4/30 PM:二輪の花に散る火花

 染井愛乃そめいよしのは花散しのぶを快く思っていない。

 オレンジブラウンに染められた髪。明らかに視力矯正以外を目的に使用されているコンタクトレンズ。アイラインまでしっかりと引かれた派手なメイク。膝上まで折られたスカート丈。肌寒くなれば指定外のカーディガンやコートを着ている。

 数々の校則違反に風紀委員に目をつけられるのは当然のこと。生徒指導の呼び出しの常連だ。

 これらに関しては花散と行動を共にしている玉緒や朱道にも該当していることである。呼び出しを無視しては教室で叱られる三人の姿を何度見たことか。校内放送での呼び出しは無意味だと判断したのか、最近は教室まで呼びに来る教師が増えている。

 一年生を終える頃には花散の噂は人付き合いが少ない染井の耳にまで届いていた。それ故、進級の際に彼女とクラスが同じになり、溜め息を吐いて憂鬱になった。そして、目をつけられないように静かに過ごすことを決めた。それだけ染井の耳に入った花散の噂は悪評が多かったのだ。だというのに、一昨日の席替えで隣の席になったときの絶望といったらもう、言葉にできないものだった。

 教室の隅でひっそりと、真面目な態度で学校生活を送る染井にとって花散は住む世界の違う人間だ。


「さくら様が手を煩わせる必要はございませぬ」

「けれど、私の後をつけて此方側に来たという話ですよね。でしたら、私にも責任があると思います」

「いいえ、それはあの女が勝手にしたことなので自己責任です。好奇心は猫をも殺すと言うでしょう」

「そうだとしても、やはり……」


 それでも、昨日、佐鳥から花散が染井を追いかけて此方側に来たことを聞き、染井は花散の助けにならねばならないと義務感に近い感情を抱いた。

 ちゃんと周囲に気を配っていれば、花散が後をつけていることに気がついていれば、そうならなかったかもしれないのに。

 未知の領域に踏み入れたばかりで不安を抱いているかもしれない。この場で唯一の人間として、気にかけた方が良いのではないか。

 それは、根っこから真面目な染井にとって十分な言い訳となった。


「え」

「……なんと」


 目的地であった花散の使用する客室へ向かう足は屋敷に住む若者たちが集う場として使用される居間の前で止まる。

 染井にとって、そして米吉にとっても、目の前で広がる光景は想像していなかったこと。目をまん丸にしてしばらく思考停止するほどだ。


「やい、しのぶ。もしかしてこれを俺だと言うつもりじゃねェだろうな」

「言うつもりだけど」

「あっはっは! お前の目は節穴か? 俺をこんな醜男に描きやがって、その脂肪がよく付いた身体を食うぞ」

「え、そういうのセクハラって言うんだよ。普通にキモイからやめて」

「なんでそうなるんだよ!」

「だって食うってそういうことでしょ」

「…………ちっ、ちげーよ! なんってもの想像してんだ、痴女か!」

「は? そっちが先に言ったんでしょ。欲しいところに脂肪のついたスタイルの良い身体を食っちまうぞって」

「解釈が違いすぎる!」


 居間から賑やかな声が聞こえてくる。一際大きく、よく通る声は教室で聞き慣れたもの。染井は困惑する。

 開きっぱなしの襖から見えたのは個性的な容姿をした三人と中心に座って快活に笑う花散の姿。

 脳裏に焼き付くような明るい赤髪をした男は何かをルーズリーフに書き込む花散の手元を覗き込んでは眉間に皺を寄せ、画才に恵まれない花散をからかう。そして、想定外の反撃を受け、額から生えた小振りの角を覆うように頭を抱える。

 そのやりとりを文字通り首を長くして見ていた女は哀れみの目を花散に向ける。


「アンタ、メイクの腕は一級品だってぇのに……絵の腕前は残念なものだねぇ」

「一級品なんて照れちゃうなあ。でもほら、素材が良いからできるってのもあるんだよ」

「おっと、これは褒め言葉しか耳に入っていないときたもんだ」

「……素材がいい?」

「うん。とっても魅力的」

「それを本気で言ってるのは分かった。分かったけれど、そう言うのはアンタくらいだよ」

「えー。皆、見る目ないなあ」


 カーネーションピンクにほんのり染まった頬を両手で包み、分かりやすい仕草で照れる表現をする。後者の同情の声は一切耳に入っていないような反応に、首を長くした女は撫で下がった肩を竦める。

 調子に乗った花散は思うままにころころと舌を回す。ちっちっちっと舌を鳴らして人差し指を左右に振る仕草のせいで良いことを言おうとしているのだろうが、妙に腹が立つ。

 花散の言葉を素直に受け止めた少女は烏の濡れ羽のように黒い髪に包まれた後頭部から覗く大きな唇ではくはくと開閉を繰り返してから両手で顔を覆い隠す。その隣で赤髪の男は花散の脇腹を小突く。すかさず鳩尾に突きを返され、赤髪の男は背を丸めて咳き込む。花散はふんっと鼻を鳴らし、少女に顔を向ける。


「はむちゃんはきゅるんとした目にぷるんとしたちっちゃな唇はキュートなのに、艶やかな黒髪から覗く大きな唇はしっとりとしてセクシーなんだよ。一度で二色のリップが使えて、しかも前と後ろで雰囲気変えれるとか最強じゃん」

