地下鉄駅出口を出て、地上へ。土曜の夜、繁華街は賑わう時間帯だが、小学校や公園が続くこの方向は、家路を辿る人影もまばらだった。鮮やかな十六夜の月へ向けて歩道橋を昇る足音も、自分の分だけ虚ろに響き渡る。

 と、そこへ、後ろからやや賑やかな音声が昇ってきた。

「旦那、あにさん、ちょっとお待ちくだせえ」

 階段を昇りきったところで、背広姿の渡村はきょとんと後ろを振り返った。

 鉄段の中途、踊り場になっているところを、がちゃがちゃと曲がってくる姿があった。グレーのジャンパーにジーンズ姿、松葉杖を一本ついた、若い男だ。

「ああ、ようやく追いついた」

「君は――」橋の上部で脇に寄って昇り口を空けながら、渡村は目を丸くしていた。「弟さんでしたね、小坂さんの」

「はあ、昨日は失礼しました。誠児と申します」

 がちゃりと最後の段を上がって、疲れたとばかり男は横柵に背を寄せた。松葉杖と同じ右側の肩に下げた黒いショルダーバッグが、歩道橋の鉄柵にぽすんと打ち当たる。

「姉がお世話になっております」

「あ、いえ」

「渡村さんのお宅、こちらなんですね」

「ええ、そうですが」言って、渡村は首を傾げた。「小坂さんはこちら方向ではないですよね。どうか、しましたか?」

「いえちょっと、旦那、渡村殿にお話が」

「は?」

「いやあ姉が、食事をご馳走になったばかりでなく、不審者に付け回されていたのを撃退していただいたとか」

「ああ、いや」

「聞きましたよお。渡村の旦那、なかなか注意力と観察力が優れていらっしゃるようで」

「それほどでも、ないが――」

「ところで、確認しておきたいのですが」

 妙に寛いだ様子で、鉄柵に背を預けて誠児はのんびりと続けた。下の舗道に時おり人影は行き交うが、この橋の上まで昇ってくるものはしばらく見られない。

「渡村殿は、うちの姉者に好意を寄せてくださっているということで、解釈しても構いませんか」

「ああ、それは――まあ、そういうことですね」

「それはまた、いい趣味と言うか、奇特と言うか、何と言うか――ゴニョゴニョ……」

「は?」相手は、眉を寄せた。「何ですか?」

「いえ、とにかく。まあ、有難きことで」

「はあ……」

「それでまあ、姉の身を案じて、不審者に気をつけてくださったと」

「まあ、そういうことだね」

「なかなか出来ないことです。たいしたものです。それがしごとき俗人なら、好意を寄せる相手と食事中、そんな相手以外に気を払うなどという余裕、なかなか持てそうになく」

「何を言いたいんだね、君は?」

「相手の女も二日間、かなり違う服装をしていたということですが、よく気がつきましたね、同一人物だと」

「それはまあ、たまたまだが。何か問題でも?」

「最初の日は相手が怪しげな素振りをしていても気にせず、二日目にはいきなり気にし始めたわけですね」

「いきなりということはないだろう」

「まるで、最初の日帰宅してから二日目までの間に、不審だということに気がついたように」

「何?」

「もしもですが、最初の日、好意を寄せる相手女性を撮影した映像でもあって、それを何度か見直す中で後ろの別な客の不審な素振りに気づく、ということなら十分に納得がいきますが」

「何を言っている」顔をしかめて、渡村は首を振った。「あるわけないだろう、そんなこと」

「映像と言えば」にこにこと笑顔を変えず、誠児は続けた。「昨日見せてもらいました。あの、万引き犯を写した動画。あそこの副店長と懇意なもので。見事な撮影でしたね、本当に。はっきり犯人の人相が判る」

