長くなってきた陽も落ちかけた火曜の宵、ネオンに満たされた街角のフレンチレストランに招き入れられた。仕事帰りの野暮な格好で恐縮です、とテーブルの向かいで渡村は気さくな笑いを綻ばせた。定休日の沙也子は多少服装に気合いを入れてきたのだが、出勤していた男の方は確かに先日とほとんど変わらないスーツ姿だ。ここは、土日を休めない沙也子の都合に合わせてもらった事情で、不平を言う筋合いはない。

 いかにもガイドブックのお勧めデートスポットに紹介されていそうな、小洒落たレストランだ。沙也子の好みを訊きながら、渡村は慣れた様子で注文を進めていた。

「こういうところ、渡村さんはよくいらっしゃるんですか?」

「たいしたものではありませんけどね」眼鏡の奥で、相手は目を細めた。「営業の付き合いなどもありまして」

「たいへんなんですね、こんなお店でもお仕事って」愛想笑いを、返す。

「小坂さんこそ、お仕事も私生活も、こんな場所がお似合いに見えますが」

「本屋風情に、こんな上品なところでの営業活動はありませんよ」小さく、手を振った。「私生活でも、改まった外出はとんと御無沙汰です。あの店を任されてしばらくかかりっきりですし、家には手のかかるのもいるもので」

「ご兄弟ですか」相手も合わせて笑っていた。「仲がよさそうで、羨ましい」

「そんな、可愛いものではないです」

 談笑しながら、渡村は進んで自分の境遇を口にした。年齢は三十四、独身、一人暮し。実家は整形外科医院で、兄が後を継いでいる。

 何だか妙に誂えたように、沙也子にとって釣り合いのいい相手に聞こえてくる。話をしていても、気さくに嫌味のない口調が心地いい。かえって、眉に唾をつけて冷静に警戒を考える必要を思い直したくなるほどだ。

 しかし、シェフお勧めのチキン・ショーフロワとワインが予想以上に美味で、会話も弾んで、食事が進むうちにすっかり沙也子も警戒を忘れて寛いでしまっていた。

 帰り際、今度また誘ってもいいですかという渡村の問いかけに、はっきり拒絶はしなかった。躊躇いは残しながらも、やはり胸奥に期待は細波を続けている。

 この週、またやはり沙也子の休日になっている金曜に、会う約束を交わした。

 その金曜。休みの日はなるべく勤務店に近づかないようにしているのだが、繁華街に出てまだ時間に余裕があると思うと、ふと習慣を変える気が湧いてきた。そろそろ勤務帰りの客が賑わい出す時間帯で、カウンターで精算業務に大わらわながら目ざとく水沢が気づいて、会釈を送ってきた。

 店内を一回りして戻ると、ちょうど手の空いたらしい水沢が含み笑いの顔でカウンターの端に出てきた。

「覆面調査、ご苦労様です」

「顔、隠してないし」

「不器用な調査ですねえ」

「まったく――って、冗談はともかく。何事もなし、かな?」

「ですね。ああ、昼過ぎにまた他店のスパイらしき人が、うちのディスプレーをデジカメで撮影に来てましたけど。店内なら阻止するんだけど、外の通路からだったんでまあ、騒ぎ立てるのは控えました」

