうしていいか俺にもわからない。アクリラの気持ちを考えると……」
「時間がないんだ」
テラリオはせっぱつまったように言う。
「時は来たんだ。今こそ、プレーナを倒す時だ。俺たちは自由になれるんだ」
「……おい、どうしたっていうんだ?」
興奮した様子のテラリオにカイルは戸惑う。
テラリオは口の端をねじあげてにやりと笑った。
「戦火の口火を切るときが来たってことさ」
テラリオは顔にかかる髪をかきあげて挑発的な目でカイルを見た。
「俺がここから生命の水をこっそり持ち出して、神帝国の人間に渡してからも、奴らは動くことはなかった。ただの水だと侮りながらも、力を秘めているのではないかと危ぶみ、慎重に現状を維持するだけだった」
「……どういうことだ? 生命の水を持ち出したのは、俺たちが本気でセーカを捨て、神帝国に身を売ろうとすることを信じさせるためだったからじゃないのか?」
カイルが言うと、テラリオは心得顔でうなずく。
「ああ、そうさ。だが、それだけでは神帝国の奴らは納得しない。本当の裏切りは、セーカから逃げ出すことじゃない。セーカを滅ぼすことに手を貸すということさ」
カイルは驚き、目を見開いた。
「……おまえは、狼神に人の心まで売り渡したか……」
怒りと非難のこもった声でカイルが言うと、テラリオは布を巻きつけた右の手のひらをじっと見た。ミカイロの前で流した血は止まっていたが、傷跡は深く痛みも残る。
「俺はおまえとはちがう。狼神に取り込まれたりはしない」
テラリオは傷の痛む右手をぐっと握りしめた。
「俺は奴らを利用するために狼神の信徒となった。利用するためには利害関係を一致させることさ。狼神の使徒たちが願うことはただ一つ、封印の地に追いやられた狼神の復活だ。奴らは神帝よりも何よりも、狼神を追いやったプレーナを憎んでいる。プレーナを滅ぼすためなら神帝の力をも借りようとするだろう。プレーナさえ滅べば狼神が復活すると信じているからな」
「じゃあ、狼神の使徒と神帝国を結びつけるために生命の水を持ち出したってわけか」
「ああ、ミカイロも承知の上でな」
「ミカイロ……」
その名前に、カイルの表情が曇った。
ミカイロは今なお狼神信仰を続ける狼神の使徒たちの中心人物である。
老主の支配を受ける狼神の旧信徒たちの影の支配者であり、セーカに配分される食糧も彼によって調整されている。
裏では神帝国とも密接につながっているとされている謎の多い人物で、狼神の旧信徒でも彼を直接知る者はほとんどいない。
ただ確かなのは、ミカイロが狼神を狂信的に崇めていることだ。
狼神に血肉を捧げるということで、今まで何人犠牲を出したかわからないといわれ、同じ狼神の使徒たちにも怖れられている。
カイルはテラリオに忠告する。
「テラリオ、ミカイロはおまえの手に負える相手じゃない。あいつの狼神への執着は異常だ。ただ単に狼神信仰最盛期の栄華を取り戻さんとする他の奴らとは、明らかにちがう何かがある。あいつは利害関係など考慮したりしない。自分の目的のためならどこまでも非道な振る舞いができる奴だ」
「だからこそ使えるんじゃないか。目的のため手段は選ばない奴だからこそ、異流の信徒にすぎない俺の意見も聞き入れる。すべては俺の計算通りさ」
テラリオはそう言うが、カイルは心配だった。すべてを知った上でテラリオを泳がせ、利用しているのはミカイロの方なのではないかと思えてならない。
「まあ何にしてもミカイロは動くぜ。計画を実行に移すことに賛同したんだ」
「計画?」
テラリオは、口を歪めてにやりと笑った。
「あの神帝国の少年を使うのさ」
「緑の髪のガキと一緒にいた奴か?」
「ああ、神帝国がセーカに攻め込むためのきっかけを作るための道具となってもらう」
「……テラリオ、何をする気だ?」
カイルは不安と困惑の入り混じる目でテラリオを見た。
「カイル、何怖気づいているんだよ。俺たちが異流の信徒となり、神帝国に近づいていったのは何のためだ? 自由を手に入れるためなら神帝国で生きたってかまわないと思ってやってきたんじゃないのか」
「ああ、そうだ。だが、神帝国からやってきた人間に何かあれば、俺たちの自由が保証されるどころか、まっさきに疑われるのがおちだ」
「向こうが自分から入り込んだんだろう? 俺たちは無理矢理案内させられただけさ」
テラリオはずる賢く笑って言った。
「あの神帝国の人間は起爆剤だ。次の満月の分配交換の場で死んでもらう。プレーナ教徒による侵入者への処刑ってことでな。神帝国の人間はそれを理由にセーカに一気に攻め込むことになるだろう」
「おまえ、一体何するつもりだ?」
カイルと同じくテラリオの顔にも緊張が走る。
「神帝国の奴らを誘導してやるのさ。仲間たちはもう神帝国に逃げ出す準備をしているぜ。最後の仕事として、セーカへと奴らを呼びこんだら、狼神の使徒たちに気づかれる前にすぐここを離れる」
「狼神の使徒たちは、神帝国にセーカを明け渡すことを納得しているのか?」
カイルは不安げに尋ねた。
「あいつらは、プレーナが滅び、狼神さえ復活すれば、神帝国を一気に滅ぼすことができると信じている馬鹿な連中さ。神帝国を利用するつもりが逆に利用されているとも知らずにな」
テラリオは嘲るように言った。
「とにかく」
テラリオはカイルに向き直った。
「もう時間がないんだ。次の満月の夜までに心を決めてくれ。いいな」
テラリオはカイルの目をじっと見た。強気な言葉とは裏腹に、その目は哀願するかのようだ。
カイルは目を伏せ、そのまま黙り込んだ。
テラリオは指先ですくいあげた糸に目を落とした。かすかに振動を感じる。
「とにかく今はここを抜け出すのが先だ。ここから出たらアクリラにもうまく言って一緒にセーカから離れるんだ。おまえさえここを出てくれるなら、俺はもうそれだけでいい……」
テラリオは苦しげに言葉を吐いた。
「テラリオ……」
カイルは手をのばしかけたが、テラリオはそれを振り切るように、元来たところを駆け戻っていった。
カイルはテラリオを追おうとしたが、緑の糸の先を追うように、アクリラが飛び込んでいった空洞の
そしてその孔から飛び出してきたヒラクを見て、すぐには声も出ないほど驚いた。
「おまえ……どうして……」
ヒラクはその場に仁王立ちして、カイルをにらみつけていた。
「今の話はなんだ。ユピをどうしようっていうんだ!」
ヒラクは神帝国の言語で言った。
「おまえ、全部聞いていたのか……」
カイルはさっと表情を変え、ヒラクを鋭くにらみつけた。
狭い空洞に緊張が走る。
張り詰めた空気の中、柱の中心にあるランプの炎が揺らめいた。
《セーカに関わる三大神と関係図》
https://kakuyomu.jp/users/ginnamisou/news/16817330654841698819
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