「え、えっと、あの」


 蛇のように蠢く黒髪に後頭部に生えた大きな口が特徴的な二口女の少女こと喰無はむ。隙間から覗くごつごつとした白い歯とでこぼこのイボが目立つ赤い舌は不気味の一言に尽きる。

 個性豊かな種族ばかりが集まる屋敷故に喰無の容姿を気味悪がる者はないとはいえ、人間に好まれる容姿である自覚がある。それを覆すようにキュートやセクシーなど聞き慣れない言葉を送られた喰無は言葉を失う。


「ろく糸姉さんは面長の美女。結い上げた黒髪というのもあって和風美人という言葉も似合うけど、メイクの内容によってあらゆる色が出せると思うんだよね。気が抜けたら首が伸びちゃうっておっちょこちょい感がギャップってやつだし」

「アンタの性癖、大丈夫かい?」


 蝶の羽根のように輪を大きく広げた二つの髷に菊結びをした江戸紫色の紐。露わになっている白いうなじはさぞかし色っぽく映ることだろう。ゴムのように伸び、軟体動物のように柔軟に動いていなければ。

 細長く伸びる首が特徴で誰もが知る妖怪の代表的存在なろくろ首の女ことろく糸はうっとりとした表情で和風美人な大人の女性っていいよねと語る花散を心配する。


「男の顔はいじったことないけど、おにくんは素で顔いいと思うよ。ド派手な赤髪に額に角とかイケメンにしか許されない」

「そのイケメンを描いたものがこちらってか」


 目に焼き付く真っ赤な前髪を押し上げる額から生えた小振りな角に三白眼の黒い目をした限りなく人の姿に近い鬼の青年こと緒児おに。イケメンと褒められた彼は他でもない花散自身がルーズリーフに描いた似顔絵を見せびらかす。

 某教育番組の画伯が描いたという有名な一枚に並ぶ代物。花散はすかさず目を逸らして口笛を吹き始める。

 なんてベタな誤魔化し方だろう。花散を囲む三人は顔を見合わせてからけらけらと声を上げて笑う。


「そこまで笑う必要なくない?!」

「いや、これは笑うしかねェだろ」

「笑うしかないねぇ」

「しのぶちゃん、面白いね」

「私、ウケを狙うキャラじゃないんだけどなー」


 一通り笑われた花散はオレンジレッドのリップを染み込ませたつやつやの唇を尖らせる。むっすりとした表情でばたりと後ろに倒れる。

 ぱちり。寝転がった花散とその場に立ち尽くしていた染井の目が合う。お互いに長く感じる数秒の沈黙が続いた後、花散はごろりと寝返りを打った。


「ねー、染井さん。私、笑い要員じゃないよねー」

「……そう、ですね」


 だらだらと、まるで自宅にいるかのように寛ぐ花散の姿に染井は動揺を露わにしつつ、同意しか求めていない質問に頷く。

 染井さん。この場において聞き馴染みはないがよく知る姓に他の三人は肩を跳ね、花散の視線を辿る。その先にこの屋敷において最も大切にされるべきお方がいることに気付き、三人は慌てて姿勢を正す。


「さっ、さくら様。いつからそこにいらしたんですか?」

「米吉様もご一緒とは……しのぶ、お前何かしたのか?」

「まだしてない」

「ばっか! これからするつもりか、やめろやめろ、命は大事にするもんだぞ」


 緒児に頭を叩かれ、その勢いで鼻先と額を畳にぶつけた花散から潰れた蛙のような悲鳴が上がる。

 何するんだと睨みつければ、緒児だけでなく喰無もろく糸も咎めるような目を向けるため、仕方がないなとでも返すように溜め息を吐いて身体を起こす。それから、三人に倣って正座をして背筋を伸ばす。

 それまでの間、座卓の下で丸くなって眠ってきた黒猫がひょっこりと顔を出し、何食わぬ顔で花散の膝に乗る。警戒心を孕んだエメラルドグリーンの目を米吉にじっと向ける。

 昨日のやりとりを思い出した花散は黒猫が飛び出さないように、ゆったりとした手付きで頭を撫でる。


「私に何か用?」

「えっと」

「ここでの生活ならご心配なくー。この通り、仲良くやれそうなので」

「貴様、さくら様に向かってなんて無礼な!」

「昨日からきゃんきゃんきゃんきゃんうっさいなあ。さくら様だかなんだか知らないけど、私にとってはクラスの隅っこにいるただの同級生なの。無礼も何もあるか。つーか、今は染井さんと喋ってんだから狐は出しゃばるな」


 花散の態度にひゅっと息を呑んだのは誰なのか。花散は横目で三人の様子を確認しながら染井の出方を窺う。

 重たい前髪で隠れた表情。自信なさげに丸まった背。体重は踵にかかっており、いつでも後退して逃げ出せるようにしている。服に着られている。上等な着物を着ているのにもったいない。花散は染井をそう評価する。

 値踏みをするような花散の視線に居心地悪く思った染井は片足を半歩後ろに下げ、爪先を見つめる。ぐるぐると、次に発する言葉に悩む。薄い唇をきゅっと一文字に結び、右へ左へと視線を彷徨わせる。

 一点に集まる視線。誰もが染井の言葉を待つ状況。痺れを切らした花散が溜め息を吐き、発言をしようとしたそのとき、染井は忙しなく動かしていた目を教科書やノートが顔を出した鞄に留める。