「それはどうも。――って、君、あの撮影が何か怪しいと言いたいのかい?」

「いえいえ、滅相もない」笑って、若い男は松葉杖を抱えた手を振った。「あんな見事なもの、何か企んで出来ることではないでしょう」

「そうだよ」

「それがしが不思議に思ったのは、あの犯人のでない部分の映像でして」

「何?」

「デジカメで撮影したんでしたよね、あの映像」

「ああ。超小型のデジカメだが、動画撮影機能もついている」

「もちろん動画も静止画もオートフォーカスでしょうが、どんな高性能のカメラでも、ピントが合うまでに一秒か二秒はかかります」

「まあ、そうだね」

「あの動画の不思議なのは、ですね」戯けるように、誠児は片眉を上げた。「店の奥で犯人の声がした瞬間に、もうその手前の書棚にピントが合っていたことなんですよ」

「は?」聞いて、渡村は首を傾げた。「――それが?」

「つまり渡村殿は、奥で異状が起きる前にそちらにカメラを向けていたということになる」

「まあ、たまたまだね」

「しかしそれ、あり得ないんですよ」

「はあ? 何故?」

「あの騒ぎが起きる少し前から、カウンターにいた水沢副店長は渡村殿の存在に気がついていたそうです。ああよくいらっしゃるお客様だと」

「それが? その店員はそのとき、私がデジカメを構えていなかったと記憶していたと言うのか? あんな小さなカメラだぞ」

「特に、お客さんがどんな仕草をしていたかは覚えていないそうです」

「そりゃあ、そうだろうな」

 相手の返答に小さく肯いて、誠児は背筋を伸ばした。右肩のショルダーバッグの紐を左手で掴んで、軽く揺すり上げる。

「でもですね。ご存知かも知れませんけど、特に近来、書店員はデジカメやケータイのカメラに神経質なんですよ。立ち読みのふりをして本の中身を盗撮する、万引きと変わらない行為が蔓延している。しかもあの店は最近個性的なディスプレーが評判で、他店からスパイ紛いの撮影者もしばしば寄ってくるという現状で、ますます神経質になっているという」

「まあそれは、聞いたことがあるが」溜息混じりに、渡村は首を振った。「だと言って、私の撮影があり得ないという言い種にはならないだろう。実際現実に撮影したんだし、店に迷惑をかけたというわけではない、むしろ感謝されているんだ」

「でも、おかしいんですよね。渡村殿は騒ぎが起こる数秒前には現場にカメラを向けていた。その様子を、まあしげしげと観察していたわけではありませんが、認識していた店員が不審に感じなかった。撮影が連想される仕草をしていたら、まず気になったはずなんです」

「だから、それならどうしたと言うんだ」

「あの動画の撮影、デジカメではなかったんでしょう?」

「何?」

「インターネットの通販で結構売られていますよね、盗撮用の隠しカメラというやつ」

「何だと?」渡村は、目を剥いた。「何だって私が、そんなものを使う必要がある」

「想像でしかありませんが、最初はさっきも言った、立ち読みの合間の本の盗撮用に用意したんじゃないですか」

「馬鹿な」

「それが、段々別な用向きにも使われるようになった」

「何だ?」

「あの万引き犯を写した動画が、最初からピントが合っていたのは何故かという疑問ですけどね。いちばんもっともらしい回答は――」

「………」

「そのしばらく前から何かを撮影していて、カメラがそちらを向いていたということですね」

「何だというんだ」

「その被写体は何かというと、疑問の余地もない。あのピントが合っていた書棚の陰に、その数秒前に消えたものでしょう」

「………」

「つまり、店長。それがしの愚姉ですな」

「―――」

 にっこりと、誠児は相好を崩した。

「いやしかし、どうでもいい話ですが。このグシという単語は、発音しにくいし意味も通じにくいですよねえ。グケイ、グテイ、グマイはそうでもないのに、何でなんでしょうねえ」

