透明色の境界線

きこりぃぬ・こまき

4/28 PM:パステルカラーの夕焼けは夜空に塗り潰される

 狐山高等学校の入学式、壇上で校長先生は定型文の如く語る。

 学校とは社会の縮図である。これを最初に述べたアメリカの哲学者は虐めや差別についてではなく、家庭での経験を学校で洗練させて知識に結び付けていくことが大切さを。家庭や学校という社会が子どもたちが自分で問題解決に取り組めるように環境を整えることこそが教育なのだと語っていた。学校は社会に合わせて変わっていく必要があり、我が校はそんな学校を目指している。

 何年も繰り返し語っていることであり、長く勤めている教員たちは耳の胼胝ができる思いで聞いており、新入生たちの何割かは眠気に誘われながら聞き流す。

 当時新入生の一人であった花散はなちるしのぶは賢いとは言えない頭でぼんやりと聞き、難しい話をするなあという感想を抱いていた。なお、そのときの彼女は先頭に並ぶピンク色のインナーカラーを入れてツインテールに髪を結わえた黒髪の同級生に対して入学式でインナーカラーをいれてくる強者やばっ、めっちゃ可愛いしセンスあるから絶対友達になろう的な思考で七割方埋められていた。もう二割は中学からの付き合いである玉緒海遊たまお かるあと下校時に行く予定のクレープ屋についてだった。

 ちなみに、入学式から勇気ある行動をとったことで周囲からはスクールカースト上位にいるパリピ女子だと認識された朱道楓あけみち かえでは卒業式からの春休みという解放感と入学式への期待と不安から情緒不安定となり暴走気味な高校デビューを果たして当日死ぬほど胃が痛かったと二年生に進級した後、語った。


「学校は社会の縮図的なこと、入学式で校長が熱弁してなかった?」

「そうだっけ」

「そんな気がする。え、一年前のことを思い出せるとか私って頭良い感じ?」

「頭良い子は新学期早々に特別課題なんて出されないし、友達を巻き込まない」

「私一人でプリント終わらせれると思う?」

「思わないから早く解いて」

「長文読むの飽きたから現代文やめて数学やろー。あ、なんかこれ顔文字みたいだよね。何に使うの?」

「数列」

「すーれつ」

「そこからなの?」

「あ、ねえ、見て。Kとかaとか書くよりこっちのが可愛くない? 顔文字っぽー」

「もー、すぐ遊びだす。全然進まないじゃん」


 学校は社会の縮図。これを題材に書かれた評論の課題プリントを畳み、花散は数列を中心に出題されたプリントを取り出す。雑に畳まれて四つ角がばらばらになった評論の課題を哀れみながら、朱道はこれは今日中に終わらないな。一枚終われば優秀だとグラウンドから聞こえてくる運動部たちの声をBGMにして溜め息を吐く。


 明日から新年度始まって初めての大型連休、つまりゴールデンウィークが始まる。遊び盛りな花の女子高生である彼女たちにとっては待ちに待った一週間。胸踊る前日、しかも授業終わりであるというのに帰宅部である二人は下校することができなかった。

 事の発端は昼休みのこと。


「花散、中間テストで赤点取ったら進級が遠のくぞ」


 廊下側の後ろから二番目。他クラスの友人と話しやすく、紫外線をたっぷり含んだ春の日差しから遠く、教壇から離れた絶妙な花散の席。そこで花散は玉緒と朱道と弁当を食べながら話に花を咲かせていた。主な内容はゴールデンウィークで何をして遊ぶか。その最中に担任教師が鬼のような顔で教室に入り、花散の席まで大股で足を進める。

 何事だとクラスメイトの視線を集め、二人はまた何かしたのかと花散に呆れる。心当たりが全くない花散は心外だと頬を膨らませて担任教師を見上げる。担任教師は無言で花散の机に複数枚のプリントを叩きつけ、一言述べた。

 ゴールデンウィーク前日、つまり四月。ゴールデンウィーク明けにある中間テスト、つまり二年生に進級して初めてのテスト。花散は当然、笑った。


「二年生になったばっかなのに留年の話とかウケるんだけど。先生、気が早すぎない?」


 笑い話で済む冗談であればどれだけよかったか。気が早い程度で済む話であればどれだけよかったか。全く危機感のない花散に担任教師は頭を抱えた。

 問題児の多いクラスだと思ってはいたが、新学期が始まってすぐに頭を痛めることになるとは思わなかった。そう嘆く担任教師を哀れみ、花散と一緒に弁当を食べていた二人は援護射撃となる一言を口にする。