「…………特別課題」

「は?」

「教室の真ん中で先生と話してたから、聞こえてきたました。花散さん、特別課題出されていたじゃないですか。その、お一人で終わらせられるのかなと思い」

「終わる終わらない以前にやると思ってる?」

「そこは開き直るところではないかと」

「存在忘れてたくらいだし。やー、無理無理」


 染井に指摘され、花散はそういえばそんなものがあったなと鞄の中で眠っている課題を思い出すして、うえーと嫌そうに舌を出す。

 こんなところに来てまで課題の話とか真面目ちゃんだね。嫌なことを思い出すきっかけを作った仕返しとして嫌味の一つでも言ってやろうかと口を開きかけるが、それを察知した緒児は大きな手を使って花散の口を塞ぐ。

 口を塞がれたまま、もごもごと怒鳴る。その勢いに負けじと、緒児は駄目だと首を横に振る。その後ろでろく糸と喰無はそれ以上絶対喋らせるなと緒児を応援する。

 騒々しい奴らだと米吉は冷めた目で見つめ、染井を気遣う。米吉の視線に気付いた染井は苦笑いを浮かべる。それから深呼吸を数度繰り返してから穏やかな笑顔を浮かべるように努める。


「暇を持て余すようでしたら、特別課題のお手伝いを致しましょうか」

「…………んー」


 逃げ腰のまま穏やかな笑顔を見せる染井の意図を探る。いくつか想像し、それにより得られる染井の利益まで考えたところで花散は口を塞ぐ緒児の手の甲を叩く。

 このまま口を塞いでいれば余計なことを言うことはないが、染井の提案に返事することもできない。あー、うー、と悩ましげに唸り声を上げた緒児は恐る恐るとその手を放す。


「じゃあ、手伝わせてあげようかな」

「空気を読め!」


 正座で見上げながら上から目線の発言に緒児は悲鳴を上げて手を放したことを後悔した。ろく糸は額を手で押さえて溜め息を吐き、喰無なんて今にも土下座する勢いで花散に悪意はないのだと謝罪をしている。

 大袈裟すぎやしないかと思いつつ、さすがにこれ以上からかうのは可哀想かと口を閉じ、散らかした荷物を鞄の中に入れ始める。花散が立ち上がる気配を察知した黒猫は膝の上から降り、花散が立ち上がれば頭を擦り付けるように足にまとわりつく。


「てことで、私は行くねー」

「……しのぶちゃん」

「あはは、心配しすぎだって。話聞いてる感じだと染井さんは私と同じ人間なんでしょ」

「でも、その」

「それに、私が不愉快で男に泣きつく度胸が染井さんにあるとは思えないし。ねえ?」


 堂々とした悪口である。しかも染井本人に同意を求めるという暴挙に出た。

 穏やかな笑顔を浮かべたまま固まった染井は動揺を露わにしないように、必死に平常心を装いながら首を傾げてみせる。頭の動きに合わせてさらりと揺れた黒髪を目で追いながら、花散もにっこりと笑顔を浮かべてみせる。

 二人のやりとりに不安を更に抱いた喰無は涙目となり、緒児はもう嫌だこいつと両手で顔を覆ってろく糸に泣きついた。緒児はともかく喰無には少しばかり罪悪感を抱いた花散は軽い謝罪を口にして幼子を宥めるように頭を撫でてみせる。


「遊んでくれてありがとう。また気が向いたら声かけてよ」


 喰無の頭を撫でる手を挙げ、そのままひらりと振る。にへらと緩い笑顔と共に残された最後の言葉に緒児とろく糸は何とも言えない顔をして、居間から出ていく花散の背を見送った。


 口を開かせれば騒がしい女からそこに居るだけで騒々しい女。

 米吉が花散への認識を改めるのは早かった。無礼で口も性格も悪いなどといった最低な評価も次々と付け加えていく。

 さくら様はお優しすぎる。花散を気にかける染井の健気さに袖を濡らし、これ以上彼女の心を傷つけさせてたまるかと二人の間に割って入るようにして長い廊下を進んでいく。


「ねえ、沈黙がちょー重いんだけど」

「誰のせいだと思ってる」

「すーぐ怒る狐のせいじゃない?」

「貴様の口が過ぎるせいだろうが!」

「もー、今からそんなんだと十日後には血管ぶちぶちに切れて大変なことになるよ」


 米吉の考えは露知らず。というより、知ろうともしなければ知っても変わらない花散は自分たちの間に流れる沈黙に不満を垂れる。

 沈黙が重いと言いながら、花散が口を閉ざしている時間はほんの僅かなものだった。

 この屋敷を訪れてたった一日。ろくでもない第一印象をほとんどの者に植え付けておきながら、たった一日で屋敷内に複数人の知人を作ったらしい。老若男女種族問わず顔見知りに遭遇する度に足を止めて声をかけていた。そして、忙しなく働く誰もが花散に気付けば顔を上げて表情を明るくして返事をする。そして、傍に染井と米吉がいることに気付くなり慌てて頭を下げ、そさくさとその場を後にした。


「染井さんってさあ、ここでもぼっちなの? さくら様なんて仰々しい呼ばれ方をしてるのに」

「な、貴様!」

「だってそうでしょう。あんたは私に怒るけど、他の子たちは私を心配して注意するって感じだし」

「貴様が気安く名を呼んで良い方ではないのだぞ!」

「知らんし。他の呼び方するにしてもぼっちちゃん一択だけど、それはそれでキレるでしょ」


 オレンジブラウンの髪をくるくると指に巻き付けながら、染井の背を見つめる。ほんの僅かな時間であるが、自信なさげに丸められた身体が小さく震えたことを花散は見逃さない。染井の反応を待つが反論は返ってこず。隣を歩く米吉の手を握り、深く息を吐き出すだけであった。

