第9話 緑に発光する女


 ヒラクは水音を聞いた。

 体は動かず、まぶたは重く、すぐに起き上がれそうもない。


 次第に意識がはっきりしてくると、みぞおちの痛みが増していく。

 ヒラクの脳裏にカイルの顔が浮かぶ。


 セーカの地底の町で緑の髪を晒したヒラクは、同じ髪色の「ヴェルダの御使みつかい」に間違えられた。騒然とする広場からヒラクを連れ出すため、カイルはヒラクを殴りつけ、気絶させたのだ。


「くそっ、あいつ……」


 今、そばにカイルがいるのなら、不意をついて思い切り殴ってやろうと、ヒラクはぐっと右手に力を込め、辺りを探るように薄く目をあけた。


(どこだ……ここ……)


 ランプの炎が消えかかっていてひどく暗い。

 周りにあるものはほとんど見えないが、どうやら地下の一室らしい。


 ヒラクはみぞおちに手をあてて、ゆっくりと体を起こした。

 弓も矢筒も、帯から下げていた小刀もなかった。

 そばに落ちていないかとヒラクは辺りを手で探ったが暗くてよく見えない。


 ヒラクは立ち上がり、手探りで出口を探そうとした。


 その時、また水音がした。


 それと同時に何かがヒラクの目の前をさっと横切った。


 ヒラクは、右から左へすばやく移動した何かを、とっさに目で追った。

 それはまるで太陽を見てすぐ暗がりに目を移したときに見える光の残像のようなものだった。


 淡く緑色に発光して見える影は、再び暗闇に溶け込んで消えた。


 ヒラクには、それが自分の目で見ているものなのか、まぶたの裏の残像なのか、よくわからなかった。

 確かめるように目をこすり、ヒラクは再び暗闇の中でじっと目をこらした。


 するとまた、淡い緑の光がすっと目の前を横切った。

 ヒラクが目で追うと、目で追った方と反対の方に緑の光がぼんやりと浮かんだ。

 それに目をやると今度は別のところから現れた。


 光の残像はヒラクの前で交差し、二手に別れた。

 それは次第に速度をあげ、数を増やし、うねるようにして縦横自在に飛び交った。

 何かの形を描くかのように、ヒラクの目の前を光の線が走る。


 ヒラクはゆらめく曲線の動きを呆然と見ていたが、時には自分の体にまとわりつくように飛び回る光の残像に不快感を覚えた。

 ヒラクが生まれ育ったアノイの村では、キツネやカワウソが人を化かすということがよくある。その類のものかもしれないとヒラクは思った。


「正体を見せろ!」


 ヒラクが叫ぶと、光は一点に集まり、その場にすうっと沈むようにして消えた。


 そしてヒラクは再び水音を聞いた。


 ヒラクは光が消えた場所に近づいた。

 そしてひざをつき、地面に手をのばしてみた。

 すると、下から淡い緑の光がにじみでるように湧いてきた。

 ヒラクはのばした手の隙間から、自分を照らすその光を見た。

 光はひんやりと手に冷たさを感じさせ、指先の動きでなめらかに流れるようだった。


「これは……水?」


 ヒラクは手元をじっと見た。

 そして、少し焦点をずらすようにして、目の中にとらえながらもぼんやりと全体を眺めるようにした。

 すると、光はうねるようにして立ち昇り、人の姿を形作っていった。

 体は丸みを帯び、髪は長く、薄いヴェールのような衣を身にまとう……。

 女の姿だった。

 それは光で形作られた、とらえどころのないものだ。

 女の顔の中心の光がもっともまぶしく、どんな表情かもわからない。


 緑色に発光する女は、ヒラクの前で両手を見せるように腕を伸ばした。

 そして、手で椀の形を作ると、下からすくうようにして、ヒラクの顔の前に両手を近づける。手の中には水がたたえられていた。


 ヒラクは発光する女の手の中の水をじっと見た。

 女は両手をヒラクの口元に近づけた。

 ヒラクは後ずさりして、女のまぶしい顔の辺りを見て首を横に振った。


「いやだ、飲みたくない」


 のどが渇いていないわけではない。むしろヒラクは水を欲していた。

 けれども、その前に恐怖があった。

 この水を飲めば、この女に取り込まれてしまう……そんな恐怖だ。


「一体何者なんだ。もしかしておまえは……」


『我が偉大なるプレーナよ、我をその懐へと誘いたまえ。我自ら生命の水とならん……』


 ヒラクの足元で声がした。

 見ると、やせ細った小柄な老人が、すがるように光と水の女の足元にひざまずいていた。


「誰? どこから現れたの? ずっとここにいたの?」


 ヒラクは声をかけるが、老人はまるで聞こえていない様子だ。


「ねえってば! 聞こえないの? この女の人は誰? 今プレーナって言ったの?」


 ヒラクは声をはり上げるが、老人はただぶつぶつと何かをつぶやいてひれ伏すだけだった。

 その時、後方で何か重いものを動かすにぶい音がして、細い光が差し込んだ。

女は姿を消した。


「お目覚めか?」


 しわがれた声がして、入り口をふさいでいた円石が完全によけられた。

 孔から薄明かりが差し込み、やせこけた年老いた男がランプを持って入ってきた。

 腰の曲がったその老人は、薄い白髪を後ろで一つに束ね、色あせた緑の布を全身に巻きつけるようにして杖をついている。


「誰? ここはどこ?」


 ヒラクは老人に尋ねた。老人は口元だけでにこりと笑う。


「ここはかつての老主様のおられる聖室です。生命の水が湧き出る地下の内奥、プレーナとの交信の間でもあります」


「老主様? このおじいさんが?」


 ヒラクは足元に目をやった。だがそこにあったのは、骨と皮だけになった干からびた死体だ。


「うわっ、何これ」


 ヒラクは思わず叫んだ。


「いかにも、その方がかつての老主様。いえ、老主様の離脱後の抜け殻と言った方がよいかもしれません」


 死体はミイラになっていた。

 前のめりに体を倒して、両手で椀の形を作り、足を折って座っている。

 その前には大きな銀の器があり、そこにはなみなみと水がたたえられていた。


「これは?」


「生命の水。プレーナそのもの。満月の日の分配交換により与えられたプレーナの呼び水です」


「プレーナ……」


 ヒラクはハッとして老人につめよった。


「プレーナって、さっきの女の人がそうなの? おれに水を飲ませようとした、あの緑の光の女がプレーナなの?」


「ほう、あなたの前に姿を見せたというわけですか」


老人は口元に笑みをたたえるが、目は少しも笑わずに、品定めするようにヒラクをじっと見ている。


「まあ、こちらでゆっくりとお話をうかがいましょう」


 老人は背を向けて、ついてくるよううながした。


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