黒箱(ブラックボックス)
eggy
1
書棚の落ち着きに目を配りながら、ゆっくり角を曲がる。文芸書コーナーから、最奥の実用書の一角へ。視界が変わった、刹那に
人影は一つ。その若い男らしい薄茶色のジャンパーの背中の動きが、幾度か見慣れた不審な形を作っていた。人目を忍んで、片手がショルダーバッグの口を開いている。もう一方の手が、厚手の書籍を掴んで半ばその口に差し込まれかけているところだ。
ほとんど反射的に、沙也子は声をかけていた。
「お客様、失礼ですが――」
びくりと背を伸ばして、振り向いた。やはり若い男らしい風貌。黒いニット帽、黒縁の眼鏡。頬から顎にかけて短い無精髭。
一瞬視覚に捉えたが、観察はそこまでだった。一呼吸の暇も置かず、若い男の身体は運動を開始していた。
「わああーーーー!」
一声叫ぶと、中背の体躯がこちらへ向けて突進してきた。
「ちょ――お客様――」
制止の余裕もなく、上背はそこそこあっても痩身の沙也子ははね除けられて、右横の書棚に背を打ちつけていた。
たちまち薄茶色の影が脇を抜け、中央通路に曲がっていく。そこを真っ直ぐ進むと、正面出入口だ。万引き犯を取り逃がすそのことよりも、通常混み合うタイミングの多い通路から出入口の他の客の安否が気にかかって、よろけながら沙也子は棚の角に上体を突き出した。
「危な――お客様、気をつけて――」
必死の形相で駆けていく若い男に度肝を抜かれて、数人の客が中央通路から慌てて脇に飛び退いていた。それでもさらに出口寄りに、もう一人の姿が見えている。ものも言わず足どりを緩めず、茶色ジャンパーはそのままそのグレーの背広姿の障害物に向けて突進していった。
「お客様、危な――」
沙也子が叫んだ、その瞬間になってようやく、背広の男性はわずかに身を横に開いた。それを両腕で荒々しくかき分ける仕草で、若い男は横を駆け抜けた。弾みで、背広の男は平積み台の脇に崩れ落ちていった。茶色の疾走はほとんど緩まず、瞬く間にガラス戸が開いたままの出口を飛び出していた。地下商店街通路のまばらな人波に、たちまちその背は呑まれていった。
ようやく警備員が二人駆けつけて、その跡を追っていった。
そちらにはちらりと視線を向けただけで、沙也子は書棚の間に尻餅をついた背広の男性に駆け寄っていた。
「お客様、お怪我はありませんか?」
「あ、ああ――大丈夫です」
こちらもまだ若いと言っていい風貌の男は、苦笑いめいた表情でよろめきながら立ち上がった。細縁眼鏡の位置を直し、ネクタイとネクタイピンを整えて、黒いビジネスバッグを拾い上げる。
「大変ご迷惑をおかけしました」傍に直立して、沙也子は頭を下げた。「私、この店の店長をしております、
「いやいや」苦笑いの色を深めて、男は片手を振った。「万引き犯か何かなんでしょう? 店長さんのせいじゃない」
「いえ、そう申されましても――」
「犯人の逃亡を防げたらよかったんですけどね。ご覧の通り、腕っ節に自信は持てない方なもので」
「いえ、そんな――危ないことはなさろうとしないでください」
相手の気さくな応対にやや気を緩めて、しかし沙也子は表情を引き締めた。
「それ以上、お怪我をされるなどしましたら、大変です」
「まあ、そう言っていただけると」
小刻みに首を肯かせて、男は背を伸ばした。
「店長」
レジカウンターから、茶色い短髪の女性店員が駆け寄ってきた。
「ああ、水沢さん」沙也子は顔を振り向けて声をかけた。「すぐ、警察に通報して。あの男の人、商品を持ったままでしょ」
「ですね、はい」
水沢は、すぐにカウンターの中に駆け戻っていった。もう一人の小柄なボブカットの女性店員と囁きを交わして、奥の受話器を掴んでいる。
間もなく、二人の警備員が戻ってきた。犯人の男はすぐ先の階段を駆け上がって、地上の人混みに紛れてしまったらしい。
「あとは警察に任せるしか、仕方ありませんね」