「二年生になれるかも怪しかったんだから、そりゃそうなるでしょ」

「しのぶちゃんには貯金がないんだよ」


 容赦のない一言に花散はなんて失礼なことを言うのだと怒ろうとした。しかし、指摘通り一年生の三学期に狐山高校初の留年になるぞ、自分の受け持ち生徒でそれは勘弁してくれと泣きついた当時の担任教師を思い出す。先生がその発言でいいのかと思いつつも、玉緒の冷ややかな監視から逃れることができず一生分の勉強をしたのではないかという勢いで机に齧りついた。

 そのかいあり、三学期のテスト順位は二桁という奇跡的な数字を叩き出せたので無事進級をした。しかし、蓄えた知識はテスト終了と同時に染み込ませた水を絞りきるスポンジの如く全て抜け落ちたため、花散には学力の貯金がない。つまり、このままでは二年生になって初めての中間テストで赤点を取ることは避けられないだろう。

 ということは、この担任教師の言う進級の危機というのもあながち冗談ではないのかと花散は納得した。納得した瞬間、担任教師は机に叩きつけたプリントの束を指差し、ゴールデンウィーク明けに提出するように言った。


「おけまるー。ゴールデンウィークは十連休もあるんだよ。余裕っしょ」


 鬼気迫る担任教師の勢いを軽く流した花散は受け取ったプリントの束を机の中に片付けた。そして、下校時に持ち帰ることを忘れた。

 この行動を予期していた朱道はすかさず机の中を確認した。案の定、特別課題のプリントは置き勉されている教科書の間に挟まっており、朱道は深い溜め息を吐いた。そして、このまま持ち帰っても絶対にやらないと思い、課題を終えるまで帰らせないと花散を机に座らせたのである。

 絶対にプリントを終わらせてもらうという最初の目標は早々に諦め、一枚終わらせてくれればいいにまで下げた。


「ねえ、朱道」

「……何?」

「暇じゃない?」

「しのぶちゃんがプリントを終わらせてくれれば暇じゃなくなるよ」

「暇つぶしにこのプリントでもやってみない?」

「やってみない」

「朱道のけちー、薄情者ー」

「はいはい」


 朱道楓。姓も名も赤を連想させる雅な名前をした花散の親友は名の雅さに劣ることなく言の葉を愛おしみ、古典を得意科目としていた。

 親友の得意科目を思い出した花散はこれは名案だと言わんばかりに表情を明るくしそっと古典のプリントを差し出す。当然、それは名案でもなんでもなく、朱道はそっけなくプリントを返す。

 集中力がなくて座学が嫌いなのは知っていたけれど、まさかここまでとは。朱道は今日も綺麗に結わえたツインテールのひと房をくるくると指に絡めながら、いっこうに埋まらない白紙のプリントを眺める。

 眺めたところでプリントが埋まるわけでもなく、やる気を全然出さずがっくりと机に突っ伏す花散のつむじをぐりぐりと指で押してみせた。


「痛い痛い」

「早くやってくださーい」

「そういえば海遊は? 親友のピンチを放置してどこに行ったの」

「海遊ちゃんなら今日はバイトだからって先帰ったよ」

「かなしみー」


 もう一人の親友である玉緒の行方を聞けば、花散の状況には目もくれずバイトへ向かったと言う。ちなみに、花散と帰る直前に机の中を確認するように朱道に頼んだのは玉緒である。中学からの付き合いだけあってよく分かっている。そう感心して特別課題の監視役を請け負った数時間前の自分の行動を朱道は後悔していた。それと同時に二年生の進級が危うくなった際に花散の勉強を見ていた玉緒を尊敬した。