 なんだ、何も言わないのか。声に出さず心の内に呟くと、にゃおんと黒猫が返事をする。まるで心の中を読まれているようなタイミングで鳴くため、きみもそう思うよねーと笑って同意を求める。

 黒猫と会話を始めた花散に染井は足を止める。ちらりと視線を向け、ゆらゆらと揺れる先が二股に割れた黒猫の尾に目を細める。


「可愛らしい黒猫ですね。花散さんの飼い猫ですか?」

「ううん。目が覚めたら傍にいただけで、ペットとかじゃないよ」

「それにしては随分と親しいのですね」

「めっちゃ人懐っこいんだよ。ぴったりくっついて離れないし、可愛いよね」


 染井に合わせて花散も足を止めれば、踏まれないようにと数歩分距離を開けていた黒猫がすかさず花散の足に擦りつく。ふわふわの毛が花散の足首をくすぐり、ふくふくと笑いながら抱き上げる。花散が笑えば黒猫は嬉しそうに喉を鳴らした。

 仲睦まじい姿に米吉はまじまじと見つめる。何かを考え、花散の腕の中におさまって嬉しそうに鳴き声を上げる黒猫を訝しむ。


「本当に貴様の飼い猫じゃないのか」

「だから違うって。なんでそこを疑うの」

「…………いや、それならそれでいい」


 再確認する米吉をじっと見つめるエメラルドグリーンの目から目を逸らし、行きましょうと染井に声をかける。染井は何か言いたげであったが、米吉に従って口を閉ざす。

 いったいなんだと言うのか。抱えている黒猫に視線を落とした花散は首を傾げる。しかし、考えても答えは出てこず。花散は早々に思考を放棄する。

 更に歩き、自分が居た客室から染井の部屋までの距離は屋敷の端から端くらいであることを把握した頃、紺色の背景に白い桜の花びらが散った襖の前に辿り着く。これまでと毛色の異なる襖に、ここが染井のために用意された部屋であることが一目で分かる。


「うわ、思っていた以上におしゃれな部屋」

「どういうものを想像していたのですか」

「古き良き和室って感じ。借りてる部屋がそんな感じだし。こういうの、和モダンって言うんだっけ。この屋敷のイメージにも、染井さんのイメージにもなかった」

「…………現代に生きる私が過ごしやすいようにと、稲穂様が用意してくださったお部屋なので」

「え、何。今さり気なく惚気られたの?」


 部屋の中心にふんわりと浮かぶ和紙で包まれた丸い照明。その下に配置されてるのは茶色と黒茶色の配色が美しいローテーブルに最中もなかを模したクッション座椅子。座椅子は一人分しかないが、部屋の隅に人を駄目にすることで有名なゆったりとしたクッションソファーが置かれている。ローテーブルと同じ配色をしたシェルフには鞄以外の物は飾られていない。

 生活感のある部屋だが、私室というよりも古民家宿みたい。そんな感想を抱きつつ、想像していたよりもずっと洒落ている部屋を褒めれば、染井はぽそりと内装の経緯を呟く。目を丸めた花散はすぐににやにやと口角を上げて話を掘り下げようとする。


「無駄話をせず、先に特別課題を終わらせましょう。ここでの生活を言い訳になんてさせません」

「さくら様のご厚意を無駄になんぞさせんからな」


 だが、真面目な二人により花散の好奇心をくすぐった染井からの惚気話を発展させることはできず。渋々と鞄の中から皺になったプリントを取り出すことになった。


〇●〇●〇


 頬杖をつき、あくびを一つ。滲んだ視界が煩わしく、綺麗に塗られたマスカラやアイシャドウを巻き込まないように人差し指で目を拭う。眠気覚ましがてら凝り固まった身体を解すように両腕を伸ばす。

 ふうと息を吐き、裏返しにして積まれたプリント数枚と赤ペンを持った染井の手元にあるプリント一枚、そして自分の手元にある黒字で半分ほど埋まったプリント一枚を見比べて、花散はぽつりと疑問を零す。


「染井さんってさあ、家庭教師のバイトとかしてる?」

「していません」

「じゃあ、この屋敷の子どもに勉強とか教えてるの? はむちゃんとか小鬼ちゃんたちとか」

「……嫌味ですか?」

「違う違う、褒めたいんだって」


 眉間に皺を寄せて顔を上げる染井。花散は顔の前で両手を左右に振り、否定する。違うと言われても納得できなかった染井は赤ペンを置き、花散を見つめる。

 褒め言葉という名の嫌味があることを染井は知っている。そして、敵意を剥き出しにした花散がそういうことをする人間であることも染井は知っている。故に、違うと言われても信用することができるはずもなく、疑いの目を向ける。

 花散は脳と口が直結しているのではないかと思いたくなるくらい、空気を読まずに発言する。しかし、決して空気が読めないわけではない。周囲からの評価を察せないわけではない。佐鳥や染井のようなタイプが自分をどういう認識をしているかなど言われずとも分かる。なので、染井の疑いの目など毛ほども気にせず続ける。


