4/29 AM:魑魅魍魎の雑言は女子高校生の悪態に一蹴される
ふわふわとしたものに包まれて、氷のように冷えた身体がじんわりと温まっていく。肌触りも良く、これはホテルとかで使われるお高い毛布に違いない。ふわふわとした夢見心地の中でそう思った花散は自身を包むものを抱き締める。
キュウと動物のような鳴き声が耳元で聞こえた。おかしいな、うちには犬も猫も何も飼っていないはずなのに。まだ夢の中に身を沈めたい花散は目を開けることをせず、ふわふわとした温かいものに顔を埋めながらも不思議に思う。
「貴様、ここをどこだと思っている! さっさと起きぬか!」
「いったあ! は、なになに、何事?」
「ようやく起きたか、この空け者め!」
「……は? マジで何、狐が喋ってるとかやばすぎじゃん。って、私が抱きしめてるのも毛布じゃなくて猫じゃん! ごめん、苦しかったでしょ」
痛みが花散の頭を襲う。飛び起きて何事だと周囲を見渡せば、花散を取り囲むように人が並んでいる。中でも目を引いたのは花散の頭を襲った痛みの原因であろう拳を握った狐だった。
そう、狐だ。着物に身を包み、二足歩行をした狐が拳を花散の頭に落としたのだ。よく見れば、自身を取り囲む人は人であらず。目の前の狐同様に二足歩行をする蛙や鳥、首の長い女に頭部に口を生やした女、その輪に不自然なくらい馴染んでいるおかっぱ頭の幼童などなど、などなど。
非現実的かつ不気味な光景に花散は高い声を低くして、動揺を露わにする。いつからか抱き締めていた柔らかいものを潰す勢いで腕に力を込める。そこでようやく自分が黒猫を抱き締めていることに気付き、花散は慌てて両腕の力を緩める。黒猫はするりと腕から抜け出し、花散の膝の上に座る。
「ここどこ?」
「ここは」
「つーか、私の頭を殴ったのあんた? 売られた喧嘩は買うけど」
人の話を聞かず、思い付くまま、好き勝手に喋る。質問しておいてその態度は誰だって苛立つ。声を荒げて、頭に拳を落とすことをした狐である。当然、花散の態度に腸が煮えくり返る思いで全身を震わせた。
もふもふの毛に包まれた可愛い生き物なのに随分と凶悪な顔だ。何に怒っているのだろうか。怒りたいのはこっちの方だと言うのに。花散は膝の上に座る黒猫の頭を撫でながら、その狐の態度に不愉快なのはこちらだと訴えるように眉間に皺を寄せて睨みつける。
「稲穂様、このような無礼な女に聞く話もする話もございません。即刻処分致しましょう」
「稲穂?」
「人間が気安く口にしていい名ではない!」
「なんか怒ってばかりで全然話が通じないんだけどー」
「稲穂様の手を煩わせるまでもない。私の手で処分してやろう」
「いやいや、処分とかまじで意味分かんないんだけど。狐なのに言葉を喋れるんだからそのまま会話しよ?」
「貴様とする会話なぞない」
どの口で会話をしようなんて言うのだ。それは花散の前で仁王立ちをする狐だけではなく、周囲を取り囲む者の大半が思ったことだった。だが、この数度のやり取りで花散と会話をすることは非常に面倒臭そうだと察した者たちはそれを口にしない。
縦長の瞳孔を開かせて、つり上がった目を更に吊り上げて、怒りに牙を剥こうとする姿にようやく花散は危ない状況に陥ってることに気付き後退する。
とはいえ、少し後退しただけで逃げ込める場所などなく、黒猫を腕の中に隠すように抱き締め直す。
「まあ、待て」
気怠げな声で退屈そうに制止をかける。その言葉に怒りに身を震わせていた狐だけではなく、ひそひそと花散に対して非難の声を上げていた者たちまで口を閉ざし、動きを止める。
これはまた随分と発言力のある人がいるんだなあと視線を声の主に向け、花散は息を呑む。
「人間。どのようにして此処に来た」
透明感のあるダークブロンドの髪。縦長でスリット状の瞳孔が印象的な琥珀色の目。気怠そうにしながらも崩れない洗練された雰囲気。国民的アイドルも人気雑誌の看板モデルも世間を賑わす俳優も、どんな芸能人とも比べ物にならない整った顔立ちをした男に花散は釘付けとなった。
しかし、狐山高等学校初の留年生になろうとした残念な花散の頭にはその美しい男を適切に表現する言葉がなかった。出てくるのはありふれた、安っぽい言葉のみ。
「うわ、絶世のイケメン」
「この状況でそのようなことを言えるのか」
「状況、ねえ。だってこれ、私がどういう反応をしようと変わんないでしょ」
「それもそうだな」
「それに、どのようにしてここにって言われてもさあ。そもそもここどこって感じだし」
「ああ、それなら俺が説明してやろう」
「稲穂様自らが人間のためにそのようなことせずとも!」
一段高い場所から胡坐をかき、退屈そうに頬杖をついて花散を見下ろしていた男は聞き慣れない言葉に僅かに目を丸める。それから、黒猫に同意を求めるように話しかける花散の姿を見て、くつくつと喉を鳴らして笑い始める。
どれだけ見た目がよくても、上から目線で話し、突然笑い出すとか普通に引くなあ。花散はそう思いながら、改めて周囲を見渡す。ゲテモノと言ってよいのか、異形と言うべきなのか。恐ろしい顔並びが、豪奢な和室に不釣り合いで不気味に映った。
しかし、花散に向ける視線が、ひそひそと小声でされる話が、どうにも身に覚えのある類のもので、花散がこの場に恐怖心を覚えることは難しかった。