沙也子は溜息をついた。そのまま、書棚の傍に佇んでいた背広の客に向き直る。
「あ、済みません。お客様、お時間いただくことは出来ますか」
「私も警察に話した方がいいんでしょうね」客は肯いた。「営業回り中の休憩だったんですが、会社に連絡入れれば、大丈夫ですよ」
「済みません、助かります」
頭を下げて、沙也子は脇に戻ってきた水沢に顔を向けた。
「それにしても、警察にあの男の人の人相とか説明しなきゃね。水沢さんは、見た?」
「いえ、カウンターの中から見えたと言っても、あっという間ですから」短髪の部下は、首を傾げた。「茶色のジャンパーを着ていたというくらいしか。帽子を被っていましたっけ?」
「うん、黒いニット帽、だったと思う。私がいちばん見たことになるんだろうけど、それでもそれくらいしか覚えていないなあ。あと、眼鏡かけていたかな」
「かけていましたね」
背広の客が肯いた。それからわずかに視線を上向けた表情で考えて、続ける。
「もしかすると、もう少し詳しく判るかも知れません」
「え?」沙也子は、客の顔を見直した。記憶を探るという意味にしては、少し妙な言い方だ。「どういう、ことですか」
「いや、悪趣味とそしりを受けるかも知れないんですが」客は改めて苦笑いになった。「そっちで騒ぎが起きたとき、思わず懐にあったデジカメを取り出してしまいまして」
「デジカメ、ですか」
「ええ。ですから、上手くするとあの犯人の男、写っているかも知れません」
男は、ポケットから小さな直方体状のものを掴み出した。ほとんどチューインガムのパッケージと間違いそうなほどの小ささだ。
「わあ、小さい」水沢が、歓声のように呟いた。「でも本当に、ちゃんと写っていたら大助かりですね」
部下に横から覗かれて、沙也子は小さく肯き返した。
「ええ。お願い出来ますか、それ」
「判りました」男は気さくに肯いた。「出来たら、ノートパソコンでもあったら、貸してもらえますか。中身を確認して、コピーを出します」
沙也子に笑いかけて、男は懐からカードケースを取り出した。
「ああ、怪しい者でない証拠に。私、長谷川商事の営業部係長、
名刺を出して、沙也子に手渡す。
「ああ、ご丁寧に恐れ入ります」急いで、沙也子も名刺を取り出した。「店長の小坂沙也子です」
「どうも、よろしくお願いします」
肯いて、渡村は名刺を受けとった。
「渡村様、よくこちらにいらしていただいていますよね」
水沢が笑いかけた。
「ええ、しょっちゅうこちらに営業回りに来ますので」
沙也子の指示でボブカットの店員、
「うん、USB端子もSDカードソケットもありますね」機械の側面を覗き込んで、渡村は肯いた。「ちょっと、見られない向きで作業させてもらえますか。部外秘の画像も中にあるもので。誓って、怪しげなことはしませんので」
「ああ、はい。よろしくお願いします」
沙也子の返事を受けて、気さくな笑顔のまま渡村はカウンターの隅にパソコンを開いた。言葉通り人に見られない壁奥の方に画面を向けて、横のソケットに小さな器具を挿し入れながら操作を始める。それでもわずか数分で、手を止めて顔を上げた。
「出来ました。何とか写っているようです」
「本当ですか。助かります」
寄っていって、沙也子は画面を覗き込んだ。水沢と野瀬もその脇に寄って、
「わあ、動画なんですね」
「ええ、思ったより長い時間の分撮れていたようです」
渡村はマウスを操作して、動画のプレーヤーをスタートに戻した。
音声も記録されている。犯人のものらしい「わああーーーー!」という声を合図に、映像は始まっていた。さすがに全体的に鮮明とは言い難いが、開始早々結構はっきり映った奥の書棚の陰から茶色ジャンパーの男が飛び出し、撮影者に向かって駆けてくる。見る見る大きく近づいて、衝突で画面が乱れる、その経過がばたばたがさがさという臨場感のある音声とともにずっと記録されていた。手ぶれも大きく、特に動きっぱなしの人物はぶれまくって人相もほとんど判別出来ないほどだが、