「何の話だ」相手は、顔をしかめた。「話を逸らさないでくれ。私が君のお姉さんを盗撮していたと?」

「それしか理由がつかないと思うんですが、あのピントについては」

「偶然だと言っているだろう」しかめ面で、渡村は首を振った。「だいたい君の言っていることはおかしいぞ。盗撮なんて後ろ暗いことをやっていたとしたら、私がわざわざあそこで自分から申し出て動画を提供するなんて、そんなわけがないだろう」

 バッグの紐を左手で握った姿勢で、誠児は小さく笑った。

「普通の臆病で小利口な出歯亀なら、決してやらないでしょうねえ。しかしおそらくあのときこちらの盗撮犯さんは、誰かにいいところを見せて気を惹きたいという欲求に勝てなかったんじゃないですか」

「馬鹿馬鹿しい」

「動画提出に当たっては、他の人に見られないようにパソコンで処理したということでしたよね。デジカメでなく隠しカメラの方からデータを出すことと、動画の見られてまずい部分を切り捨てる処理は、十分人知れず出来たでしょう。誰かさんにいいところを見せたいあまり、ぎりぎりまで動画を長く残した結果、こんなツッコミを受ける羽目になったわけでしょうけど」

「何を言っているやら」

「それからさっきも言った、レストランで不審者に気づいた件ですけどね。隠しカメラは、実際に被写体を確かめずに見当をつけてフレームに収めます。食事中出来るだけ向かいの女性を撮影しようとしていたとしても、撮影者の動きで何度もレンズの向きが逸れたりしてしまう。それがたまたま後ろの方の席に向いて、そちらにピントが合ってしまって撮影されたということがあって不思議はない。後で画像を鑑賞している中で、そちらの不審な動きに気がつくということは大いにあり得ます」

「馬鹿馬鹿しい」もう一度、渡村は首を振った。「そんな、私が君のお姉さんに対してストーカー紛いの妙な関心を持っていたというのか。全く根拠もない、濡れ衣だ」

「ストーカー呼ばわりするのは失礼かも知れませんけどね。けれども少なくとも、最初の会食の前からかなり、並々ならぬ関心を寄せていたのは確実だと思います」

「何だってそんなことが言える」

「だって渡村の旦那、うちの愚姉が説明する前から、穀潰しの弟が同居していることを知っていましたよね」

「何?」

「それより何より、あんないい年の女を相手にするとしたら、果たして未婚か、現在付き合っている男はいないのか、まず確かめたくなるのが人情でしょうに。気にしている素振りも見せていない」

「ちょっと待て。何で君、そんなこちら二人だけのときの会話を知っているようなことを言う?」

「最初の食事のとき、『家には手のかかるのがいる』という姉貴の発言に、あっさり『ご兄弟ですか』と応じていましたね。こんなの、相手の家庭環境をあらかじめ調べていなければ出ない科白でしょう。三十近い女の発言ですよ、普通なら『手のかかるの』と言ったら、ぐうたら亭主か小さな子どもがいることをまず想像する。と言うか、好意を持った相手ならなおさら、まずそれを疑って確かめるでしょうに」

「いや――何?」

「ということは渡村殿、以前からうちの愚姉に関心を持っていて、家庭環境を調べていたことになる」

「いや、それは――」

「しかしまた、もし相手を尾行して住処を見つけて、若い男が同居していることを知ったとしても、それが兄弟だなんて確信は持てませんよ。うちは親しく近所づきあいをしている相手もいませんから、多分そこらで聞き込みをしたってあれは弟だと教えてくれる人はいないはずです。それに近年は個人情報の保全はうるさくて、赤の他人が簡単に住民票などを調べたりもできないはずで」

「………」

「ということは渡村殿は、なかなか普通の素人には出来ない方法で姉の個人情報を調べたと想像するしかないわけで。まあ常識的には、興信所なんかに依頼してということが考えられますが――」肩をすくめ、誠児は片目を細めた。「実は、もっと手軽な方法がありますよね」