「私、自分の集中力は小学生低学年くらいだと思ってるからさ。こんなに進むなんて思ってなかったんだ。染井さん、教えるの上手いね」

「……花散さんは集中力はないけれど、頭が悪いわけではありませんよ。興味がないこと頭どころか視界に入らないだけで」

「え、何、急に褒められるとか照れるー」

「なので、貴方の場合はどうしたら理解できるかではなく、どうしたら興味を持つのかを考えた方がいいと思ったまでです」


 テンポ良く赤色のボールペンで丸を描く。プリントの隅に描かれた落書きを見つけ、これはなんだろうかと思案する。真剣な顔つきで、数十秒たっぷり時間をかける染井の様子に心配したのか、米吉が声をかける。何もありません。そう答えようと米吉の顔を見て、染井はあっと声を上げ、もう一度花散が書いた落書きに目を向ける。

 二つ並んだ三角。その真下に斜め上に向けて引かれた二つの線と黒い丸。そして怒りを表現する際によく使われる絵文字。

 よく描けているだろうとでも言うようにドヤ顔を浮かべる花散に対し、染井は数秒考えてから十点と落書きを採点する。それが何点満点中か、確認することはせず、花散は都合良く満点をもらえたと解釈して気を良くする。


「私にマウント取りたいがために課題の手伝いをするって言ったのかと思ってた」

「私を意地が悪いことをする女だと思っているのですね」

「真面目な良い子ちゃんだと思ってるよ。ついでに言うとクラスの輪に入ろうとしない根暗なぼっちちゃん。だから私に良い印象がなくて、劣等感もほんのり抱いている。この場でしか優位に立てないからおやさしーさくら様として声をかけてやろうと思ったら、なんか友達作ってるし、出る幕ないって感じ。慌てて取り繕った結果、特別課題を強調しちゃって嫌味になったーってところでしょ」

「さくら様がそのようなことするわけなかろう! 全く、人間というのはいつの世も同族を貶めることばかりしよって」

「いや、染井さんだって人間じゃん。てか、違うなら自分の口で否定させなよ」


 気を良くしておいて、なぜ空気を悪くするようなことを口にするのか。全くと言っていいほど理解できない花散の思考に染井は頭を悩ませる。

 売り言葉に買い言葉。花散の言葉に声が大きくなっていく米吉とそれに反応してエメラルドグリーンの目を鋭くさせる黒猫。不穏な空気を察した染井はパンッと手を叩き、視線を集める。

 花散を一瞥してから穏やかな笑みを浮かべ、口を開く。


「慣れぬ勉強に気が立ってきたようですね。米吉、申し訳ありませんがお茶とお菓子を持ってきていただいてもよろしいですか?」

「この女と二人きりにはできません」

「大丈夫ですよ。彼女の言う通り、ただのクラスメイトです。私が稲穂様のお嫁さんになることが気に入らず、悪意を持って何かをしてきた方々と比べたら可愛らしいものです」

「…………さくら様がそう仰るのであれば」


 染井の提案に米吉は眉間に皺を寄せる。心配する気持ちを汲み取りつつ、染井はゆるりと首を横に振る。その態度に花散はふうんと目を細めて一人と一匹のやりとりを観察するように眺める。

 染井の意思を尊重した米吉は部屋を出ていく前に花散と黒猫に失礼がないようにと釘を刺すも、悪戯めいた表情を浮かべる花散には釘の先は一ミリたりとも刺さっていないだろう。


 染井愛乃は花散しのぶを快く思っていない。

 校則を堂々と破り、授業態度も悪い。言葉を選ばない発言に人を見下すような視線。自分の意見が正しいと自信満々で自己主張が激しく、自分が楽しむことを優先に行動する。どこまでも真逆な生き方をする存在。

 何をどうしたらそこまで自分勝手に振る舞えるのか理解できず、攻撃的な態度で強い言葉を使う考え方に共感できず。しかも、矛先を向けられる側になるとなれば、快く思えるわけがなかった。

 関わって良い思いをしないだろうということは考えるまでもなかった。精神衛生上よろしくないからとクラスが一緒であろうと徹底して避ける姿勢であろうと思っていた。クラスメイトとはおよそ七時間と少しを同じ室内で過ごすだけの他人である。だから、席替えで隣同士になろうとそうしているつもりであった。


「染井さんのご希望通りにお答えしましょう」


 しかし、ここまで露骨に喧嘩を売られ続ければ対応せざる得なかった。

 溜め息を一つ吐き、ボールペンを置く。課題と向き合っているとき以外、ずっと悪戯めいた笑みを浮かべて舌を回す花散と向かい合う。

 顔を隠すように垂れた前髪の隙間から覗く漆黒の目には真っ直ぐと花散を射抜き、教室では見たことのない染井の一面に花散はほうと感嘆の溜め息を吐く。そして、頬杖をつき、挑発するようにどーぞと染井の発言を促す。


「貴方の言葉を借りるならマウントを取りにいく。その気持ちがなかったと言ったら嘘になります」


 一度言葉を区切り、花散の反応を窺う。この程度の一言で何か反応を見せるようであれば、最初から佐鳥の忠告を受け入れて大人しくしているだろうと考え直す。

 染井は片手を頬に添え、穏やかな微笑みを浮かべて続ける。


「教室の隅にいるようなクラスメイトを陰キャだぼっちだと見下している貴方の前に、地位のある美しい夫が居て綺麗に着飾られている私が現れたら少しは劣等感を抱き、それ以上の醜態を晒して惨めな思いをしないように大人しくなると思ったので」


 ご満足いただける回答になったでしょうか? 小首を傾げてそう問いかける。話に飽きたのか、それとも満足のいく回答ではなかったのか、花散は退屈そうにシャーベットカラーのオレンジに彩られた爪をいじっていた。