「ここは貴様ら人間が住まう世界とは別の世界だ。人ならざる存在が生きる場と言えば分かるな?」
「猫とか狐とかが住むアニマル王国的な? いや、でも私の見間違いじゃなきゃ佐鳥さんや乙女さんいたし、あんたも人じゃん。飼育員みたいなやつ?」
「貴様、なんて無礼なことを!」
「っ、たあ……ちょっと、何すんのよ!」
「あろうことか稲穂様を人と称するとは……その喉笛食い千切ってやる!」
「何この凶暴な狐!」
なるほど、新手の動物園か。そう納得し、次に浮かんだ疑問を口にすれば二足歩行をする狐に背中を殴られる。もふもふの手にしては強烈な一撃。痛みに悲鳴を上げた花散は二度目の暴力は見逃さないと怒る。ぐるぐると喉を鳴らし、牙を剥く狐に対して口を閉ざすように細長い鼻先から口周りを片手で押さえる。
まるで子犬にマズルコントロールを行うような扱いに当然狐は怒り狂う。やばい、逆効果だったかと慌てて手を離した花散に狐は今度こそと喉笛に噛みつこうとする。しかし、男が腹を抱え、笑い転げながら制止の声をかける。
「止めろ」
「しかし!」
「女はこれくらい気が強い方が丁度いい」
「稲穂様、それは……」
「稲穂、稲穂、どこかで聞いたような」
聞き覚えのある名前。さて、どこで聞いたのか。黒猫を抱き直し、ふわふわの柔らかい身体に顔を埋めながら記憶を遡る。数十秒後、そういえば意識を失う直前にその名前を聞いたことを思い出す。
なるほど、この男が二人の言っていた稲穂様か。上から目線の発言は偉い立場だからなのか。それを抜きにしても俺様っぽいけど。断片的に記憶している情報を目の前の男に一致させながら納得する。
まじまじと、不躾に稲穂を観察していると隣の狐が咳払いをして花散を睨みつける。これ以上煽るのはやめておこう。ようやく機能した危機察知能力に従い、花散は姿勢を正して稲穂の話を聞こうとする。
「人ならざる存在を貴様らの言葉で表すならば神や妖怪といったものだ」
「神や妖怪」
「まあ、信じられないのも無理はない。人間は便利さを求めて科学を発展させ、信仰心を失っているのだからな。今や、我々を認識する者の方が少ない」
「…………で、その神や妖怪が住む世界から元の世界に帰るにはどうすればいいの?」
「何、簡単なことだ。十日後には帰れる」
「は?」
「逆に言えば、十日間は此処で過ごしてもらう必要があるがな」
唐突にぶっ込まれる話に花散は目が点になる。直後、理解せずとも目の前のことから目を逸らさなければ大概何とかなるだろうと早々に話を理解することを諦めた。
それよりも聞き逃せないのはここから帰るには十日間過ごさなければならないという話である。それはすなわち、ゴールデンウィークをまるまる費やすということ。それは受け入れられないと花散は声を上げて立ち上がる。
「それは無理。私はすぐにでも帰りたい。十日間とかゴールデンウィークがまるっとなくなるじゃん!」
「その期間、此処と彼処を繋ぐ扉を閉めているからな」
「じゃあ、開けて」
「断る」
「断るな」
人間の分際でなんて失礼な。女性があのように声を荒らげるなとはしたない。品の欠片のない身なりの通り中身も野蛮に違いない。などなど、花散を非難する声が大きくなる。
その声に肩をぴくりと震わせ、周囲に目を向ける様子に稲穂は目を細める。なかなかどうして愉快な女だと思っていたが、ここまでだろうか。小さく溜め息を吐き、周囲を黙らせようと唇を動かそうとする。
「うっせえ、外野は黙っとけ」
だが、稲穂が音を発するよりも早く、花散は周囲を鋭く睨みつける。それに合わせて、彼女の腕に抱かれている黒猫も威嚇するように鳴き声を上げる。
花散を連れてきた二人の話では彼女はオカルト的存在とは無縁な女だと言う。故に、二人は申し出た。花散が起きた際に現代社会では御伽噺の存在とされている生き物を目にしたら煩くなると。稲穂は興味無さげに聞き流していたが、側仕えの狐こと米吉は何事も最初が肝心だと張り切って準備をしていた。あのときの二人の表情を思い出し、稲穂はなるほどと得心が行った。
煩いことになるというのは恐怖心で悲鳴を上げるといったものではなく、人間への態度に対して怒るということだったのか。第一印象から気が強いと思ってはいたが、本当に愉快だ。稲穂は口を緩め、高座から身を乗り出す。
「お話中、失礼致します」
花散の発言により米吉を筆頭とした者たちと一触即発の空気が流れ始めたそのとき、四季草花図が描かれた襖が開き、凛とした声が広間に響いた。室内にいた者の視線が全て声の主の方へ向く。
視線を一身に浴びた声の主、
「佐鳥さんってデカ目効果いらずの黒目な印象だったけど、そのカラコン超似合うね。金色が似合うとかやばい」
「…………稲穂様にご報告があり、参りました」
「ガン無視するじゃん」
「たった今、彼女が持ち込んだ荷物の全てを確認致しました」
「鞄見当たらないなあと思ったら漁られてたとか笑えるんだけど」
この後に及んで容姿を褒めるなんて余裕というより、危機感のない馬鹿なのか。そう言いたげな顔をし、再度溜め息を吐いた佐鳥は花散を無視して稲穂に身体を向ける。
それでもなお、花散は佐鳥の発言に口を挟むあたり随分図太い女だ。稲穂は佐鳥の言葉に耳を傾けながら、興味深げに花散を眺めた。