 多趣味でバイトを掛け持ちする玉緒を思い浮かべ、花散はぶうと尖らせた唇の上にシャープペンシルを乗せて唸る。


「今日さ、席替えしたじゃん」

「口を動かしてもいいけど、手も動かして」

「前と同じ席でラッキーとか思ってたらさ、隣の席になった子がぼっちちゃんじゃん。ちょーつまんないの」

「ああ、もう、手を動かしてとは言ったけど数学の記号でお絵描きしてって意味じゃないよ。頭も動かして。あと、その呼び方は酷いよ」

「影薄くてぼっちって情報以外知らないし。名前も分かんない。あー、なんだっけ、桜みたいな名前」

「染井愛乃ちゃんね」

「朱道、クラスメイトの名前もう覚えたの? すごくない?」

「しのぶちゃんは覚える気ないでしょう」


 並ぶ数字に目を移し、頭が痛むと言ってプリントを裏返す。椅子の背もたれに体重を掛け、前足を浮かせる。

 頭を抱えた朱道はそのまま後ろに倒れて一度痛い思いをしてしまえと思ったが、頭の打ちどころが悪かったら大変だからやっぱり駄目だと思い直す。

 どうすればプリントに集中してくれるのかと朱道が考えている間、花散は傾けた椅子で器用にバランスを取りながら落書き一つない空っぽの机を眺める。


「いやさあ、学校は社会の縮図だって言うけどさ、お隣さん見てるとまじでそうだなあって。スクールカーストみたいなのって絶対社会に出てからもあるでしょ」

「校長先生はそういう意味で学校は社会の縮図とは語っていなかったよ」

「でも、この現代文のプリントはそういう感じに書いてあるし」

「そこまでちゃんと読んでるなら問題解いてよお……」

「読んで力尽きたんだよ。でさあ、お隣のぼっちちゃんを見て思ったの。学校で既にぼっちなのに社会に出てからどうすんだろとか思うじゃん。つまんない人生になりそーって」

「だからぼっちちゃんって呼ぶのやめなって。それに、つまらないか楽しいかは人それぞれじゃないかな」


 オレンジブラウンに染められた髪の毛先を指先にくるくると巻きつけながら、花散は今日から隣の席となった染井愛乃の姿を思い出す。

 重たくて長い黒髪。前髪も伸ばされており、表情どころか顔立ちすら分かりにくい。日本を代表とする花の名前をしているわりに暗くて野暮ったい容姿。声も小さくて、話しかけても視線が合わない。今日なんてこれも何かの縁だしよろしくと挨拶しても、一瞥して軽く頭を下げるのみ。そういえば教室内で誰かと喋っているところも見た覚えがない。なるべくしてなったぼっち。花散は染井をそう認識した。

 だが、ぼっちちゃんという呼び方を良しとしない朱道は花散が染井のことをそう呼ぶ度に注意をする。一度目、二度目の注意では眉間に皺を寄せる程度であったが、花散が三度目のぼっちちゃんを口にしようとしたところで朱道は鋭く睨みつけたので慌てて両手で口を覆って黙る。

 花散の発言に言いたいことはまだまだある朱道だが、花散が悪口になりかねないあだ名を口にすることを思い止まっただけでも良しとするかと考え、それ以上の追及はしない。代わりに机の上に投げ出した赤ペンを手に取り、ほんのりとコーラルピンクのチークが乗せられた頬をつつく。


「あうっ」

「しのぶちゃん」

「なあに?」

「別の話題で悩みの種を撒こうとしてもそうはいかないよ。プリントやって」

「朱道ならこの手の話題で気が逸れると思ったのに」

「逸らしません。しのぶちゃんじゃあるまいし、忘れもしません」

「今、さり気なーくディスったよね」

「ほら、頭と手を動かして」


 しのぶが自力で問題を解こうとする気になるつもりだった朱道はそれを諦め、鞄の中から数Bの教科書を取り出す。そして、該当するページを開き、問一から解説を始めた。

 これはいよいよ朱道が本気になったぞと花散は観念してシャープペンシルを右手に持ち、姿勢を正す。

 このあと、三十分くらいかけて三問ほど解き、赤字だらけのプリントを顔の前に突きつけられた花散はようやく中間テストの赤点と留年の危機を察知し、真面目に取り組み始めるのであった。


 居残りで特別課題のプリントを始めて二時間経ったあたりで、ようやく一番の天敵である数学のプリントを終えた花散。朱道は花散以上に喜びの声をあげたところで、最終下校時刻を知らせるチャイムが鳴った。

 解放感に浸れたのは束の間のこと。朱道はすかさず終えたのは数学のプリントだけであって、国語と英語のプリントもあることを念押しする。きちんとクリアファイルに挟み、鞄の中に片付けるところまで見守ってから、ようやく今日のお役目は終わりだと言わんばかりに晴れやかな顔をして朱道は帰ろうと立ち上がる。


