僕の好きな人が女神に昇格した瞬間
伊崎夢玖
第1話
三月下旬。
世の中の学生は修了式を終え、春休みを満喫している。
かくいう僕もそのうちの一人。
この春休みは今まで溜めに溜めた本を消化していくことに時間を費やしていた。
しかし、読み出すと食事や睡眠を後回しにして読み耽ってしまい、そのおかげというわけではないが、溜めに溜めた本はあっという間になくなってしまった。
(暇だ……)
課題とは名ばかりのものはあったが、そんなものは春休み前に終わらせている。
時間を持て余してしまうとこんなに苦痛であることを人生で初めて知った。
せっかく時間があるからどこかに出かけようとも思ったが、親は仕事に行っているし、出かける手段がない。
自転車で行こうかとも思ったが、体力に自信があるわけでもないので、出かけること自体を断念することにした。
テロン♪
スマホの通知音が鳴る。
通知の相手はクラスメイトからだった。
『暇?』
たったひと言のメッセージ。
しかし、僕にとっては救いのメッセージだった。
この持て余している時間をようやく使うことができる。
「暇」と返すと『遊ぼうぜ』とすぐに返事が返ってきた。
その後、待ち合わせの時間と場所を決め、クラスメイトと会うための着替えをする。
ただのクラスメイトに会うだけなので、Tシャツの上にパーカーを羽織り、ジーンズを穿いただけのラフな格好を選択する。
というより、持っている服がそれしかないだけなのだが…。
ともあれ、時間も迫っているので、ジーンズのポケットにスマホと財布を押し込み、家を出る。
春らしい暖かな日差しが顔を照らす。
こんなに外が心地よいと感じたのはいつぶりだろう。
せっかくなので、待ち合わせ場所の駅まで歩くことにした。
所要時間は三十分。
春休みに入って家から全く出なかった運動不足の体にはちょうどいい運動だ。
いつもなら見ても何も感じない風景も今日ばかりはキラキラと感じる。
なんだか不思議なような、むず痒いような、なんとも言えない気持ちで駅に向かう。
三十分なんてものはあっという間で、早々に駅に到着してしまった。
待ち合わせ時間まであと数分。
クラスメイトの姿を探すが見当たらない。
ジーンズのポケットに押し込んでいたスマホがブブッと震える。
通知の相手は待ち合わせをしていたクラスメイト。
『すまん。遅れる。時間潰しててくれ』
大方予想していたことだ。
ヤツが時間通りに動くことはまずない。
もし、時間通りに動いたなら、明日はきっと槍が降るに違いない。
そういうヤツだ。
仕方なしに、ファストフード店を覘くが、全ての席が埋まっている。
近場の休めそうな場所を見て回るも、全て撃沈。
『せっかくの春休み。満喫しないでどうする?』と言わんばかりに、どこもかしこも僕と同じくらいの年頃の男女ばかりだった。
表通りの喧騒に嫌気が差して、誘われるように一本裏路地に入る。
すると、そこは「さっきと同じ空間なのか?」と思ってしまうほどの静寂に包まれていた。
ひんやりとした湿った冷気が体を包む。
歩いて火照った体にはちょうどいい冷たさ。
一歩、また一歩と歩みを進める。
すると、古びた本屋を見つけた。
表には今月号の雑誌が陳列されている。
読む本がなくなったところだったので、新しい本を探すにはちょうどいい。
しかも、こういう場所にある本屋は品揃えが悪いようで掘り出し物があったりする。
期待に胸を膨らませ、店内に一歩踏み入れる。
本屋独特の香りが鼻孔をくすぐる。
この匂いが僕は好きだ。
胸いっぱいに香りを吸い込み、店内の奥に歩みを進める。
入口近くには最近発売された本が平積みになっており、特に目新しい感じの様子はなかった。
しかし、奥に進むにつれて、古書と呼ばれる部類の本たちが所狭しと並んでいた。
そこは僕にとって宝の山だったが、学生の身分では買える代物たちではない。
泣く泣く店から出ようとした時だった。
入口から死角になっている場所にそれはあった。
いわゆる十八禁と呼ばれる部類のいかがわしい本たち。
思春期真っ只中の年頃。
そういうことが気にならないわけではない。
というか、気になるしかない。
レジからも死角。
立ち読みしても誰にもバレない。
そっと手を伸ばしていた時だった。
「…立ち読みはダメだよ?」
急に声がして、「ひゃい」と変な声が出てしまった。
誰もいないと思っていた背後にいたのは、僕の学年のマドンナ的存在の彼女。
誰が調べたか分からないが、学年の八割が彼女が好きであるという。
例に漏れることもなく、僕もその一人。
とはいえ、自分の気持ちを伝えるつもりはない。
フラれるのがオチだし、誰かにバレた時恥ずかしいから。
話したことも一度か二度程度。
きっと彼女は僕の名前も知らない。
「でも、今はいいよ。私が店番してるし」
彼女がどうしてここにいるのか。
店番というからにはバイトをしているのか。
聞きたいことは山ほどあるが、口から言葉として出ることはない。
池の鯉のように口をパクパクしている僕の耳元に彼女が近づいてきた。
「私は何も見てないからゆっくりしてってね。武田くん」
そういうと、彼女は奥に行ってしまった。
彼女の声を耳元で聞いてしまったこと。
彼女からすごくいい匂いがしたこと。
名前なんて知らないと思ってたのに知っててくれたこと。
日常ではあり得ないことがこの短時間で起こったことで、これ以上ないくらいに頭の中がパニックを起こしている。
本当なら、好きな人である彼女にいかがわしい本を手に取ろうとしていたところを見られたのだから、ショックを受けていいはずなのに、今の僕はショックの『シ』の字も受けていない。
今の僕が受けたのは彼女による神対応だった。
空気を読んだ大人な対応をしてくれた彼女。
その瞬間、僕の中で彼女は好きな人から女神に昇格したのだった。
僕の好きな人が女神に昇格した瞬間 伊崎夢玖 @mkmk_69
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