「此方側に来る直前まで他の者と連絡をとっていたようです。内容を確認したところ、さくら様の後をつけるといったものでした」
「荷物どころかスマホまで漁るとかやーらしぃ」
「頭が痛くなる話。現代社会において彼女のような者ほど発言力が強く、また連絡相手も人脈が広い者です。この者の身に何かあればさくら様に不利益が出ることが考えられます。幸いなことにこの者の頭は可哀想なくらい出来が悪いです。此度の事を言語化することもできないでしょうし、体裁を気にする一面があるため言いふらすこともしないでしょう」
「無視する上にめちゃくちゃにディスるじゃん。佐鳥さんって私みたいなの嫌いだろうなあとは思ってたけど、私みたいなのじゃなくて私のことをめっちゃ嫌ってるね」
「……以上のことから、この女には手を下すまでもなく放置するが良いかと」
「いたたた。痛い、ね、ちょ、これめっちゃ痛い! もげる!」
「もげない」
佐鳥は花散の反応に無視を決め込むつもりだった。最初に一瞥し、溜め息を吐いて以降は視線を向けるつもりもなかったが、花散は佐鳥の想定を上回る鬱陶しさで絡んできた。よく通る花散の声は頭に響き、佐鳥は眉間に皺を寄せて顳顬を押さえる。そして、我慢をならず花散を黙らせるようにコーラルピンクの粉が落ちつつある頬を抓る。恨み辛みを込めて爪を立てるようにし、手加減のない抓り方だった。
悲鳴を上げた花散は抓ることを止めない佐鳥の手を叩き、制止を呼びかける。涙目になりながら、それはもう必死に。だが、積もり積もったものを晴らすのにいい機会だと佐鳥は花散の頬が赤く染まっていくのを眺めながら抓り続ける。
一見、女子高校生の賑やかなじゃれあいとも言えるやりとりだが、その光景に周囲はどよめく。
「雪芽よりも先に心が口を挟むとは思ってもいなかったな」
「…………口を開いても閉じても騒がしい女を早く黙らせたいだけです」
どよめきの中、稲穂は喉を鳴らして笑い、佐鳥にとって不名誉極まりないことを口にする。
雪芽よりも私の方が庇いたがっているみたいなことを言うのを止めてほしい。無礼を承知で言いかけた言葉を呑み込み、稲穂の認識を訂正しようとする。
どよめきの中で、あのサトリが人間と関わりをもっている。それどころかじゃれるように絡んでいる。などという更に不名誉極まりないことが聞こえてきたため、こんなことで仲良しにみられてたまるかと吐き捨てるように花散の頬を手放す。
直後、佐鳥は後悔した。
「ねえ。さっきから言ってるさくら様ってぼっちちゃんのこと?」
花散の頬から手を放し、自由に口が利ける状態にしたことを酷く後悔した。
それまで稲穂へ対する花散の態度を見て怒っていた者も、佐鳥と花散のやりとりを見て困惑していた者も、見慣れない人間に関心を抱いた者も、揃って口を閉ざし、顔を伏せる。場が突然静まり返ったことも気にせず、花散はさくら様ってまた偉いあだ名がついているんだなやら、名前がソメイヨシノだから桜なのかなやら、一人で頷きながら納得をする。
騒いでいた者たちが静止したどころか空気が凍ったというのに気にせずに話し続けられるのは図太いからなのか、救いようのない馬鹿なのか。どちらもありえるから質が悪い。佐鳥は恐る恐る稲穂の様子を窺い、更に後悔した。
「米吉。ぼっちとはなんだ」
「交友関係がなく、孤立している者に向けられる蔑称でございます」
「ほう」
「稲穂様。この様な派手な身なりをした人間の女は自分より下だと認識した者にこのような蔑称をつけ、集団で虐遇する傾向にあります。付け加えますと、さくら様のように物静かで控えめな装いをされている方は特に標的になりやすいとお聞きしております」
「つまり、人間の女ごときが我が妻を格下と認識して虐げていると」
それまで稲穂の目を色づけていた好奇はすっかり消え失せ、酷く冷めていた。視線で人を殺すことができるのであれば、花散は今この瞬間に命を落としていたことだろう。稲穂が花散に警戒心と敵意を向けたことで、静止していた者たちはここぞとばかりに声を上げる。
「さくら様を見下すとはなんて身の程知らずな女だ」
「これだから人間は嫌なんだ。ああ、汚らわしい」
「こんな女がうろつくなんて不愉快だ。せめて自由を奪うべきではないか」
などなど、などなど。中には古風な言い回しで花散の頭では理解できないものもあったが、視線や声色から自分に対する罵詈雑言であることは察せた。花散にとってこの類のものは身に覚えのある、慣れたものだった。
これは失言だったかあ。それにしても随分と嫌われている、もういっそ全員アンチの勢いじゃん。超ウケるんだけど。腕に二股の尻尾を巻き付けて頭を擦りつけてくる黒猫の頭を優しい手つきで撫でながら、教室の黒板に卒業式までのカウントダウンを書き始めた中学時代の会話を思い出す。
「人は見た目が九割らしいよ。ちなみにこれ、容姿の話じゃなくて相手への影響は声色とボディーランゲージで九割が決まるよって話から人は見た目が九割って言葉が独り歩きして容姿のことを示しているって思う人が多いんだって」
「なるほど。だから私と海遊が同じことを言っても説得力が違うんだ」