「春は日が長くていいよねー」

「そうだね。これでしばらくの間は長時間の居残り勉強ができるね」

「げっ、朱道ってば居残り勉強する気満々なの? 真面目か」

「私のためのじゃなくて、しのぶちゃんのためのだからね」


 二人が学校を出れば、既に日は沈みかけていた。パステルカラーなピンクに染まった雲が流れている空は柔らかな桃色のベールがかかっているかのようで、薄青と薄紫とも言える色をしていた。

 これは朱道の好きそうな色だと思った花散は隣に目をやると、予想通り朱道はロリポップピンクで色づいた頬を更に赤くさせてはしゃぎながら空を撮っていた。さすが、リボンの付いたピンクのカーディガンを堂々と着て登校してくる女。ゆめかわいい色に弱い。

 花散は空だけを撮る朱道を巻き込んで自撮りをし、一声もかけず颯爽とバイトに行った珠緒に送り付ける。即既読とはならなかったのでまだバイト中なのだろうと思い、連投することは控えた。そして、想像以上にSNS映えする写真が撮れたため、朱道に許可を得てSNSに載せる。ハッシュタグは何にしようかなと言いながら歩く様子に朱道はながらスマホって危ないなあと心配し、花散を車道から遠ざける。


「あ、にゃんこ」

「本当だ。可愛い」


 SNSへの投稿に満足した花散はスマホを鞄の中に放り込み、朱道と会話に花を咲かせる。主な内容はゴールデンウィーク中に何をして遊ぶか。パンケーキは食べに行きたいよねと花散が言ったところで、同意の返事をするようににゃおんと猫が鳴く。

 視線を上げれば塀の上で寛ぐ黒猫がいた。ゆらりと揺らめく尻尾は先が二股に分かれており、花散は珍しいと声をあげてすかさず写真を撮る。これはバズること間違いないなと花散がSNSを開いたところで、すかさず朱道は頭を叩く。


「自分の飼い猫ならともかく、よその猫でそういうことしないの。猫の気持ちを考えて」

「猫の気持ちー?」

「もしバズったとしたら、その猫を見ようと人が押し寄せるかもしれないでしょ。ストレスに弱い猫なら死んじゃうよ」

「……それは可哀想だからやめとこ」


 琥珀色の目でじっと見つめてくる黒猫に花散は観賞用に保存だけはさせてねと声をかけて、SNSを閉じる。注意を素直に聞き入れた花散の行動を見た黒猫はにゃおんとひと鳴きする。まるで花散の行動を褒めるかのような鳴き方にこの黒猫は賢いのではと盛り上がる。

 しばらくの間、黒猫と戯れて満足した二人は手を振って離れる。黒猫は二股の尻尾を揺らめかせ、前足に顔を乗せて再び眠りについた。


「あのにゃんこ、人懐っこい感じだったよねー」

「首輪していなかったけれど、飼い猫かな。毛並みが艶々だった」

「かもね。はー、猫飼いたい」


 猫と戯れた場所から五分ほど歩いた場所で二人は足を止める。徒歩圏内の高校に通う花散とは異なり、朱道は電車通学であるため駅に続く道へ別れる。

 別れ際、朱道は念には念を入れてきちんとプリントをやるように言うが、花散はゴールデンウィークの予定を相談するためにグループメッセージを送ると返す。

 これは聞く耳持たずかあと肩を落とした朱道は背を丸めてとぼとぼと駅へ歩いて行った。

 一人になった花散は適当に曲でも聞きながら帰ろうと、イヤフォンを耳に挿し、スマホをいじり始める。その視界の端で大荷物を抱えて小道に入っていく人影を捉え、おやっと顔をあげた。


「何あれ。めっちゃ不審者なんだけど」


 花散が不審者だと称した人影の正体は二時間前くらいの話題にあがっていた人物、染井愛乃だった。

 重たい黒髪が忙しなく揺らしながら駆けていく後ろ姿を眺め、しばらく考え込む。そして、数十秒も経たずに帰っても暇だからと後をつけることにした。

 なお、この時点で既に担任教師に渡されたプリントの存在は綺麗さっぱり忘れている。


「この辺街頭全然ないし、人気もないなあ」


 染井が進んだであろう道を歩き進めると、途中からアスファルトで舗装された地面がなくなった。幸いなことにこの一週間は気持ちの良いくらいの晴天が続いており、土は周辺植物が可哀想に思えるくらい乾いている。そのため、このまま進んでもローファーが泥まみれになる心配はない。