「何だ?」

「姉の同僚、特に水沢副店長は、こちらの家庭環境をよく知っています。もう一人の職員、野瀬さんも弟と同居くらいは知っているかな。他のバイトたちにはプライベートのことは教えていないと、以前姉が言っていましたね」

「それが? ああ、私がその同僚の職員に聞き込みをしたという想像か?」

「いえ」あっさり、誠児は首を振った。「水沢さんには昨日確かめました。よくいらっしゃるお客さん、渡村殿に限らずどんな客にも、そんなことを訊かれた試しはないと言っていました。またもう一人の野瀬さんも、昨日のやりとりが芝居でない限り、そんな質問や会話をしたことはないでしょうね」

「じゃあ――」

「とすると残るのは、そんな職員同士の私的な会話を盗み聞きしたという可能性ですが。これもまず、普通にはあり得ない。あの会社、その辺の社員教育は厳しくて、客の耳があるところで私語はしないという躾は徹底されているそうです」

「じゃあ何だ、盗み聞きはないということじゃないか」

「残る可能性は、盗聴ですね」

「何――?」

「よく店を訪れる常連なら、店員の目を盗んでカウンターの辺りに盗聴器をしかけることは出来ると思います。特にあの店はカウンター周りにもごちゃごちゃしたディスプレーが出来ていますから、その隙間とかに。そうしたら、客がいない合間のカウンターでの店員の会話を盗聴というのは、可能でしょう」

「何だと――」

「これも、インターネットの通販ですぐに見つかりますね。服のボタンくらいのサイズのワイヤレスマイク、簡単に手に入ります」

「また、根拠もない罪状を押しつけるのはやめてくれ」渡村は吐き捨てた。「だいたい、盗聴マニアは君の方なんじゃないのか。その手の機械にも詳しいようだし、お姉さんの外での会話の内容を何故か詳しく知っている。そんな、手のかかるの云々の話や、野瀬とかいう女とのやりとり、お姉さんが帰宅してそれほど微に入り細に入り話しているとも思えない」

「まあその辺は、想像にお任せしますが」

「異常なシスターコンプレックスっていうやつか? そうだ、昨日話に出ていた以前の男の痴漢の冤罪ってのも、君の仕業なんじゃないのか?」

「想像にお任せ」

「な――」渡村は、目を見張った。「口から出任せで言ったんだが。まさか、君――」

「その辺のことは、どうでもいいと思うんですが」変わらない微笑のまま、誠児は返した。「話を逸らして誤魔化されては困りますよ。さっきからは、渡村の旦那の行為を話題にしているわけで」

「言っただろう、根拠もない濡れ衣だ」

「まあ、盗聴という方は想像に留まっているのは認めます。しかし盗撮の方は、さっきの論証で納得出来ませんか」

「でっち上げの濡れ衣だ。ピントが合っていたくらい、偶然に起こる」

「盗撮用の隠しカメラというのは」相手の返答を無視して、誠児は続けた。「いろいろな形のものが販売されています。こんなこと、旦那には釈迦に説法かも知れないすけど。眼鏡の形のとか、腕時計に仕込んであるのとか」

「―――」

「旦那のかけていらっしゃる眼鏡、そんな細縁のじゃさすがにカメラは仕込めませんよね」

「当たり前だ」

「それから、腕時計はよく見えないので判らないんですが。この時計型のって意外と撮影に不便なんですよね。文字盤にカメラレンズがついている形だと、正面の被写体にそれを向けようとすると結構不自然な格好になる」

「だろうな」

「一番自然に見えるのは、左手で右腕を掴むか、ショルダーバッグの紐を掴むとかなんですけどね。渡村殿は鞄も手提げだし、そんな格好をする習慣もないようだ」

「それはそうだが――え?」渡村は、正面の相手を見直してやや目を見開いた。「君、まさか――」

「まあだから、眼鏡も時計もなさそうですけど」なおも相手の反応を無視して、にこやかに誠児は続けた。「隠しカメラっていうのは、他の形もありますよね。ボールペン型とか、ネクタイピン型とか――」