「まあ、それを抜きにしてもしのぶは言葉の選び方が悪いよ。虐めっ子は卒業したんでしょ。ならもう少し柔らかい言い方を覚えなよ」
「気に入らないものに気遣えるほど優しくありませーん」
「そうじゃなくてさあ」
嫌悪感で色づけた視線を向けられることも、悪い意味でひそひそ話の主役になることも、冤罪で脚色された噂話の悪者になることも、クラス替えで一定数の生徒から同じクラスになったことを嫌がれることも、花散は慣れていた。
染髪、カラコン、メイク、スカート丈、指定外のカーディガンやコートなど上げだしたらきりのない校則違反のオンパレード。授業中に居眠りどころか出席日数を計算しながら授業をサボる、教室の中心で大きな声を上げて笑う、クラスの話し合いでは発言力が強い、スクールカースト上位、学校外で連む顔ぶれはいかにもやんちゃしてそうな男女。つまり、花散は素行が悪かった。自分の好きを貫くために着飾っている身なりも相まって、規則正しく誠実に生きる人からは評判が悪い。
それを花散は聞き流し、受け入れている。なぜなら、玉緒と出会うまでの間は地味で暗くて自己主張もしない、教室の隅にいるようなタイプを見下し、虐めに加担していたのは事実だから。玉緒に声をかけられて以降、自覚的に虐めを行うことはしないように心掛けていても、好き嫌いがはっきりしていて態度に出やすく、言葉選びが悪いことからそう思われても仕方がないと思っているから。
「素直な反応は時として人を傷つけるし、誰もがそれを伝えられるわけではないということ。悪意の有無なんて傷つけられた側には関係無いんだよ」
その日、いつもにも増して空気が乾燥していて、教室は鮮やかな夕日に照らされていた。アッシュゴールドに染められた髪がきらきらと輝いていて、その眩しさに目を細めたことをよく覚えている。
花散はそういうものなのかなあなどと気の抜けた返事をしながら、カウントダウンの数字を書き変えることに集中していた。張り切りすぎて、真新しいチョークがポキリと半分に割れたあたりでこの会話は終わった。
「傷つけられた相手を大切に思ってたら、そりゃあ怒るよねぇ」
朱道が口煩くしている人の呼び方やかける言葉への注意も、あの日玉緒からされた忠告と同じようなものなんだろうと今更ながらに理解する。もっとも、朱道は言われた側が傷つくことを、玉緒は花散が無駄に敵を作ることを、それぞれ心配する対象が異なっているが。
自分の発言が招いたことなら仕方がないと、しばらくの間は腕の中で寛ぐ黒猫を愛でながら聞き流していたが、花散は基本的に短気な性格をしている。ねちねちねちねちくどくどくどくど、していないことまで言われ続けたら我慢できるのもせいぜい五分くらいのこと。
ここに玉緒や朱道がいれば悪気がないとはいえ、先に失言したのは花散の方だと言うのに早々に逆切れするなんて! と、頭を抱えて叫び声を上げていただろう。似たようなことを考えていた佐鳥は四季草花図が描かれた襖から中の様子を覗き見ながら待機している乙女を恨めしそうに睨んだ。
「……うっざいなあ」
一度屈んで黒猫を畳の上に降ろす。髪を結わえていたはずのお気に入りの白色のシュシュはどこかで落としていたようで、屈んだ際にオレンジブラウンの長い髪が顔を隠すように垂れる。
どんなに強い言葉を扱おうと、所詮は人間。四面楚歌なこの状況に陥れば涙の一つや二つ流すに決まっている。表情は隠れているが、小さく震えている花散の肩を見て誰もがそう思った。
同じ高校に通い、接点はなく直接的な関わりをもっていないのに花散を毛嫌いしている佐鳥とやけに花散に懐いている黒猫を除いて。
「黙って聞いてあげたら、好き勝手言いやがって」
ゆらりと立ち上がり、顔を隠す長い髪を掻き上げる。黒いアイラインが滲んだ目を吊り上げ、ぐるりと見渡す。この場にいる誰もが自分に対して敵意を抱いていることが分かった。大半が人間とは異なる姿をしており、花散にとって得体の知れない存在である。
しかし、花散は得体の知れない存在だからといって臆することをしない。というより、花散にとって未知への恐怖よりも似たようなことを何度も言われ続ける腹立たしさの方が勝った。
「人間。人間。人間。それに派手な身なりをした人間の女! あんたたちの方がよっぽど人を偏った見方をして差別してるじゃん。私、高校に入ってからは誰かを虐めたことはない!」
ダンッと力強く畳を踏み、一人一人に指を差す。そして、吠える。花散の言い分に何か言い返そうとするならばドスの利いた声を上げて睨みつける。言い終えた頃には肩で息をしていた。
そんな花散を冷ややかな目で見ていた佐鳥はぼそりと、その言い方だと中学まではしていたことになるということを指摘する。その呟きは花散の耳に届かず、この場でそれ以上掘り下げられることはない。
「これ以上の文句はぼっちちゃん本人しか受け付けないから」
見事な逆ギレに誰もが呆気に取られていた。なんとも言えない空気の中、言いたいことを言い終えた花散は仁王立ちをし、ふんっと鼻を鳴らす。
数秒、数十秒。長く感じるようで実際は短い沈黙が続く。最初に誰が口を開くか、周囲の者はお互いに目配せをする。このやりとりで大半の者はこう認識したのだ。この女と関わるとろくな目に遭わない、と。
