第10話 井戸の間の恋人たち

 ヒラクが老人の後に続いて室を出ると、屈強そうな二人の男が円石で再び出入り口をふさいだ。


 空気の流れが変わり、ヒラクは一瞬外に出たような気がした。

 あなの外はほのかに明るく、足元には湧き水が広がっていた。

 泉の真上には煙突のように空洞が伸びていて、見上げると、外の光がずいぶん高く、遠くに見えた。

 それでもこの場所は他の室とは異なり、かすかではあるが自然光が感じられる。


「ここも地下? 外につながっているの?」


 ヒラクが尋ねると、老人は口角を上げて笑顔を作り、笑みの宿らない目で言った。


「ここは『井戸の』です。プレーナ教徒の居住区全体の通気孔の役割も果たしております」


 老人の言葉を聞きながら、ヒラクは足元に広がる泉をじっと見た。


 その時、気配が辺りに漂った。


 気づけばヒラクのかたわらには一人の娘がいた。

 娘はひざまずき、祈りの言葉でプレーナをたたえ、両手で湧き水をすくい取ると口元に運んだ。

 水を飲み干すと娘は立ち上がり、何かを決意したような表情で上方を見上げた。


 娘の横顔が光に照らし出されるのを見て、ヒラクは息を呑んだ。

 頭からかぶる白布の隙間から覗く赤茶色の長い髪、黄土色の瞳、セーカの娘と一目でわかるが、その顔は、ヒラクがよく知る人物に似ていた。


「母さん!」


 ヒラクは思わず叫んだ。

 そんなことはあるはずがない。髪の色も目の色もまるでちがう。母は自分と同じ緑の髪、琥珀色の瞳をしていた。そう頭でわかってはいても、かたわらの娘はあまりにも母に似ている。


「母さん、どうしてここに?」


 ヒラクは母によく似たその娘に触れようと手をのばした。


 その瞬間、娘は姿を消した。


 今度はその娘はちがう場所に姿を現し、泉をはさむようにしてヒラクと向き合った。母によく似た娘の他にも若い娘が六人、横一列に並んでいる。


「おまえたちはプレーナと一つになるべくして選ばれた者」


 気づけばヒラクの隣に見知らぬ老人が立っていた。

 老人はたった今ヒラクが話していた老人と同じ緑の布をはおっている。

 だが縮れ毛に黒髪の残るその老人は明らかに別人だ。

 老人はヒラクにかまわず、娘たちに語り続けた。


黒装束くろしょうぞくの民に導かれ、聖地プレーナへ到達せよ。己の罪を浄化し、永遠にプレーナとともにあれ!」


 娘たちの表情はさまざまだった。

 誇らしげに微笑む者もいれば、不安げな顔の者もいる。

 母に似た娘はそのどちらでもなく、ただその目にゆるぎない決意を秘めていた。


「キルリナ!」


 今度はヒラクのかたわらに、見たこともない若者が立っていた。

 さきほどまでいた老人は姿を消していた。六人の娘たちもいない。

 ただ一人、母によく似た娘だけがその場に残っていた。

 そして、悲しく切なげな表情で若者をみつめている。


「ザカイロ……」


 そう呼ばれた若者の赤茶色の鋭い瞳は激しい炎を宿しているかのようだった。

 若者は泉に足を踏み入れ直進すると、あっというまに水際の娘を抱きすくめた。


「行くな! キルリナ」


「ザカイロ、やめて、はなして。プレーナに知れるわ」


 抵抗するキルリナをザカイロはさらに強く抱きしめる。


「かまうもんか。愛する者が奪われるのをおとなしく見ていられるか」


「ザカイロ……」


 腕の中でキルリナの力が抜けていく。その目からは涙がこぼれ落ちた。


「どうしてわかってくれないの? 私はプレーナになるのよ。そしてあなたの罪をも浄化する。私は祈りそのものになる。早くプレーナの怒りがとけて再び地上で暮らせる日が来るように」


「おまえと共に生きられないなら、そんな日が来ても意味はない。逃げよう、キルリナ。俺についてきてくれ」


「無理よ……」


 キルリナはそっと体を離し、あきらめたように静かに首を横に振った。


「分配の水がなければ生きていけない。この渇きの地でプレーナにすがらずにどうして生きていけるというの?」


「……くそっ」


 ザカイロはうつむき、悔しそうにつぶやく。


「おれたちはただ無力な罪深い存在というだけなのか?」


 キルリナは両手をザカイロの頬にあて顔を上げさせた。


「それでも私たち愛し合っているじゃない。愛は湧き出る泉のように互いの心を潤す。それこそプレーナの源と私は信じたい。だから私はプレーナと一つになりたいの。この罪を浄化して、私は永遠にあなたの中に湧き出し、心を潤わせる」


「それが、おまえの望みか?」


 ザカイロが尋ねると、キルリナは静かにうなずいた。


「それで、おまえは幸せか?」


 ザカイロの言葉にキルリナは微笑む。


「そうか……。それならただ一つ、俺の望みを聞いてくれ」


「何?」


「俺もおまえと共にありたい。プレーナを目指すおまえと共に」


「私についてくるというの?」


 キルリナは戸惑いの目でザカイロを見た。


「でも、黒装束の民に導かれるのは選ばれた娘たちだけ。それこそがプレーナの望みだって……」


「そうじゃない」


 ザカイロは寂しそうに微笑んだ。


「もう、おまえの望みをつぶすようなことはしない。ただ……」


 ザカイロは真剣な目でキルリナをみつめた。


「俺はおまえに愛の証を残したい。おまえの中の俺の存在がプレーナまで到達すること、それが俺の望みだ」


「ザカイロ……それは……」


 キルリナの言葉はザカイロのくちびるにふさがれた。

 ザカイロはキルリナの身を包む白布をはぎとり、下に落とした。

 そしてその上にキルリナを横たえさせ、彼女の腕と腰に巻きついた緑のひもを解いていった。


「うわっ、うわーっ!」


 思わずヒラクは叫んだ。


 こういった光景をまったく見たことがないわけではない。

 アノイの山の中で、若い恋人同士が逢瀬を重ねるのをみかけたことがある。

 なぜこそこそと二人で会うのかヒラクにはわからなかったが、いとこのアスルと一緒にのぞいていると、アスルの兄のイメルにひっぱっられ、その場から遠ざけられた。

 アスルは男女の交わりの話に興味津々で、無邪気におもしろおかしく口にしては、生真面目なイメルにいつも怒られていた。

 ヒラクはアスルの影響で、そういったことがあるということは知ってはいたが、それは人に隠れてすることで、いけないことだというイメルの言葉を信じて疑わなかった。


一人おろおろと動揺するヒラクを、聖室から共に出てきた老人と二人の従者が呆気にとられたように見ていた。


「どうされました?」


「え? いや、この人たちが……」


 ヒラクは老人に聞かれて、キルリナとザカイロがいた場所を指差した。

 だが、そこにはもう誰もいない。


 そしてヒラクは、今見たものが、いつものように、自分にしか見えないものだということに気がついた。

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