「外からでも撮影禁止と注意するのは可能だけどね。まあいいでしょう、その程度は放っといても」

「ですよね。あとは早番との交代も滞りなく。遅番のバイト二名も予定通り」

「それは、何より」

「で、お嬢様はこれからお出かけの本番みたいですね。気合いを入れた装いで」

「そんなことないよお、ほんの普段着」やや早口で、沙也子は返した。「人のこと気にしてる暇あったら、お客様を見ていなさい」

「はいはい、かしこまりました」

 悪戯っぽいままの視線を、水沢はようやく上司から逸らした。またカウンター前が混み始めそうな予兆に、早足で戻っていく。

 入れ替わるように、バックヤードからもう一人の職員が現れた。

「お疲れ様でしたあ」

 小声で先輩の水沢に挨拶をかける。早番で退勤になる、私服姿の野瀬だ。その顔がこちらを向いて、やや目が見開かれた。

「あれ、店長?」

「野瀬さんは上がりね、お疲れ様」

 軽く肯いて、カウンターからの出口を空けた。わずかに首を傾げながら、概ねの状況は理解したらしい。笑顔を戻して、野瀬は頭を下げながら通り抜けた。

「お疲れ様です。失礼しまーす」

 先輩に比べて、無駄口めいた私語はもともと少ない職員だ。そのままもう一度会釈を送っただけで、店を出ていった。

 もう一度店内を巡ってから、沙也子も水沢に笑いかけて店を出た。

 この日渡村が誘ったのは、まだ開店して間もないイタリアンレストランだった。感嘆をすぐに口にするのは抑えて、席に落ち着いてから沙也子は向かいに囁いた。

「よくご存知なんですね、こんなお店の情報。少し前にうちの同僚たちとも噂していたんですよ、なかなか評判だって。一度来てみたいと思っていたんです」

「それは、ご希望と一致してよかった」渡村は穏やかに笑った。「無理して若い人の情報を漁った甲斐があります」

「そんな」

 悪戯めかせた相手の返しに、沙也子は唇に指を当てて笑った。

「まあ確かに、先日の店よりは客層が若くなっている感じですね」

 静かな表情で、渡村はゆっくり辺りを見回した。と、その途中で一瞬首の動きが止まったように見えて、沙也子は声をかけていた。

「どうか、しましたか?」

「あ、いや……」向かいの男は声を低めた。「何でもない。気にしないでください」

 この日も肉料理とワインで話が弾み、楽しく時を過ごした。渡村の時代小説の読書量が多いらしいことが一見意外でもあったが、話が合って没頭していった。

 店を出て、すっかり暮れ落ちたネオンの舗道を歩き出した、時。

 右手のビルの銀色に光る柱辺りに目を流した渡村が、顔の向きは変えずに声を潜めた。

「済みません。黙って、自然に合わせてもらえますか」

「え?」

 こちらも、当惑のまま声は落とした。男の足はわずかに右に向かう。すぐ先のビルの間の小路を目指しているようだ。確か人二人がようやく並んで歩ける程度の幅で向こうの大通りに抜けるはずだが、近道をしようというのか。沙也子は内心首を傾げた。

 しかし、小路へ曲がるとすぐ、

「そのまま歩いて」

 囁いて、渡村は足を止めてビル陰に身を寄せていた。

 何の真似だ?

 困惑のまま数メートル進んでから、我慢しきれず沙也子は後ろを振り向いた。

 人通りの多い歩道から、小柄な影が忙しなく折れてきた。それが、沙也子と対面して驚きの様子で立ち止まった。デニムの上下に、暗い色のキャスケット帽。活動的な服装だが、明らかに女性だ。

「あ、え――」

「何か御用ですか、お嬢さん」

 その横、影に沈んでいた渡村が声をかけた。

「え、え――?」

「さっきの店の中から、こちらを気にしてつけてきましたよね」

「え、いや――」

 小さく首を振って、向きを変えかける。その帽子の庇に隠れた横顔が、一瞬向こうの車のライトに照らし出された。

「え?」沙也子は声を上げた。「野瀬さん?」

「あ――」

 慌てて下を向く、その顔は確かに同じ支店の部下のものだった。

「ああ」やや声の調子を緩めて、渡村は肯いた。「何処か見覚えがあると思ったら。あの書店の店員さんでしたか」

「でも、何だって野瀬さん、こんなところに?」

「あ、いえ……」

 言葉を濁す女の退路を塞ぐように身体の向きを変えて、渡村は静かに声を続けた。

「さっきの店で、離れた席からこちらを窺っていましたよね」

「………」

「それも、今日だけじゃない。火曜の夜もあのフレンチレストランで、小坂さんの後ろの方の席で何度もこちらを振り向いていました。今日とは服装が違って、大きな眼鏡をかけていましたが」