沈黙を重く感じ始めた頃、ついに沈黙が破られた。それは先程まで佐鳥が睨んでいた襖越しから聞こえてくる、ぷひゃっと吹き出された間抜けな声。堪えようとしながら、全く堪えられていない笑い声を合図に稲穂は高笑いをする。
「この期に及んでその威勢か」
一通り笑い終えたゆったりとした動作で立ち上がり、高座から降りる。どこか気怠そうな動きにも関わらず、一つ一つの仕草に品を感じられるその様をぼんやりと眺めている花散の前に稲穂は立つ。
頭一つ分高い稲穂を見上げた花散は遠目で見てもイケメンだと思ったが、間近で見ると更にやばい。などといったことを考えていると、その考えはお見通しとでも言うように稲穂は愉快そうに琥珀色の目を細める。
それは甘い甘い微笑みだった。恋に恋する花の女子高校生であれば、その微笑みを向けられたまま男らしく大きくてごつごつとした手を頬に添えられ、するりと輪郭をなぞるよう滑らせて顎を掴まれればときめきを覚えるのも当然のこと。
「貴様、愉快な女だな」
花散しのぶも恋に恋する花の女子高校生である。友達とカフェに寄って恋バナをすることが好きで、二言目には彼氏が欲しいと言うタイプである。いくら気が強くても未知の世界に対して心を躍らせられる程、肝は据わっておらず。どこでもどのような状況でも楽しめる程、感性が豊かというわけでもない。だからといって、四面楚歌な状況であろうと、気に入らないことがあったらそれを心の内に留められるほど大人しい性格でもない。
つまりこれは花散にとって優先度が高いものは何かという話である。未知への警戒か、酷く冷めた視線を向けられたことへの恐怖か、それとも初対面の男に無遠慮に触れられることへの苛立ちか。
「面白い女発言とか俺様態度とかありえないから」
顎を掴む手を叩き落とし、唾を吐く。唾を吐くのはさすがに女子高校生としていかがなものかと思いとどまり、実際にしたのは唾を吐く真似であるが、十分すぎる程無礼な態度である。
散々怒っていた米吉と呼ばれる狐はついに煌めく稲のような黄金の毛を逆立てる。しかし、米吉が次の行動をするよりも早く、黒猫が爪をたてて米吉の顔に飛びかかる。
「愉快な女」
狐と猫が争いを始める中、稲穂は呟く。その呼び方が気に入らない花散は掠れた茶色の眉を顰める。
発言も態度もどこまでも上から目線なのは実際に偉い立場であるから。それ故に、稲穂にとって花散の反応はとても新鮮で愉快なものであった。染井に対する発言に引っ掛かりを覚えることはあれど、それとこれは別だと気に入った。稲穂に気に入られることが花散にとって幸か不幸かは現時点では判断することができないが、ひとまず命拾いをしたと佐鳥は考える。
「一生に一度しかない経験だ。心ゆくまで楽しむことを許してやろう」
「楽しむことに誰かの許可なんていらないでしょう」
あんた一体何様よ。そう付け加えてから、べえっと舌を出して反抗する花散の態度に貴様こそ何様のつもりだと黒猫と取っ組み合いしていた米吉が怒鳴ったのは言うまでもない。
〇●〇●〇
稲穂から滞在の許可を得たところで、これ以上ややこしい事態にしてたまるかと佐鳥は花散の首根っこを引っ掴み、その場を後にした。まだ文句が言い足りない、というより納得していないと騒ぎ続ける花散の口は米吉と取っ組み合う黒猫の身体で覆って閉ざすという力業を使った。
そうして花散が案内されたのは先程の部屋と比べれば煌びやかさが減るが、それでも品の良さは損なわれることのない一室だった。佐鳥は部屋の中に花散を放り込み、花散がこれ以上のトラブルを起こさないようにと忠告をするつもりだった。
だったのだが、面倒事を佐鳥に押し付けるようにあの場に入ってこず、襖越しに待機していた
「雪芽、煩い」
「だって、だって……っ、あそこで普通逆ギレする? しないでしょ、なのに、ひひ、ふくく」
「頭おかしいんでしょ」
「それにしてもあれは、ぷふふ」
笑いを堪えることができず、沈黙を破るように吹き出していたくせにまだ笑うのか。未だに腹を抱えて畳に転げる乙女に冷ややかな目を向け、佐鳥は溜め息を吐く。そして、嫌々ながら花散に視線を移す。
畳に笑い転げる乙女もいかがなものかと思うが、怒りを抑えることができず畳の上で地団駄を踏んでいる花散もどうなのだと、女子高校生の振る舞いとしては少々はしたない感情表現豊かな二人に佐鳥は頭を痛め始める。
「なんなのよあの男、何様のつもりよ!」
「何様も何も神様よ」
「はあ?」
「此方側の世界に来たってことは鳥居潜ってきたのでしょう。なら見ているはずよ」
「見ているって……見るからにやばそうな廃神社?」
「そう、あそこの神様。とはいえ、人間からの信仰が離れてしまって神社の機能を失っているから、神様というよりここら一帯の長という方が正しい表現ね」
「え、じゃあ、ここが神や妖怪が住む世界とかなんとかってやつ、俺様男の妄想話じゃないの?」
あれだけ人間とは言い難い異形の容姿をした者たちを見ておいて、妄想話だと片付けようとしていたのか。そこから説明しないといけないのか。指摘したい点が多く、佐鳥は気が遠くなる。
花散はといえば、怒りに賛同するように鳴き声をあげる黒猫にあんなのコスプレでどうとでもなるじゃん。コスプレ趣味のある俺様男の痛い妄想話だよねと呑気に話しかけていた。