 土とアスファルトの境目を数秒見つめてから、花散は草の根が分かれてできた道を更に進んでいく。


「うっわあ、やばー。超不気味なんだけど」


 奥へ進んでいくごとに空が見えなくなっていく。代わりに葉や木の枝が擦れる音が大きくなる。

 春になり日が長くなったとはいえ、学校を出たのは最終下校時刻を過ぎてからのこと。今引き返しても家に着く頃には真っ暗になっているだろう。そう考えた花散は染井の姿も見当たらないし、そろそろ追いかけることを止めようかと踵を返そうとしたとき、苔むした鳥居が並ぶ石段を見つける。

 階段の先を見ようと顔を上げて目を凝らすが、全くと言っていいほど先が見えない。不気味な雰囲気への恐怖心とこの先にあるものへの好奇心を天秤に乗せ、好奇心が勝った花散は石段を登ることを決めた。暗い中で階段を登るのは転びかねないと考え、スマホのライトで足元を照らす。


「こんなのが近所にあったとかまじか。アガってきたー」


 少しずつ気分が上がってきた花散はスキップをするような弾んだ足取りで石段を登っていく。最後の一段に両足をついたとき、花散の目の前に無造作に雑草が生え、あちらこちらに苔むした境内の光景が広がる。大鳥居の両端に添えられた狛狐は苔むすどころか崩れかけており、不気味を通り越して恐ろしく感じられた。

 困ったときの神頼みこそすれど、信仰心など欠片ほどもない無宗教の花散であっても、背筋が凍る思いであった。

 気分が上がると言ったことを撤回し、今すぐ帰ろう。こんな場所にあんな大荷物を抱えた染井が来ているはずがない、きっとどこかで道を間違えたのだ。

 パステルカラーの可愛らしい空は見る影もなく、ほとんど紫と黒が混ざった不気味な色へと変わっていた。どれだけ日が長いと思っていても、夕焼けから夜空へと変わるのは一瞬だ。それが花散の焦燥感を煽った。


「うえっ」


 焦燥感に身を任せ、夜道の石段を降りれば躓くことは想像に難くない。それが劣化した石階段であれば尚更のこと。

 傾いていく視線に驚きの声をあげて、咄嗟に顔と頭を守るように肩にかけている鞄を前に出す。そんな姿勢で転倒したからか、転がり落ちることこそなかったが、ズザザッと嫌な音をたてて数段分滑り落ちた。


「いたた……っ、」


 これ、絶対膝がえぐいことになっている。じくじくと痛む膝から目を向けないようにして、ゆっくり立ち上がる。制服に付いた泥を払うこともせず、チェーンがちぎれて鞄から落ちたマスコットを拾うこともせず、再び石段を降りようとする

 今度は転ばないように足元に気をつけて、地面と前をしっかり見ながら石段を降りようと一段、足を前に出すと同時に花散は異変に気付き言葉を失う。


「…………まあじかぁ」


 苔むしていたはずの鳥居は燃える炎のように朱色で彩られ、劣化していたはずの石段は美しく整えられている。日が沈めば月明かりすら届かず暗闇となるはずだったのに、光を灯した灯篭が並んでいて明るい。

 石段を滑り落ちているうちに別の道に進んだのだろうかと、花散は目を疑う。しかし、はらりと落ちて石段の絨毯となる桜の花弁を見て、そういう話ではないことを察する。


 ふと、花散は思い出す。

 黒髪にピンク色のインナーカラーを入れたツインテール。加えて淡い黒縁にピンクパールのグラデーションがかかったカラコン。透明感のある白い肌を活かしたうさぎメイク。極めつけはピンクのリボンがついたカーディガンとコテコテの甘ったるい生クリームを塗りたくったような、メンヘラ全開地雷女のような格好をしている朱道はアニメも漫画もなんでも嗜むオタクであることを。

 中学校の頃にオタバレして以降、息を殺すようにして過ごしてきたから、高校ではオタクであることを隠すためにちょっとでも陽キャに擬態しようとした結果、好きな漫画のキャラを参考にしてあのような高校デビューになったのだと親しくなってから告白されたことを。

 そんな朱道が読んでいるライトノベルを見て、キモオタが好みそうな本だと言ったらしのぶちゃんみたいなことを言う人がいるから生き辛くなる人がいるんだと怒られ、読まずして評価をするくらいならちゃんと読めと押し付けられた小説の存在を。