「え?」

 ますますの驚愕で、沙也子は声を高めていた。

「火曜も? 野瀬さん、ずっとあたしをつけていたの?」

「………」

「どうして、野瀬さん――」

 問いかけの言葉を遮って、キャップの下の顔がきっと持ち上がった。こちらに反発の声を返すかと思いきや、すぐにその顔は男の方を振り向いた。

「あんた――」強い、はっきりとした声が発せされた。「悪いこと言わない。この女と関わったら、酷い目に遭うよ」

「ほう――」

 渡村は、わずかに目を丸くした。

「何を言ってるの、野瀬さん」

「前科があるんだから」じろりと、制する目が沙也子を射返した。「前にこの人の機嫌を損ねた男は、痴漢の冤罪着せられたり」

「何を言って――」思わず言い返しかけて、以前の件を思い出した。「そりゃそんな人昔いたけど、あの件はあたしとは関係ないわ」

「あなたは知ってるかどうか知らないけど」日頃に似合わない、断定的な声が返ってきた。「あの人、栖川すがわさん、今でも裁判で冤罪と戦っているんだから」

「そんな――」

「事件の夜は、あなたと口喧嘩をして別れた帰りだった。それで満員の電車に乗ったら、いきなり後ろから肘を掴んで押されて、女の尻に触ってしまったって。その女が大騒ぎをして、そのまま栖川さんは逮捕されてしまった」

「ほお――」

 何とも言えない声で、渡村が相づちを打った。そちらに、野瀬は苦笑のような顔を向けた。

「この女が、喧嘩した腹いせに相手をはめようとしたに決まってるわ。判る? そんな恐ろしい女なの、この人は」

「何を言ってるの、あなた」

 かっとして、沙也子は数歩詰め寄った。それを、渡村が軽く手を上げて制した。

「はめようとしたっていう、何の証拠もないようですね」

「証拠があったら、冤罪になってるわけないからね」野瀬は肩をすくめた。「でも、他に動機のある人はいないもの。この人に決まってる」

「あなたは? その栖川氏とどういう関係で?」

「取引先だから前から顔は知ってたけどね。数年してから偶然再会して、冤罪の事情を聞いて、応援しているの」

「しかし、冤罪の証拠はないと」

「痴漢の冤罪の証明は難しいから。だけどそれとは別に、この女ならまた気に入らなくなったら腹いせに男に報復ってのやるわ、きっと」

「だから、その現場を見つけようと尾行していたわけか」

「まあね」

「しかし話を聞いても、小坂さんがそんなことをしたというのがどうにも納得いかないな」

「しなかったという証拠もないわ」

「それにね、満員電車でその栖川氏に気づかれずに小坂さんが傍に近づいて肘を掴んで押したっていうの、まず難しいと思う。女性は香水や化粧品の臭いがしている。少し前まで会っていた男に、そこまで近づいたらまず気づかれるよ」

「そんなの、判らないわ。気づかなかったかも知れない」

「あのね」渡村は苦笑で溜息をついた。「法治国家の我が国では、相手を告発するのならまず犯行をしたという証明がいるんだよ。しなかったという証明はその後のことだ」

「そんなの、知ったことじゃないわ」

 じろ、と野瀬は二人の顔を見回した。

「せっかく親切で忠告してあげたのに。後で後悔しても知らないから」

「それは、どうも」

「今だって別にあたし、法律に触れることしたわけじゃないからね。引き留められる理由もないわ」

 言って、野瀬は沙也子を横目で睨んだ。

「じゃあ店長、また明日」

 言い捨てて、そのまま元の歩道へせかせか歩き去っていった。

 ふうう、と沙也子は長い溜息をついた。

「全くの濡れ衣ですよ、今の話」

「でしょうねえ」肩をすくめて、渡村は苦笑した。「どうにも頭から信じられないし、何の証拠もない」

「ですよ」

「もしその栖川氏の冤罪が本当だとしても、せいぜい他の乗客に偶然肘を押されたとか、そんな可能性の方が高い気がしますね」

「ええ」

 もう一度、沙也子の口に溜息が漏れた。

「それにしても――参りました。あの子、ずっとあんなこと考えていたなんて。毎日顔つき合わせているのに、明日からどうしたらいいんだか」

「難しいですねえ、同じ部署の付き合いときたら」真剣に思いやる顔で、渡村は肯いた。「この先あんまり関係がよくないようなら、上の方、人事の担当に相談した方がいいかも知れませんよ」