その二人と一匹のやりとりに、今なら箸が転がるだけでおかしいと笑うことができる乙女はひいひいと目に涙を浮かべながら、そろそろ限界だと怒り狂いそうな佐鳥のフォローに入る。
「わたしはね、雪女なの」
「え、まじ? 乙女さん、超有名人じゃん」
「でしょでしょー」
「じゃあ、急に身体に力が入らなくなったのは」
「体温奪っちゃった。ごめんね」
「やっば! 雪女に体温奪われるとか激レア体験じゃない?」
「あ、そういう反応になるんだ」
フォローといっても簡単に自己紹介をするだけ。とはいえ、去年までクラスが同じだったので名前から始めるものではなく、自身の種族を明かす自己紹介。さて、どういう反応をするかと様子を窺えば、花散は乙女にやられた行為をレアな体験だと騒ぎ始める。
先程までのやりとりを痛い男の妄想話として片付けようとしていたから、乙女もすんなりと信じてもらえることはできず疑いの眼差しを向けられるつもりでいた。というのに、稲穂に対する反応とは全く違うものだったので、拍子抜けする。
そんな乙女の心情など花散は露知らず、それじゃあと好奇心に染まった目を佐鳥に向ける。佐鳥は隠すことなく嫌そうな顔をし、食い気味に答える。
「佐鳥さんも雪おん」
「違う」
「じゃあ、何」
「言いたくない」
「なんで」
「言う必要ないでしょう」
「私が気になる」
「あんたの好奇心を私が満たしてあげる義理はない」
ゴールデンイエローの目には嫌悪感が宿っていた。これはもう救いようがないくらい嫌われてるんだけどと花散は声に出して笑いながら、その場に胡坐をかいて座る。
ようやく落ち着いて話を聞く姿勢を取り始めた花散に向かい合うように乙女は正座をし、こほんと咳払いを一つし、本題に入る。
「それでね、さくら様ことよしのんは稲穂様のお嫁様なの」
「嫁」
「そう、お嫁様」
「ぼっちちゃんが俺様男の嫁」
「……そう。さくら様は稲穂様の奥方。つまり、偉い人。あんた、その振る舞いを直さないと不敬罪で殺されるわよ」
壁にもたれかかり、一通りの話が終えるまでは見守る姿勢であった佐鳥が口を挟む。なんだかんだで忠告を入れるのだから心ちゃんは優しいなあと頬を緩める乙女であったが、佐鳥にすかさず鋭く睨みつけられた両手を挙げて苦笑いを浮かべる。
そのやりとりに花散は首を傾げる。そしてすぐに、自分にとっての問題はそこじゃないことを思い出し、花散にとっての本題を口にする。
「で、帰るにはどうしたらいいの」
「稲穂様が言った通り、ここで十日間過ごせばいいんだよ」
「なんで十日間なのよ。ゴールデンウィーク終わっちゃうじゃん」
「あー、えっと、それは、んーっと」
乙女は腕を組み、ゆらゆらと左右に身体を揺らしながら唸り声を上げる。肩口で切り揃えられたスノーホワイトの髪が身体に合わせて揺れる度、さっぱりとした甘い香りが花散の鼻腔をくすぐる。
意識を手放す前に嗅いだ香りに気を取られた花散は一秒でも早く帰りたいと急いた気持ちから前のめりになっていた姿勢を落ち着かせる。
その間も乙女は説明に悩む。助けを求めるように佐鳥に目を向ければ、佐鳥は深い溜め息を吐いて一言添える。
「稲穂様とさくら様は蜜月の時なのよ」
「みつげつのとき?」
「簡単な言葉で言うと新婚さんってことだよ。現代日本だと女の子の婚姻は十六歳からだよね」
「つまり去年」
「そう、去年。でも、さくら様は学生だから通い妻状態でなかなか此方に来れないんだあ」
「…………待て待て。それってつまり、新婚さんだけどなかなか一緒にいられないから長期休暇中はこの世界に監禁してるってこと?」
オブラートに包むことなく直球で言われたことに佐鳥も乙女も言葉を詰まらせ、目を逸らす。
言ってしまえばそういうことである。同意の上だと説明に付け加えたとしても、花散の性格上、更に厳しい一言を口にするだけだと考え、二人は口を閉ざす。
それが全てを物語っており、花散はコーラルピンクの粉の名残がある頬を引き攣らせる。
「そういうことだから今年のゴールデンウィークは諦めることね」
「いやいや、そういう話じゃなくない?!」
「そういう話なのよ。五体満足で帰りたければ余計なことを言わず、大人しくしていることね」
自分からの話は以上だと宣言するように、佐鳥は花散から背を向けて足早に部屋から出ていく。眉間に皺を寄せた横顔は何やらしんどそうで、もしかして体調が悪かったのかなと乙女に視線を向ける。その視線に気付いた乙女はにっこりと愛嬌のある笑みを浮かべるのみ。
なるほど、それ以上触れるなということね。これでも一応空気は読める方だからね。空気を読んで気を遣うとは言っていないけどと返すように花散は頷き、胡坐の上で寛ぎ始める黒猫を撫でる。
「はい、これ花散さんの荷物。ごめんね、中身確認するためにいろいろ触っちゃった」
「あー、メッセ見たとか言ってたもんね」
「うん。確認してたらバッテリー切れちゃった」
「どうせ圏外なんでしょ。ならどーでもいー」
緩いデザインで作られた恐竜のマスコットをぶら下げた鞄を受け取った花散が真っ先に出したのはコスメポーチであった。コンパクトミラーで顔を確認し、小さな悲鳴を上げる。