 あまりにもな態度に眉間に皺を寄せる。極めて冷静に対応しようと心掛けていたが、思わず声を尖らせて花散を呼ぶ。


「染井さんってさあ」

「はい」

「服に着せられているだけって感じだけど、言葉は綺麗に飾れるんだね」

「そういう花散さんはお顔だけではなく言葉を磨いた方が良いと思われますよ」


 残っている課題へのやる気を完全に失った花散はごろりと畳の上に寝転がる。膝の上で二人のやりとりを見守っていた黒猫は花散に愛でてもらおうと胸の上まで登ってくる。顎の下を撫でればぐるぐると喉を鳴らし、花散の鼻先に小さな鼻先を擦り付ける。

 だらけ始めた花散の態度に頭を悩ますだけ無駄かと理解することを諦め、散らかったプリントをひとまとめにし、転がった筆記用具を筆箱の中へ片付ける。

 

「そんだけ言い返せて、なぁんで自信なさげに背を丸めて歩くかなあ」

「猫背なだけです」

「うっわあ。今の歳で猫背とか、ハミ肉できるよ。水着姿はもちろん、下着姿もだらしなぁい」

「水泳の授業は選択しませんし、下着姿を人に見せることはないでしょう」

「え、旦那いるのに見せる機会ないとかあるの?」

「どうしてそういう話になるんですか」

「だっていちゃいちゃしたい盛りの新婚なんでしょ。夜だってさぞかし熱いことに」

「なっ、何を言ってるの!」

「いや、そっちが何を言ってるの……え、まじで言ってる? 待ちに待ったゴールデンウィークにお嫁さんを独占するんだって張り切ってる旦那にお預けさせてんの?」

「な、な、な、なんってことを!」


 瞬間、染井の顔に熱が集まる。顔だけでなく、耳から首まで赤く染まり、熱に茹だったかのようにくらくらと視界が揺れる。薄い唇をはくはくとさせ、息を吸った際に気管が刺激されたようで激しく噎せ始める。

 動揺を露わにする染井に花散はばっと身体を起こし、目を輝かせる。花散にじゃれついていた黒猫はつるりとしたローテーブルの上に飛び乗り、花散の表情を真似するように染井をじっと見つめる。

 期待に満ちた視線から赤く染まった顔を逸らし、それだけでは逃れることはできず両手で前髪ごと顔を押さえて縮こまる。この話はもうおしまいだと悲鳴を上げても、その程度で花散の追究から逃れることはできず。ローテーブルを挟んで物理的に距離を置いていたというのに、わざわざ隣に移動してきては染井をうりうりと小突いてうざ絡みを始める。


「いいじゃん、この際教えてよ。どこまでいったの?」

「もー、嫌! 心の底から鬱陶しい!」

「お上品な奥様の皮が剥がれてきてるよ」

「計画通り、みたいな顔しないで」

「やーい。地が出た、地が出たー」

「小学生男児みたいな煽り方しかできないの?」

「それに煽られる染井さんは小学生女児かな」


 屋敷の主であり、この地の長である稲穂の嫁として相応しい振る舞いを心掛けていた染井の声が少しずつ大きくなり、言葉遣いも荒くなっていく。その変化ににやにやし始める花散の口を塞ぐために頬を抓ってみせるが、その程度で黙らせることができるのであれば風紀委員も教師も苦労していない。

 さては慣れない恋バナに照れてるな。そう捉えた花散はここぞとばかりにどういうところが好きなのか、高校生のうちに結婚した決め手はなんだったのか。根掘り葉掘り聞こうとする。動揺のあまり、染井はまるで女子高校生のような会話をしようとするのねと声を荒げる。現役女子高校生がその発言はどうなのと花散が腹を抱えて笑い始めた頃に閉め切られた襖が開いた。

 ようやく米吉が戻ってきてくれたと、染井は助けを求めるために振り返る。そして、想定していた者とは違う存在がそこに立っており、ピシッと動きを止める。


「随分と楽しそうじゃないか」

「稲穂様!」

「げぇ、俺様男」


 くつくつと喉を鳴らして笑う稲穂の登場に染井は一拍置いてから慌てて背筋を伸ばす。対して花散は嫌悪感を隠すことなく眉間に皺を寄せる。それまで二人のやりとりを温かく見守っていた黒猫も同様で、花散以上の警戒心を露わにして逆毛を立てる。三者三様の反応を面白く思ったのか、稲穂はふはっと豪快な笑い声を上げる。

 一通り笑い終えた後、稲穂は優しい表情を浮かべ、とろりと垂らした蜂蜜のように甘ったるい声で染井に問いかける。


「何の話をしていたんだ?」

「……内緒です」

「それは残念」

「稲穂様は何用でこちらに?」

「用がなければ来てはいけないのか?」

「そういうわけではありませんが……」


 もごもごと口ごもり、そっと目を伏せる。そんな染井の反応をじっと見つめていた稲穂はほんの少し眉を下げ、困ったような笑みを浮かべる。その二人のやりとりを眺めていた花散は首を傾げる。

 不思議そうにしている花散の視線に気付いた稲穂は表情を変える。そこには昨日のような威圧感はなく、どちらかというと数時間前まで共に遊んでいた緒児のような雰囲気であり、花散は少しばかり戸惑った。