「―――」

 思わずのように、渡村の掌は腹の辺りを押さえていた。

「旦那は、ボールペンを胸に挿す習慣はないようですが。そのネクタイピンは、昨日も今日も同じですよね」

「……毎日変えるほど、お洒落ではない」

「でも、偶然ですよね」にや、と誠児は唇の端を持ち上げた。「旦那のと全く同じデザインのタイピン、それがしネットのページで見たことがあるんです」

「………」

「それも、さっき話題にした、盗撮グッズのサイトで」

「……見間違いだろう」

「まあ、ちらっと見ただけなら、そういうこともあるかも知れませんけどね」

 わずかに、誠児は身体の向きを変えた。バッグの紐を掴む左手首の時計が、正面から渡村の腹の辺りに向かっている。

「仮にもし――」渡村は、唸るような低声を漏らした。「これが同じデザインだったとしても、盗撮の証拠にはならないぞ」

「ですよねえ」

 事もなげに、誠児は笑い返した。

「でも――まあ、釈迦に説法が続くんですけどね。動画の盗撮カメラとしては、タイピン型には大きさの関係で撮影の機能しか仕込めない。そのグッズのサイトでも、そのカメラと線で結んで使う記録用の機械も抱き合わせで売っています。ポケットに入る、タバコのパッケージより少し大きいくらいで、マイクロSDカードを挿し込んで記録するんですね」

「………」

「ところで」ひょいとバッグの紐から手を離して、誠児は頭をかいた。「返す返すも、昨日は失礼つかまつりました」

「は?」

「いやあ、ドラマやマンガなんかではよく、若い男女が街角で衝突、重なり倒れるロマンチックな出会いなどというのがありますが。むさくるしき男同士では、さっぱり絵にもならず」

「何だ?」

「しかしこれもドラマやマンガなどではしばしば、その拍子に鞄なんかを取り違えたりというのもよくあることで。それどころか、その拍子に互いの心と体が入れ替わるなんていうことさえ、しばしば起こるらしいですから」

「何を言っている?」

 相手の呆れ声を聞き流して、誠児はバッグの口を開いて手を入れていた。

「ぶつかった拍子に、ポケットの中のタバコパッケージ大のものが入れ替わるなんてことが起きても、何の不思議もありませんよね」

 バッグから取り出したのは、黒い小さな直方体、プラスチック製らしい箱状のものだった。横に、音声や映像のプラグを差し込むソケットが見えている。

「何だと?」

 慌てた素振りで、渡村は上着の左腰のポケットを押さえた。

「ここまで思い当たる様子もなかったところからすると、昨夜帰宅されてから確認していないようですね、その中の映像。まあ昨夜は飲酒をされて、今日は出勤のご様子ですから、無理なきことなれど」