「そう――ですねえ」

 それも著しく気が進まない。とは言え、この件はこれ以上社外の人に相談することでもないだろう。そう思いながらも、また溜息が口をつく。

「まあしかし、堪りませんよねえ、こういうの」慎重に言葉を選ぶ様子で、渡村が静かに言った。「どうですか、今夜は気晴らしに、これからアルコールでも」

「ああ――いえ……」

 反射的に辞退しかけて、思い直しが頭に走った。今の件はこちらの都合のごたごたで、渡村に迷惑をかけたことになる。この上誘いを断るのは、非礼が過ぎるのではないか。

「では、遅くならない程度に」

「お互い、明日は仕事ですからね」笑って、渡村は肯いた。「大人の理性を持ってということで、一軒だけ、行きましょう」

「はい」

 狭い路地に肩を並べて、明るい舗道へと戻った。

 途端。

「わあ――ッ」

 左手に並んでいた渡村の向こうで、声が上がった。がちゃ、と金属的な雑音が響き、隣の男の姿が大きく傾いた。

「わあ、や――す、済みません」

 驚いて道を避ける人波の間で、松葉杖が一本舗道に転がっていた。傾きながら踏み留まっていた渡村のスーツの裾に掴まる形で、男が一人膝をついていた。横から歩いてきて、衝突したようだ。

「あ――大丈夫、ですか?」

 渡村が慌てて身を屈めて男を支えていた。

「いえ――いや、失態。面目ありませぬ」

 妙な口調で、手を借りながら若い男が身を起こす。

「失礼しました、失礼しました」

 妙に大袈裟な手つきで、渡村の上着を汚れを払うように叩いて。

 茶髪の頭がひょいと持ち上がり、沙也子と視線が合った。

「え?」

「ありゃ、姉者御前」

 弟の誠児だった。このところ癖になっている奇妙な言い回しが、こんな非常時にも口に出るらしい、とピント外れに沙也子は感心していた。

「いや、お連れがいらっしゃいましたか。どうもどうも失礼いたしました」

 松葉杖を拾い上げて体勢を直し、誠児は何度も頭を下げた。

「済みません、弟の誠児です」

 仕方なく、隣の男に紹介した。

「ああ、そうなんですか、これは」

 きょとんとしたまま、渡村は苦笑を戻していた。

「みっともない、ご迷惑をおかけしまして」さらに続けて、誠児は頭をひょこひょこ下げていた。「先日スキーで骨折などしておりまして。ご迷惑、ご勘弁いただければと」

「ああ、いや、気にしないでください」苦笑いで渡村は首を振った。「足が不自由ということならなおさら、仕方のないことで」

「御寛容、ありがたきことで」

「その変な口調、やめなさい」溜息をつきながら、沙也子は弟を睨みつけた。「だいたい何であんた、こんなところに」

「いや、友だちと会った帰りだけど?」

 右脇に松葉杖を落ち着けて、提げたショルダーバッグの紐を左手で掴む格好で、事もなげに誠児は応えた。

 それにしては、偶然が過ぎないか? 思ったが、沙也子は口に出すのを抑えた。

 まさか、こちらを尾行していたわけでもないだろう。今夜ここへ来ることは話していなかったし、家を出るとき弟は先に外出した後だった。さっきの部下ではあるまいし、ここへ来る道すがら、この松葉杖姿で跡をつけてきたとも思えない。

「いやいや、ともかく」誠児はさらに数度、姉の連れに頭を下げた。「失礼しました、お邪魔しました、どうも済みません」

「いやいや」苦笑して、渡村は片手を振った。「そんな、気にしないでください」

「それでは、失礼します。よい夜を」

 もう一度頭を下げて、ひょこひょこ松葉杖を運び出す。結構器用に素速い足どりで、その後ろ姿は人波に呑まれていった。

「なかなか、ユニークな弟さんですね」

「恥ずかしい限りです」

 小さな溜息とともに、沙也子は頭を振っていた。

「それでは、気を取り直して。参りましょう」

「はい」

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