 活字を嗜むことをせず、流行りのドラマに原作があっても読むことをせず。なんなら、え、これが本家じゃないの? と言ってファンの地雷を踏み抜くタイプが花散しのぶである。その花散が渋々ながらも数話読み進めるほど、小説を押し付けたときの朱道の圧は凄まじかった。


 まさか自分がこの台詞を口にする日が来るとは思わなかった。

 そんな思いで、朱道お勧めの小説の台詞を真似て花散は言う。


「どうやら、私、花散しのぶは異世界に足を踏み入れたようだ」



〇●〇●〇



 人の声はせずとも世界は騒々しい。

 葉や木の枝が擦れる音。虫の音。どこからか聞こえてくる犬らしき何かの遠吠え。聞き慣れない音たちに鼓膜が震える度に、びくりと肩を跳ねながら花散はそう考える。


「まじ最悪。超疲れた。もう帰りたい。お風呂入ってベッドで寝たい!」


 歩き始めてどれくらい経ったのだろう。握り締めているスマホで時間を確認し、肩を落とす。

 小説の台詞を真似た発言をしてから、かれこれ一時間程経過している。しかし、どれだけ歩こうと人影どころか建物すら見つけられずにいる。

 階段を降りて、そこから続く道を真っ直ぐ進んで、雑木林を抜けた先にあるのは行灯が並べられた道。行灯で照らされているだけあって道は整えられているものの、それ以外は何もないところがまた不気味である。


「本当にここどこ。スマホも圏外だし、というかそろそろ電池切れそうだし、今日に限って充電器忘れてるし、もうやだー」


 こういうときって特殊演出で飾られたイベントとか異世界特典みたいなものがあるんじゃないの。どうなの、朱道。今こそ情報量を詰め込んだ早口の語りが必要なんだけど。

 懐中電灯代わりにしていたスマホの電源を落とし、鞄の中に放り込んで花散はその場にしゃがみ込む。ふわふわに巻いた髪が乱れることも構わず、くしゃりと頭を抱える。唸り声のような悲鳴をあげ、好奇心は身を滅ぼすというのはこういうことかと一時間程前の自分を恨む。


「異世界に足を踏み入れたようだ、なんて暢気なこと言ってる場合じゃなかった。というか、ここは異世界なの? それともタイムスリップみたいな感じなの? 本当に意味が分かんない。こういうのは朱道の専門でしょう。もしくは海遊!」


 オタクの朱道ならばアニメみたいな展開に感動していたことだろう。今を楽しむことに全力な玉緒であれば未知の体験に心を踊らせていたことだろう。

 しかし、花散は違った。花散はオタクとかキモイなあと思うタイプであり、勉強なんて放棄して遊びたい盛りだが未知の体験に心を躍らせる程、肝は据わっていない。


「素直に来た道戻った方がいいのかなあ。でもあそこ、まじで不気味だったし近寄りたくないなあ」


 来た道を見て、溜め息を吐く。吐き出した分を取り戻すように大きく息を吸い込み、じんわりと浮かんできた涙を堪えるように顔を上げる。

 街灯もなければ建物から漏れ出る明かりもない。あるのは足元を照らす行灯の仄かな光だけなので、月明かりも星々も十七年の人生の中で一番美しく見えた。いつもの花散であればやばいやら最高やらと乏しい語彙力で感動をめいいっぱい表現していたことだろう。

 残念ながらその余裕はなく、夜になってしまったことに加えて強張る程疲れた足の痛みや気持ち悪くなりそうな空腹感でいよいよ涙が堪えきれなくなってきていた。ちょうど、その時だった。


「お腹空いたぁ。今日の夕飯は何かな」

「ご馳走でしょう。稲穂様が待ちわびていた日なのだし」

「よしのんは長期休暇にしかこちら側に来れないもんね」

「……またそうやって馴れ馴れしく呼ぶ。さくら様は稲穂様の奥方なのよ」


 話に花を咲かせる明るい声が花散の耳に届いたのは。

 弾かれるように顔を上げる。自分の来た道からぼんやりとした灯りが宙に浮かび、揺らめいている。目を凝らせば、見慣れた制服を身に纏った二人組であることが分かった。

 ここが自分が暮らしてきた世界と異なることは時代を逆行したような景観だけで察することができた。しかし、自分の身に何が起きているのかは一切理解できなかった。足の痛みも空腹も増すばかりなのにスマホの電池残量は減っていくばかり。心が折れる寸前に現れた二人に花散が飛びつく勢いで声をかけるのも当然の反応であった。