一連の流れに乙女はそりゃそうだよね。わたしだったら大きな声で悲鳴を上げるよと頷きながら、必要になるだろうと予想して準備していたメイク落としシートとスキンケアセットのサンプルを差し出す。
乙女の心遣いに神かと声を上げた花散は差し出されたものを受け取り、いっそのこと全部落ちていた方がましだと思うような残り方をしているメイクを落とし始める。
「映えるって言いながらあれこれ写真撮ると思ってた」
「映える写真撮っても、どうせSNSにはあげるなとか言うんでしょ。それにこんなこと言いふらしても誰も信じないし、頭おかしいと思われるじゃん」
「自分が混ざっているグループに評価されないなら意味ない?」
「評価っていうか、話のネタにできないなら意味がない。バズることにも興味ないし」
中途半端に残ったメイクを丁寧に落とし、サンプル用の化粧水を手の平で温める。使ったことのないブランドだけど、良い香りのする化粧水だなあと考えながら肌に染み込ませていく。
肌を労るようにスキンケアをする花散を観察しながら、乙女は問う。
「話のネタになるイコールバズるネタは違うの?」
「難しいことは分かんないし、人それぞれじゃない? 私的にはこれ美味しかったーとか、めっちゃウケるんだけどーとか、そういうのを仲良い子たちと共有してわいわいしたい感じ」
「花散さん可愛いーとかすごーいとか、そういうことはいらないってこと?」
「私の評価は私が決めるし、私の機嫌は私がとる」
美容液と乳液を使い終えたところで花散は乙女に目を向ける。カラコンいらずのふんわりとした淡褐色の目にはそれが当然でしょう? とでも言いたげである。
なるほどなるほどと二度頷いた乙女はでも、と首を傾げる。
「頭おかしいとかは思われたくないのでしょう?」
「それとこれは話が別。好き勝手してる分、他人からの印象は良くないからね。ただでさえ低い信頼を失いたくない」
「だったらもうちょっと言葉をオブラートに包んだ方がいいんじゃないかなあ。花散さん、余計な一言や言葉選びで損してると思う」
「よく言われるけど、それは嫌。なんで私が言いたいことを我慢しないといけないわけ?」
「うわ。すっごいわがままー」
「……まあ、ぼっちちゃんって呼んだのは悪かったなあと思ってるけど。朱道にも怒られてたし」
リップを拭ってもなおオレンジみを帯びた血色の良い唇を尖らせる。叱られた子どものように不貞腐れる花散に乙女はきっと悪意はないんだろうなあと苦笑いを浮かべる。
悪意がないからといって全てが許されるわけではない。むしろ、悪意がないからこそ厄介なことがある。だからこそ、叱りつける存在がいるというのは大きいもので、花散は教室で合いの手のごとく注意してきた朱道の存在を思い出す。そして、事実から言ったものだけど、本人が不愉快だと言うなら謝らないとなあとぼんやり考える。
「あ、そうだ。乙女さんたちのスマホも圏外なの?」
「ううん。わたしたちのは別。此処に住みながら彼処の学校に通ってるからね。やっぱり連絡手段ないのは不便だし、今時スマホなしじゃ話題に困る」
「ならよかった。海遊と仲良かったよね? 連絡先とか知ってたらスマホ貸してほしいんだけど。あと、さすがに無断で十日間も帰らないのはまずいから親にも連絡したいんだけど」
「いい、けど……」
「他人にスマホ触られるの嫌な感じ? なら無理しなくても」
「あ、ううん。家族に連絡することは大切だし、ここのこと言わないならそれは構わないの。ただ、わたしが海遊ちゃんと親しいの知ってるんだなあって」
「乙女さんのその髪と目って染めたりしてないでしょ。だからついつい目が行くんだよね」
「えっ、あ、うん……まあ、そうだよねえ」
スノーホワイトの柔らかい髪。雪に縁取られたようなふわふわの長い睫毛に縁取られたアイスブルーの目。日に晒したことがないような白い肌。乙女の容姿は日本人離れをした色合いであり、異質である。そんな容姿をしている乙女の苦労は語るまでもない。
花散に目が行く容姿と指摘された乙女はそれまで軽快に言葉を発していた唇の動きを鈍らせる。その乙女の反応を花散は気にせず、正座で背筋を伸ばして告げる。
「顔が天才、まじやばい」
「…………顔が天才?」
稲穂と言葉を交わしているときよりも、乙女と佐鳥から現状の説明を受けているときも、ここまで真剣な面持ちをしていなかった。加えて、わざわざ姿勢を正してまで告げられた言葉に乙女は瞬きを繰り返す。理解するまでに少しばかり時間を要し、言葉の意味を理解できても花散の意図は分からず、こてんと小首を傾げる。
頭の動きに合わせてふわふわと揺れる柔らかい髪を目で追いながら、花散は付け加える。
「ビジュ最強」
「うん。……うん?」
「だって雪みたいに真っ白な髪に青い目だよ。それが違和感なく、うっわ可愛いなって。この色が似合うとか顔が最強の天才以外なくない?」
「そんな褒められ方は初めてだなあ」
「は、まじで?」
これ以外の褒め言葉を見つけられる人も強すぎでしょう。そう、乙女の容姿は称えられて当然なものと疑わない花散は力説を続ける。
惜しみない賞賛の数々に乙女は次第に白い頬を赤く染めていく。狼狽える姿を見るなり、花散は追い打ちをかけるように容姿以外の褒め言葉を並べようとする。
これはもう耐えられないと声を上げた乙女は急いで自分のスマホを取り出し、話題に上がった玉緒に電話をかける。