「な、何――お前――」

「それがしの方の映像記録、昨夜見たところ面白いものが入っていましたよ」

「………」

「レストランで食事する見覚えのある女性」

「………」

「書店の中の様子、本の中身」

「………」

「女性のスカートの中の映像」

「馬鹿な、そんなもの――」

「最後のだけ、否定ですか?」誠児は吹き出した。「いやまあ、確かに最後のは冗談ですが」

「いや、しかし――」

「それがしには覚えのない映像なんですが、どうしましょうね、これ」

「な――」

 渡村の左手が持ち上がりかけ、途中で止まった。

「いや、それがしには用もない。お返ししますよ、ほら」

 笑って、誠児は黒い箱を無造作に放った。向かいの男の、やや右手側へ。

 血相を変えて、渡村は一歩そちらへ寄って投擲物を両手で受け止めた。

「うまいうまい、ナイスキャッチ」

 松葉杖の脇で、誠児は軽く拍手した。

「でも、旦那」笑顔のまま、もう一度左手をバッグに入れる。「本当にお入り用なのは、こっちなのでは?」

 摘まみ出したのは、小さな半透明のプラスチックケース。中にかすかに見える紺色は、SDカードだ。

「何?」

 見返して、黒い箱を手にしたまま渡村はぽかんと口を開けた。

 そちらを見返しながら、誠児はかちゃかちゃ松葉杖を鳴らして横へ移動していた。相手と離れて、もと来た地下鉄出入口へ降りる階段の方へ。

「あ、こら、待て」

 血相を変えて、渡村は追ってきた。

「わあ」誠児は余裕の顔のまま目を丸くした。「この足じゃ、逃げられないっすね」

「寄越せ、それ」

「でも、旦那」まだ余裕の表情で、足が止まる。「こんな身体でそれがしが、何の用意もしないでここへ来たと思います?」

「何?」

 ひょいと、誠児の横目が下の舗道の方へ流れた。歩道橋の陰から、若い男が歩き出してきた。

「おーい、これ頼む」

 ひと声呼ばわって、誠児は右手を大きく振りかぶった。

「仲間がいたのか?」背広男の目が大きく見開かれた。「こら、何をする」

 慌てて駆け寄る、渡村の手が届くより先に、白っぽい小さなケースは宙に舞っていた。下の若い男が、それにつられて暗い頭上を見上げている。

「待て、それ寄越せ!」

 誠児の脇を抜けて、年長の男は地上へ向かう階段口に駆け寄っていった。押しのけられた形の誠児は、戯けた顔でその場にたたらを踏んだ。

「わあ、と、と――」

 傾いた拍子に、松葉杖が斜めに横へ滑る。それがタイミングよく渡村の足の前に差し出され、

「わあああーーッ」

 夜空へ悲鳴がつんざき上がった。

 がちゃがちゃと鉄段を擦る音とともに、背広姿が転げ落ちていた。

「ありゃありゃ、たいへん」

 ゆっくりと、誠児は階段口へ寄っていった。

「どうしました?」

 下にいた若い男が、駆け上がってきた。

 グレーの背広姿は、階段がターンする踊り場の突き当たりに倒れて、動かなくなっていた。

 そこへ、不自由な仕草で誠児は降りていった。

「慌てて逃げようとして、転げ落ちたみたいですねえ」

「逃げようとした? この男の人が?」

 若い男は、困惑の体で誠児を見上げた。

 その横に屈んで、誠児は倒れた男を覗き込んだ。

「ありゃ、気を失ったみたいだ」

 呟いて、傍らの若い男に顔を向けた。

「この人が、そこの地下鉄のエスカレーターで女性のスカートの下から何かカメラみたいなの向けてたのを見たもので。ここまで追ってきて問い詰めたら、逃げ出したんですよ」

「ああ、なるほど」

「それにしても、救急車を呼ぶ必要がありますね」

 言いながら、誠児は懐からスマートフォンを取り出した。

「――はい、はい、歩道橋の階段を転げ落ちて、男の人が気を失っています。はい、はい、よろしく――ここは、地下鉄××駅の七番出口のすぐ横で――」

 手早く液晶に話しかけて、スイッチを切る。

「僕、ここで救急車来るまで待ちますので」

「ああ、それじゃ」若い男は遠くに目をやった。「俺はいなくても大丈夫かな。帰り、急いでいるんで」

「大丈夫だと思いますよ」

「じゃあ、失礼するよ」

 そそくさと下へ向けて戻りかけて、男は振り返った。

「そう言えばさっきあんた、俺の方へ向けて何か投げる真似しなかった?」

「ああ、あれ」誠児は笑いを返した。「ほんの冗談です。気にしないでください」

「なら、いいけど――」

 首を傾げながら、男は遠ざかっていった。

 暗い舗道に、その背中が見えなくなる。

 瞬間、誠児は動き出した。

 倒れた男の傍に落ちていた黒い直方体を拾って、バッグに仕舞う。それから男のポケットを探り、同じ形の直方体を取り出す。その脇から抜いた小さなSDカードを、バッグから出したノートパソコンのソケットに挿し込む。手早く画像を確認し、さらに自分のポケットから取り出したSDカードから、映像ファイルを一つ相手のカードにコピーした。そうしてカードをもとの黒い機械に挿し、男のポケットに入れ戻した。