「ここかな」
途中で、渡村がマウスをクリックした。
映像が少し巻き戻され、接近する人物像がアップになる、瞬間に静止して。
「ああ、これなら判りますね、顔」
沙也子が肯いた。まだぶれてはいるが、黒縁の眼鏡も頬から顎の無精髭も判別出来る。
「これならきっと、警察の参考になると思いますよ」
「なら、いいんですけどね」
「すごいですよお」野瀬が、子どもっぽさを残した感心の顔で唸った。「防犯カメラの映像なんか、比べものにならない感じ」
「お役に立つなら、光栄です」
渡村は、銀縁眼鏡の奥の目を人懐っこく細めた。見た目三十過ぎくらいと思われる営業マンが、妙に子どもっぽい印象を醸し出す表情だ。
駆けつけた警察官に、沙也子と渡村が代る代る説明した。提供した動画には、警官も感心して見入っていた。
「ふうん、これは助かりますね。かなり顔も判別出来る」
参考資料として、取り上げられることになったようだ。
「へええ、そんなことがあったんだ」
上体を揺らしながら鍋を運んできた
「それは大変でした。温まっておくつろぎくだされ、姉者」
「へいへい、ありがと」
ダイニングチェアの背もたれにだらり後頭部を預けて、沙也子は疲れ声を絞り出した。帰宅早々着替えたオレンジのスウェット上下という、勤務時間の外見からは想像し難い
「今日は、姉御前の好きなキムチ鍋ですぜ。スタミナ作りにも最適」
「それは、お気遣いどうも」
メニュー自体は、部屋中に籠もる臭いで見当がついていたが。いつもながらの弟の妙な言い回しはスルーして、溜息とともに上体を起こす。
向かいでは膳を運び終えた誠児が、ギプスで固められた右足を苦労して椅子前に収めているところだった。
この春大学は卒業したものの就職先は決まらず、加えて暢気に出かけた春スキーで骨折した足のせいで求職活動もままならずに姉の厄介になっている身で、ここのところ冗談混じりにやたら卑屈な言動を続けている。それでもこの弟は妙ににこにこ機嫌よく、怪我の不自由が許す限り二人暮らしの家事をこなしたりしているのだ。料理は以前から好きな方だが、最近では洗濯や裁縫まで完璧にこなして、姉を呆れさせているところだった。
鍋の蓋を取ると、独特の香気の湯気が勢いよく立ち昇る。もう四月も後半、そろそろ鍋の季節とは言い難いが、やはり好きな者にとっては堪らない瞬間だ。
「いい匂いだね、いただきます」
手を合わせて、真っ赤な汁にさっそく箸を差し入れた。
「しかし、その男の人も変わっていると言うか」飯を頬張りながら、弟は話を戻していた。「暴漢が自分に迫ってきているところへ、逃げるより先にデジカメを向けていたわけか。近頃はネットにアップするネタ作りに何かとケータイのカメラを構えるのが習慣になっている輩が多いみたいだけど、そういう方面の人なのかね」
「かもね」口いっぱいに白菜を噛みながら、もごもごと姉は応えた。「部外秘の撮影とかって、カメラの用途は業務上のものっぽく言ってたけど、裏ではそういう趣味なのかも知れない」
口を動かしながら、次の獲物を求めて鍋中に箸を突っ込む。
「まあ見た目は真面目な営業マン風だし、実際助かったけどね。その映像のお陰で、犯人の人相とか無理矢理思い出す苦労がなかったわけで」
「ふうん。街中のギャルどもとか、何かといやケータイ構えて周りの迷惑顧みずってことあるけど、役に立つこともあるわけだ、そういうのも」
「何だかオッサン臭いよ、あんたの言い方」
「元祖オヤジギャルには言われたくな――」
「何だって?」
「あ、いや――けほけほ、いや、唐辛子が喉に――けほけほ――」
「水飲みなさい」
「は――ご忠告、感謝――けほ」
がたりと椅子を引き、すぐ後ろの流しにもたれ込む。蛇口を捻って弟が慌てて水を飲んでいる間、沙也子は平然とレンゲで豆腐を掬っていた。
「それにしても腹が立つ、あの万引き犯」