「はい! 海遊ちゃんに繋がったよ、早くお電話して!」
「まだ喋り足りないのに」
「もういいから!」
「照れ屋さんだなあ。あ、もしもし、海遊? あのさ、ちょっといろいろあって家に帰れてなくてさ。パパとママには海遊と遊びたいから帰らないって言いたいから話合わせてもらっていい? うん、十日くらい。大丈夫大丈夫、危ないことはしてない……こともない気がするけど、大丈夫でしょ。そうそう、乙女さんと一緒。えー、なんか成り行きでって感じ。私も上手く説明できなくてさー。あはは、そんな感じ。うん、じゃあよろしくー」
大きな口を開けてけらけら笑いながら玉緒と話しをする花散をじっと見つめていた黒猫はにゃあとひと鳴きして膝の上から降りる。ぐるりと辺りを見渡してからファスナーが開きかけているコスメポーチに目を付ける。
暇を潰すようにぷるぷるの肉球をコスメポーチに押し付け、ぽてんと横に倒す。その際にコスメポーチの中身が奏でるじゃらりという音が気に入ったのか、その動作を何度も繰り返す。数度目で開きかけのファスナーからリップグロスが飛び出てくる。照明を反射させたオレンジレッドのリップグロスはきらきらと輝いているように見えて黒猫は関心を抱いたのだろう。可愛らしい鳴き声を上げ、両手で挟んで遊び始める。
花散のリップグロスで遊び始めた黒猫を乙女は止めようと手を伸ばすが、玉緒との電話を終えて自宅に電話をかけていた花散が制止する。花散の行動を意外に思った乙女は目を丸めて、いいの? と尋ねるように首を傾げる。それに答えるように花散は親指と人差し指で丸を作り、頷く。
「遊んでもいいけど、口に入れるのはダメだからね」
「遊ぶこと自体は止めないんだ」
「きらきらして綺麗な物は猫も好きってことでしょ? それを止めることは私にはできないなあ。あ、電話ありがと」
「……花散さんってさあ」
「うん?」
「思っていたよりも素直というか、いい子というか、うーんっと」
「想像していたよりも悪い子じゃない、でしょう」
「そう、それ!」
「全力で肯定してくれるけど、どっちみちめっちゃ失礼だからね」
「あっ」
乙女の容姿に触れた発言。両親が心配しないようにとかけた電話。黒猫への態度。スキンケアのサンプルのゴミを鞄の中に入れてあった三角折りをしたレジ袋に片付ける行為。その他諸々。
乙女が頭の中で描いていた花散しのぶの像よりもずっとまともであった。
「てか、このくらいで見直されるとか私の印象悪すぎない? 去年クラス一緒だったじゃん」
「ポイ捨てとかしそうと思ってた」
「さすがにしないよ。自分がポイ捨てしたものを散歩中の犬とか猫が食べてお腹壊したら最悪じゃん」
「ルールとか知らないし。自分が良ければ全てよし! みたいなイメージだし」
「それ、本人を前にして言っちゃう? まあ、否定しないけど。校則違反常習犯だしね。好き勝手してる分、私を嫌う人にあることないことあること大袈裟に言って悪い噂も多いのも知ってるし」
「自覚してるんだ……」
「我慢してお利口さんにしててもストレス溜まるだけだし、肌に悪いじゃん。ある程度は仕方がないかーと思って自由にしてるよ」
「……でも、心ちゃんが言った通りここではそういうことを控えた方がいいよ」
頭の中で描いていた花散しのぶの像と異なっていたからこそ、乙女は改めて釘を刺すことにした。
佐鳥にも言われた言葉を乙女にも言われたことで、花散はその忠告が自分を大人しくさせたい佐鳥の脅しだと考えていたが、そうではないことを察する。
確かに、あの場にいた狐は気性が荒そうだったなあ。黒猫がいなかったら私は怪我をしていただろうなあ。腕を組み、うーんと唸りながら思い返す。
思い返し、考え込む。熟考とは無縁の花散が珍しく長考する。とはいえ、花散にとっての長考であり、実際には数分にも満たないくらい短い時間である。
顔を上げ、ぱちんと音を鳴らして両手を叩いた花散はにんまり笑う。それは悪戯を企てる悪ガキのような笑顔で、乙女は嫌な予感がすると頬を引き攣らせる。
「ならいっそ余計なことをしまくってやろう」
「えっ」
「乙女さん、ここを案内してよ。ついでに乙女さんの友達とか紹介ほしいなー」
「ええええ」
「だって、私が何を言っても十日間はここから出られないんでしょ。だからって何もせず、ぼっちで十日も過ごすとか絶対無理だから」
「で、でも、大人しくしていた方が安全だよ。花散さん、地雷の上をスキップする勢いで失言するし」
「そうなったらそのときに考えるよ」
花散しのぶは漫画やアニメに取り上げられるような展開に感動するほど非現実的な出来事に飢えてはいない。未知の体験に心を踊らせられるほど肝は据わっていない。しかし、順応力は高い。
状況を把握できればしたいことが思い浮かぶ。顔見知りがいれば行動することに躊躇いはない。
諦めが早いとも言えるし、諦めが悪く神経が太いとも言える。長所であり、短所である。
「さて、どうやって遊び尽くしてやろうかな」
彼女が考えることは一つ。
このゴールデンウィークをどうやって楽しくするか。ただそれだけである。
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