「旦那」

 まだ意識のないことを確かめた相手に、そっと囁きかけた。

「早まっちゃいけませんぜ。そちらの道具を見て確かめる前に、同じものを用意出来るはずないじゃないすか」

 くすりと笑って、脇にしゃがみ込む。

 スマートフォンを取り出して、改めてゆっくりプッシュした。さっきは押したふりだけした、一、一、九を。



「ああーー、腹が立つったら」

「どうしました姉者、帰宅早々」

「こないだの渡村って男、昨日女性のスカートの中盗撮して、逮捕されたんだって」

「ありゃありゃ」

「それも、それを目撃されて逃げようとして、歩道橋から落ちて気を失ったっていうんだから。間抜けだったらありゃしない」

「本当に。しかし姉君、何処からそんな詳しい情報を?」

「その盗撮のカメラからさ、うちの店内や本の中身とか写した画像が出てきたんだって。それで今日の午後、うちに警察の人が確認に来た」

「悪いことは出来ないねえ」

「本人はスカートの盗撮は否認してるけど、被害者の顔も映っていて、その女性に確認もとれて、昨日のその少し前に確かに地下鉄のエスカレーターに乗っていたらしいと判って、言い逃れ出来ないみたいだ」

「本当に、悪いことは出来ない」

「こないだの万引き犯を写したのも、盗撮のついでだったんだ。わざわざ感謝して、損しちゃったよ」

「だねえ。その後の姉上も、付き合い損だったねえ。まだそんなに親しくなる前でよかったと言うか」

「本当さ。畜生!」

「まあ、落ち着いて」

「その話聞いて、水沢はこっちを同情の目で見るし、野瀬はそれ見たことかと勝ち誇ったみたいな顔するし」

「それはそれは」

「辛うじてよかったと言えば、あたしが男をはめようとしたなんて野瀬の誤解が解けたこと、だけどね。昨日の夜といや、二人一緒に勤務だったんだから。その代わり野瀬の奴すっかり、店長は本当に男運悪いんですねえって、こっちも同情モード」

「それは、何と言っていいやら」

「ああくそ、とにかく腹立つ」

「まあまあ、悪いことは忘れて。今日の夕食はキーマカレーですぜ。元気を出しておくんなせえ」

「カレーの匂いは気がついてたけど。キーマカレー?」

「挽肉が特売だったもので」

「――あんたほんと、いい主夫になれるわ」

「お褒めに与り、恐縮」

「ああ、難を言えば。昨日帰ってきたら、何か段ボールの残骸みたいなのそこに転がったままになっていたよ」

「おお、失態。ミステーク」

「何か荷物が届いたのかい」

「ああ、ちょっと。インターネットの通販で、ネクタイピンなど買いまして」

「なるほどね」

「夜注文したら次の日の午後には届いてしまうんだから、最近は便利になったもので」

「ネクタイピンって、就職活動用ってことか」

「まあ……」

「主夫修行もいいけど、やっぱり本来のそっちに身を入れなきゃね。タイピンなんかで飾るのも大事だけど、中身も鍛えなさいよ」

「へいへい。耳の痛いことで」

「じゃあ、着替えてくるから。すぐご飯、お願いね」

「かしこまりました。ああそう言えば姉上、洗濯したブラウスのボタン取れかかってたんで、付け直しておいたから」

「あらら、ありがとう。ほんとこの主夫がいると助かるわ」

「どういたしまして、です」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒箱(ブラックボックス) eggy @shkei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る