第13話 かまどの先へ
「ヴェルダ」とはセーカの民が「祈りの言葉」と呼ぶ神聖な言語で「緑」を意味する。それはヴェルダの御使いの髪色からくるものだった。その髪の色はヒラクと同じ緑色だ。これが、ヒラクがアクリラにヴェルダの御使いと間違われた理由だった。
アクリラは、病に伏した母のため、ヴェルダの御使いが運んでくるという「生命の水」を欲しがった。それはプレーナの息吹そのものとされるもので、プレーナ教徒の生きる糧とされていた。
その生命の水をセーカの民に分配する儀式は「分配交換」と呼ばれている。
それは決まって満月の夜。
その時になれば黒装束の民が砂漠の彼方から現れて、セーカの民に生命の水を分け与える。その生命の水と引き換えにプレーナ教徒は捧げものを差し出すのだ。
ヒラクは、自分がその捧げものの一つとされるということの意味を理解していはいなかった。
ただその日になれば確実に黒装束の民とヴェルダの御使いに会えるのだということだけはわかった。
父イルシカが山を越えて会えと言った「黒装束の女」と何か繋がりがあるに違いない。思えば、父も満月の夜にだけ会えると言っていた。
だがしかし、ヒラクとユピは満月には間に合わず、思いもよらなかったことに、セーカの地下に入り込むことになってしまったのだ。
「月は欠け始めたばかり。次の満月までにはまだまだ時間があります。それまでどうぞごゆっくり、こちらでお過ごしください」
そう言って老主は立ち上がり、
「ちょっと待ってよ。ユピのことを教えてよ」
ヒラクはユピの安否が気になった。
だが老主はユピには何の関心もないようだ。
「あなたを私のもとに連れてきた見張りの者によれば、プレーナ教徒により保護されているそうです。その者が神帝国側の人間であるのか、ヴェルダの御使いの従者であるのかは、あなたが何者であるのかわかればはっきりすることでしょう」
ユピを保護しているというのはテラリオのことだろうか……。
ヒラクは考え込むように再びその場に腰をおろした。
老主は配下の男たちに見張りを命じ、井戸の間につながる室の方へと姿を消した。
老主がいなくなってしばらくすると、ヒラクは落ち着きない様子で辺りをきょろきょろ見回した。
そしてそばにいた男に尋ねる。
「ねえ、おしっこしたいんだけど、どこで用足せばいいの?」
男たちは顔を見合わせ、ぼそぼそと小声で話し合ったが、やがて一人がヒラクの前に進み出て答えた。
「そこの通路を進んですぐ右だ」
ヒラクは教えられた通路を先に進んだ。
先ほど狼神の旧信徒の女たちが出て来た場所だ。
両側の壁のくぼみに等間隔に置かれたランプに照らされて、通路が長く伸びている。すぐ手前には右に行く細い通路があった。
(こっちに行くと便所か……)
ヒラクは通路口で男たちが見張っていないことを確かめて、さらに奥へと進んだ。
途中、水がめがずらりと並んでいる室をみつけたヒラクは、それが普通の飲み水であることを確かめてから水を飲み、水袋にも補充した。
通路に戻り、先へ進むと、左の岩壁にあいた孔の向こうから話し声が聞こえてきた。
ヒラクが
中には先ほど老主に呼ばれて姿を見せた二人の中年女の他にさらに年のいった女が三人と若い娘が一人いた。
「驚かせてごめん! ちょっと、聞きたいことがあって……」
ヒラクが言うと、女たちは困ったように顔を見合わせ、ヒラクにはわからない言語でひそひそと小声で話しはじめた。
壁の下の方にぽっかり広めにあいた通気孔の前には石のかまどが設けられ、煮炊きできるようになっている。今は火もすっかり消えた様子だが、調理台の上に置かれた素焼きの茶器からは湯気が上り、香ばしい匂いがした。
やがて女たちは話すのをやめ、一番年若い娘が、おずおずとヒラクの前に進み出た。
「……あなたは、どうしてここに?」
娘はヒラクにもわかる言語で話した。それはプレーナ教徒の「祈りの言葉」であり、ヒラクの母親が使っていた言語で、ユピとの間の共通語だ。
「その言葉で話せるの?」
ヒラクが聞くと、娘は小さくうなずく。
「狼神の信徒の血を引く者とはいえ、私はプレーナを信仰するプレーナ教徒です。祈りの言葉はわかります」
「そっか。助かるよ。おれ、ユピを探してるんだ。どこにいるか知らない?」
ヒラクはまっすぐ娘を見て言った。
娘は目を伏せ、落ち着きなく瞬きを繰り返す。
「……実は、私はそのためにここに来たのです。あなたがお探しの方のところへ、あなたを連れていくために……」
「ほんと?」
ヒラクは顔をぱっと明るくした。
「ついてきていただけますか……」
若い娘はそう言うと、手燭のランプを持ち、かまどの背後の壁の通気孔に身をかがめるようにしてもぐりこんだ。
戸惑うヒラクにその場にいる女たちが言う。
「後に続いてください」
「さあ、老主様にみつかる前に早く」
他の女たちは室の外の様子を不安げにうかがっている。
そのうちの一人がヒラクに干し肉やチーズを渡した。
「お食べ。おなかがすいているんだろう?」
そう言ったのは、先ほど老主の室の通路口にひかえていた女のうちの一人だ。
他の女もブドウやパンを手渡そうとする。
その言葉はヒラクにはわからなかったが、自分に対して敵意がないのだけはわかった。
「ありがとう、みんな」
ヒラクが明るく笑いかけると、その場にいる者たちは緊張した面持ちでぎこちなく微笑んだ。
ヒラクが通気孔の向こうに姿を消すと、調理場の女たちは複雑な表情で気まずそうにしていた。
「まだ子どもじゃないか。かわいそうにねぇ」
中年女の一人がしんみり言う。
「でもあの娘の命がかかってるんだ、仕方ないよ」
白髪まじりの女が心配そうにかまどの通気孔を見て言った。
「……とにかく、あたしらは何も見てない、聞いてない、それでいいね?」
一番年長の女が言うと、他の女たちはそれぞれうなずいた。
「あの娘がそんなお茶なんて出しに行かなくても、向こうから飛び込んできてくれたんだ。こうなる運命だったんだよ」
「早くそのお茶捨てちまいな。頭がいかれちまう」
年長の女たちが言うと、二人の中年女はきびきびと調理台の上の茶器を片づけた。
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