 突然現れた人影に二人は目を丸め、足を止める。そして、下から上、上から下へとじっくり観察し、困惑の表情を浮かべる。


「あの、ちょっといいかな!」

「え、ええっ」

「……はあ?」

「あれ、乙女さんと佐鳥さんじゃん。あー、知っている人と会えてよかった! ねえ、ここがどこか分かる? 気がついたらここにいてさあ」


 声をかけられた二人が勢いよく飛び出てきた人影が花散を認識すると同時に、花散も二人がクラスの異なる同級生であることに気付く。

 片やアイスブルーの目を左右に忙しなく動かして困ったように、片や眉間に深い皺を刻んで不愉快そうに、それぞれの反応を見せる。それから花散に背を向ける形で肩を寄せ合い、声を潜めて話し始める。


「え、えーと、心ちゃん。この場合、どうしたらいいんだろう」

「招かざる人間の扱いなんて私たちが決められるわけないでしょう」

「それもそうだよねぇ。んーっと、じゃあ、稲穂様のところにお連れすればいいのかな」

「そうだね。ただ、今日は控えよう。逢瀬を邪魔すればこいつどころか私たちまで消される」

「稲穂様、過激的なところあるもんね」


 とはいえ、車の音どころか街灯の音すら聞こえない場ではひそひそ話も大きな内緒話になる。

 邪魔するだの消されるだの過激的だのと会話の節々から物騒な言葉が聞こえてくる。冗談だと思おうにも、二人の表情は徐々に暗くなっていくので不安を煽られる。


「で、それまでの間どうする?」

「………………屋敷の、私たちの部屋で過ごしてもらうしかないでしょう」

「わあ。すっごく嫌そうな顔してるー」

「嫌そうじゃなくて嫌なの。この女、煩い」

「賑やかな人なのは知ってたけれど、そっかあ、黙っていても賑やかなんだね」


 真剣な表情で話し合っているため、口を挟むことを耐えていた花散だが、合間合間に批判された気がした。自分の質問を無視されていることも合わせて、花散はむっとする。

 だいたい、煩いとはなんだ、煩いとは。一応空気を読んで口を閉ざしているというのに黙っていても賑やかとか意味分かんないし。たまに顔が煩いと言われることはあるけど、二人揃って背を向けているのだから顔も見ていないでしょう!

 考えれば考えるほどもやもやと腹立たしさが増してくる。そして、我慢できなくなった花散は説明を求めるために腕を引っ張って強引に振り向かせる。


「ねえ、さっきから何の話してるの? 少しは私にも分かるように話してほしいんだけど」

「ごめんね。わたしは花散さんのこと嫌いじゃないんだけど、心ちゃんの精神上よろしくないみたいだから、しばらく寝ていてね」

「え、どういう、こ……と……」


 花散に引っ張られるがままに振り返り、肩口で切り揃えられたスノーホワイトの柔らかい髪がふわりと広がる。どこか懐かしさを覚える、さっぱりとした甘い香りが花散の鼻腔をくすぐる。何の匂いだろうと考えていると、にっこりと細められたアイスブルーの目と視線がぶつかる。

 伸ばされた白い手が花散の首を撫でる。氷のように冷たい指先に驚いた花散は肩を窄める。途端に、視界が揺らぐ。

 体温という体温が奪われたように指先から芯まで身体が冷えていく。朦朧とする意識の中で、身体の力が抜けて地面に向かって倒れていることを理解できても、だからどうしようと行動することができない。


「ねえ、雪芽。意識を失った人間を運ぶのってすごく大変なんだよ」

「えっ、そうなの?」

「全体重支えないといけないからね」

「何も考えずに寝かせちゃった。えー、どうしよう、引きずる?」

「やだよ、面倒臭い。誰か力ある人を呼ぼう」


 唇まで真っ青になって倒れた花散を前にのんびりとした会話を続ける。他人事のような、面倒臭そうな、花散本人としてはたまったものではない会話の内容だった。

 薄れゆく意識の中で二人の会話を聞き、まじ最悪なんだけどと弱々しい舌打ちをして花散は意識を手放した。

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