「どうだ、人間。不自由はしていないか」

「……結構快適に過ごしてるよ。その人間呼びさえなければね」

「ははっ、これはすまない。種族名で呼ばれ続ければ誰だってうんざりするというものだ」

「ねえ、染井さん。この男、昨日と今日のキャラ違いすぎない?」

「立場が人を作るという言葉があるでしょう。そういうことですよ」

「学校では教室の隅でキノコ生やしていそう染井さんがここではお上品な奥様になっているみたいに?」

「いちいち人を貶めないと気が済まないのですか?」


 隙あらば悪意でも含んでいそうな言葉でからかってくる花散を睨みつける。おお、怖い。わざとらしく怯えて見せれば、染井は深い溜め息を吐いて降参とでも言うように両手を小さく挙げる。

 それに満足した花散は稲穂から目を離さない黒猫を抱え上げ、勝利報告をする。黒猫は首を傾げ、花散と染井を見比べた後ににゃあと嬉しそうに鳴いてみせる。

 いったい何の勝負をしていたのか。詳細を染井は理解していないが、確かにある敗北感に眉を顰める。そこではっと思い出す。この場に稲穂がいることを。ギギギっと油の切れたブリキ人形のように硬い動きで稲穂の様子を窺う。


「愛乃には良き友がいるのだな」


 煮詰めた砂糖のように甘ったるく、ふわっふわで蕩ける綿菓子のように柔らかい、そんな微笑みを浮かべた稲穂に染井はひゅっと息を呑む。ようやく冷めてきた顔が再び熱くなるのを感じながら身を隠すように縮こまる。

 目の前で繰り広げられるやりとりに砂糖吐きそうと花散は舌を出し、こんなゲロ甘空間に居られるかと黒猫を抱えて立ち上がる。それに気付いた稲穂がすかさず呼び止める。

 この流れで呼び止めるなよと言いたげに眉間に皺を寄せ、ついでに舌打ちをする。それから怠そうに顔を向ける。恋バナを根掘り葉掘り尋ねることは楽しくとも、目の前で仲睦まじく戯れる男女を見る趣味はない。直球でそう伝えれば、稲穂はそう邪険にするなと朗らかに笑う。


「御前の名をまだ聞いていなかったな」

「……花散しのぶ」

「はなちるしのぶ。ふむ、どのようにして書くのだ?」

「花が散ると書いて花散。しのぶはひらがな。ちなみに、私の名前を聞いて八割が似合わないって言うよ」

「貴方もそういうことを気にするのですね」

「まあ、名前そのものは超絶可愛いと思ってるけどね。可愛らしさという点においては私にぴったりでしょ」

「前言撤回します」


 我慢する。人目につかないように身を隠す。人目を避ける。過去や遠くの人、場所を恋い慕う。以上が辞書に記載されるしのぶの意味である。

 名前と性格があまりにもかけ離れている。小さな声でぽつりと名乗るあたり、花散自身もそのことについて気にしているのだろう。そう思ったのも束の間。ここぞとばかりに染井が指摘してみせれば、花散はどんっと胸を張ってみせる。

 二人がそのようなやりとりをしている間、稲穂は花散の名前を舌の上で転がす。聞き慣れない名前を馴染ませるように、外から訪れてきた者を内側に招くように。何度も何度も名前を唱える。


「うむ。とても美しい名だ。貴様によく似合うではないか」

「…………」

「……花散さん?」

「あー、えーっとさあ、んー。さっきの良き友発言といい、こいつの目は節穴なの?」

「そうではないと言いたいところですが、物事の認識に大分偏りがあることは確かです」

「二人して酷い物言いだな」


 想定外の言葉に花散は思考停止する。呆れるほどよく回る舌もぴたりと止まり、代わりに淡褐色の目が忙しなく動く。人の名前を何度も呼んでどういうつもりだと文句をつけようと思っていたのにどうしてそういうことを言うのか。リップグロスが乾き始めた唇をきゅっと結び、言葉を呑み込む。

 頬を染めるカーネーションピンクが深まったことに気付いた染井が声をかければ、はっと我に返ったように顔を上げる。それからすぐにチベットスナギツネのような顔をして稲穂の発言に触れる。花散の否定的な言葉に稲穂はまばたきを数度繰り返してしなやかな指を唇に当てて考える素振りを見せる。


「花の散り際は儚いからこそ美しい。貴様のように今を懸命に生きる人間に相応しい姓だ。しのぶという名にしても、ふむ」

「人のことじろじろ見て、何?」

「やはりとてもよく似合う。似合わないと笑う者の方が節穴だと、俺は思うぞ」

 

 何かを企んでいるのではないかと疑い始め、染井を盾にするように身を隠した花散の様子に稲穂は頬を緩める。慈しみを帯びた微笑みに馴染みのない褒め言葉。背筋がむず痒くなり、花散は小さな悲鳴を上げる。

 今まで見せてきた強気な態度とは打って変わって弱々しくなる花散に稲穂はほおと意地悪げな表情を浮かべる。身の危険を察知した花散はすかさず染井に助けを求めるが、染井は指先が白くなった手を花散の肩に添え、柔らかな微笑みを一つ浮かべる。