「やっぱり結構あるの? そういう万引きなんての」
ようやく落ち着いて、弟はコップ片手にテーブルに戻ってきた。
「まあね。あたしがあの店任されて半年あまりでも、もう軽く二桁になるかな。でもたいていは現行犯で店員に見つかったら、観念するものなのね。今日のみたいにあんな、店の奥から店員はね除けて走って逃げ出すなんて乱暴なの、滅多にはいない」
「悪質だね、確かに」
「その画像でかなり人相はっきりしたから、早いところの逮捕、期待したいところだね」
「警察さん、頑張って、だ」
「そういうこと」
ふううと額の汗を拭って、変わらない勢いで沙也子はとり鉢を持ち直していた。
大手書店チェーン会社入社七年目の沙也子が、地下鉄直結の重要支店の店長を任じられたのは、前年秋のことだ。通勤客の往き来が多い地下商店街ということで、OLを対象とした若い女性感覚の店作りを期待されての抜擢だったが、沙也子と水沢、野瀬、正規職員三人を中心に女子大生のアルバイトを集めて、肩書の上下を問わずアイデアを出し合ったディスプレーがなかなか好評で、今のところなんとか上層部の期待に応えられているかというところだ。
裏を明かせば、二十代終盤近くになっている沙也子がこの期間、業務一筋にひたすら集中することが出来たという要因も大きい。周囲から揶揄を受けることもしょっちゅうだが、本人の意志とは別に適齢期にも関わらず私生活に全く彩りはなく、そちらに気を散らされることがなかったのだ。就職以降、何もなかったわけではない。しかし時に周りから真剣に案じられることがあるほどに、沙也子の男運の悪さは有名だった。
入社三年目の頃に取引先の出版会社勤務の男と一時付き合い出したことがあったが、間もなくその男が電車内で痴漢行為を働いて逮捕されるということが起きて、関係は消滅した。二年後文房具会社の男と知り合って交際を始めたが、これも間もなく、男が本社のある都市に妻子を残して単身赴任中であることを隠しているという告発の匿名メールが双方の社内に出回って、破局した。以来、沙也子の愛嬌のある外見と仕事の有能ぶりに反した恋愛方面の運のなさは知れ渡っていて、社内では異性から敬遠されるほどになっている。その後も二度ほど付き合い始めかけた外部の相手はいたのだが、そんな風評が伝わってだろうか、早々に遠ざかっていかれる結果になっていた。
「信じられないですよねえ、小坂さんにそんな相手がいないなんて」
折に触れて、部下の水沢が本気で案じてみせる。
「私生活でのオヤジ紛いぶりが、バレてるんじゃないの」
弟の誠児は、笑ってからかってくる。
私生活の点は即座に否定出来ないところが情けないが、それが恋愛運の悪さの原因ではないと確信出来ると、沙也子は思う。何しろこれまでの例では、そんな私生活の表情を見せる余裕もなく破局に至っているのだ。
「こんな穀潰しの弟がいることが、バレたのかも知れないね」
弟には腹立ち紛れに言い返したが、同じ理由でまずこれも無関係だろう。
そんな私生活とは裏腹に、担当支店の営業状況は順調だった。
逃走した万引き犯の件は、翌日に警察から連絡が入った。地上の商店街の防犯カメラにも映像が残っていて足どりを追うことが出来、逮捕に至ったという。
即刻礼も兼ねて、渡村に報告の電話を入れた。
「本当に、渡村様にはお世話になりました」
「いやあ、お役に立てて何よりです」
「私どもの方からもささやかですがお礼を差し上げたいのですが、一度お立ち寄りいただけないでしょうか」
「いえいえ、それには及びません」
固辞する相手と何度か言葉を往復して、その果てに、渡村はやや口調を改めた。
「いえ、その御言葉に甘えてというわけでもないのですが、お願いがあります」
「何でしょう」
「一度店長さんを、食事に招待させていただけないでしょうか」
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