「稲穂様がああなってしまえばすべきことはただ一つ。諦めましょう」

「なんっの助けにもなっていない!」

「好奇心が強く、面白いことが好きなお方ですからね。愉快だと思えば人様の迷惑など気にせず突き進みます。……貴方の上位互換みたいなものですね」

「私までディスられた!」

「でぃするとはなんだ」

「悪口的な」

「そうかそうか、二人はそこまで砕けた仲なのだな」

「いや、今のは私が流れ弾を受けただけであって、主にあんたへの言葉だからね」

「……つまり、俺がでぃすられたということか!」

「稲穂様に変な言葉を教えないでください」


 わいわい、きゃんきゃんと騒がしくしていると廊下からぽてぽてと愛らしい足音が聞こえてくる。いち早く気付いた染井は今度こそ米吉が戻ってきたと思い、お盆で両手が塞がっていることを見越して襖を開く。

 内側から襖が開いたことに米吉は染井の心遣いだと捉え、部屋に入り礼を口にしようとする。が、開口一番の言葉は素っ頓狂な悲鳴であった。


「は、な、え」

「わわっ、危ない」

「おっと。怪我はないか?」

「はい、大丈夫です。ありがとうございます」


 温かい茶と餡子がぎっしりとつまった最中を載せた漆器の盆が陽の光をたっぷりと浴びて黄金に煌めく稲のような毛にもふりと埋もれた肉球から滑り落ちかける。咄嗟に手を伸ばした染井のおかげで陶器が飛散することはなかったが、盆の上で湯呑がくるくると回る。

 波打つ薄緑の水面が湯呑みの口から飛び散る前に稲穂が手に取ったことで事なきを得たが、米吉の顔は大事故を起こしていた。染井の安否を確認した後、米吉の顔を見た稲穂はからりと笑う。


「な、な、な」

「おう、米吉。随分と賑やかな顔をしているな」

「何をされているのですか、稲穂様!」

「昨日は皆の前というのもあり、酷い態度をとったからな。様子見だ」

「無礼な人間には当然の態度でございます!」

「我が妻に対する発言を除けばそこまで無礼でもなかろう。見知らぬ地にその身一つで現れた娘と考えれば当然のことだ」


 盆を落として染井に怪我を負わせかねなかった自分の失態を棚に上げ、米吉は怒涛の勢いで花散を批判する。ここまでくるとむしろ清々しい。花散は狐の血管は人間の血管よりも丈夫なのだろうか。自分の一挙一動に対して常に怒っている米吉を心配しながら、茶の味に染まることのなかった最中を無遠慮に手に取る。

 上品な甘みを口腔内に広げ、慣れない長時間の勉強により悲鳴を上げていた脳を癒しながら、稲穂と米吉のやりとりを観賞すること数分。花散は一つの答えを導き出す。


「やっぱりこいつの目、節穴でしょ。自分でも言うのもなんだけど、私って結構敵を作る態度をそれなりに取ってるよ」

「稲穂様は基本的に人の子がお好きなのですよ。なので立場を取り払った状態であれば、大体のことは許しますし、受け入れます。だから神様に成っていたわけです」

「人間が好きっていうのが神様になる条件なの?」

「そういうわけでもありませんが。そのあたりを簡潔に話すのは難しいですね」


 それを理解するためには神の成り立ちから知る必要があり、そのためにはそもそも神とはどういう存在かを説明する必要がある。さて、この手の知識を一切有していないであろう花散にどう教えたらよいのか。

 盆をローテーブルに置き、悩ましげな声を上げながらお茶を飲む。それから、本当に知りたいのであればまずはここに住まう者たちのことを知るべきだと伝え、鞄の中から一冊の本を取り出す。


「何これ」

「図鑑です。私が此方側に訪れるようになったとき、稲穂様がくださったものです。知識の補填のお役に立つかと」

「つまり、嫁入り時に貰ったものってことでしょ。そんな大事なものを私に貸していいの?」

「……これはそれよりもっと前に受け取ったものなので」


 花散は差し出された図鑑を受け取り、最中を触れていない方の手でそっと表紙を撫でる。題名は達筆な字で書かれた糸かがり綴じの図鑑は手作り感があり、図鑑に目を向けた稲穂が懐かしいと笑みを浮かべる様子から作り手が彼であることが予想される。そして米吉が染井にそれをお渡しするなんて! と悲鳴のような声を上げていることから、その予想は合っているのだろう。

 そんなものを本当に借りてよいのかと確認するように目を向ければ、染井はぱちくりとまばたきを繰り返してから縦に頷く。


「じゃあ、ありがたーく使わせてもらおうかな」

「そうか、その図鑑を使って学ぶというのであれば……よし、良いことを思いついたぞ」

「稲穂様。そういう顔されているときの良いこととは大体米吉の胃に穴が開くようなものですよね」

「今回はこれ以上にないくらいの名案だぞ」


 大きな手を合わせ、パンッと乾いた音を鳴らした稲穂は声を弾ませる。特徴的な瞳孔をした琥珀色の目を三日月のように細める。少年のように無邪気な笑顔に染井は小さな溜め息を吐き出し、頬を引き攣らせて固まった米吉を慰める。

 どう見ても歓迎する空気ではない中、稲穂は気にせずその名案とやらを声高らかに命じる。


「米吉。お前を花散しのぶの世話役に任命する」

「は?」

「な、な、な……っ、いくら稲穂様のご命令とはいえ、そのようなことはできませぬ! さくら様のような尊きお方ならともかく、このような人間の世話など!」

「食わず嫌いをせず励むが良い」


 直後、米吉が頭を抱えて叫んだのはもちろんのこと。

 身内ネタのように盛り上がるやりとりを他人事のように眺めていた花散は、ちゃっかりと手にしていた二つ目の最中を畳に落とすことになる。

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透明色の境界線 きこりぃぬ・こまき @kikorynu

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