第65話 振付師とコーチ
「そこはもっと全身を使って。笑顔も忘れずに!」
明るく爽やかなメロディーは、ビッグバンドの名曲『Sing Sing Sing』より。
ミシェルコーチが制作する涼香のショートプログラムは、バレエを軸にしつつ、リズミカルに身体を動かすジャズダンスを用いることで、演技の幅を広げる。
「音楽を聞くときは主旋律だけじゃなくてベース、特にドラムを意識しろ。」
「流石、こういう指導は頼りになるわね。」
時折、俺もリンクに入って足さばきをチェックさせてもらうこともある。
「ジャンプは私に全部投げたくせに」とミシェルコーチに毒づかれた。
「…俺には、トリプルアクセルが限界でしたから。」
フライングシットスピンを挟んで、基礎点が1.1倍になる最後のジャンプ。
左足のインサイドに乗って三回転してから、トウを突かず、右足のエッジのみで再び飛び上がる。
トリプルフリップ+トリプルループが成功すると、周りのスケーターからも拍手が起こった。
「セカンドループまで飛べるの?」
「元々はループの高さを出すための練習だったんですけど、成功率次第で入れてみてもいいかなって。」
ハイタッチを交わす涼香の表情には、確かな笑みが垣間見える。
少なくとも、ホームリンクでの練習よりは
「振付をやってみませんか?」
彼女との出会いは、ちょうど一年前。
現役を退いて、プロスケーターとして活動していた俺に突如舞い込んだ依頼。
この頃シニアデビューを控えていた涼香は、類いまれなる実績から「次世代エース」とも呼ばれていた。
ジャッジ受けを狙ったしっとりした選曲や着実にPCSとGOEを重ね、多回転の技で差をつける。
まるで、教科書のような稼ぎ方を間違っていたとは思わない。
しかし、どこか物足りなさも憶えた。
「お前はどう演じたい?」
昨シーズンを通じて、問い続けたこと。
はっきり言って、俺にジャンプの才能はなかった。
だからこそ、表現を追求する楽しさを知ってほしかった。
(…そのためのフリーだ)
四回転とプログラムの完成度の両立。
彼女なら、それが可能だ。
国別対抗戦の『SAYURI』はあくまで過程の一つ。
「涼香が世界選手権に出てから、スケートを始めたいって生徒が増えたの。伊吹くんには感謝してるわ。」
「弱小クラブを支えてくれた」と、当時まだメインの指導者だった谷沢さんが語る。
バンクーバーオリンピックの頃は、今より回転不足の判定が厳しく、周りの四回転ジャンパーがミスをしたことで、俺は銅メダルの称号を得た。
偶然にも手にした栄光は、限りなく付いてくる。
クラブの方針に逆らう指導すら、「メダリストが言うのなら正しい」と済まされてしまうのだ。
もしオリンピックで表彰台に登っていなければ、世間の扱いも違っていたはず。
それほどまでに、メダリストは特別な存在だった。
「あの子はうちのいい看板になる。」
「…現状に目を瞑ってまで欲しいのですか?」
「涼香の存在は、私たちが背負うには重すぎるもの。大きな才能は恨まれても仕方ないわ。」
仕方ないと片づけられるのか。
この人たちは、涼香の演技の本質には興味がない。
ただ、結果によってもたらされる恩恵を享受したいだけなんだと。
「また贔屓されてるよ。天才は気楽で羨ましいわ。」
「同い年の人が辞めちゃったのも柊木さんのせいじゃない?絶対勝てないってわかってたら、やる気もなくなるよね。」
ノービス世代から憧れの的であっても、ジュニアのリンクメイト内で横行する陰口。
「ここに未練があるのか?」
「転校したくないっていうのもあるんですけど、海外だと七海に会えなくなるのが心配で。」
合宿前にふと尋ねた。
入院している友人のためにも、離れる訳にはいかない。
「だったら、リンクの上ぐらい一人でも構わない」と彼女は言い切る。
「…わかった。俺が責任を持って、ミラノの金を獲らせてやる。」
「コーチになったの、本当だったんだな。」
「自分で決めたんです。…俺があいつのスケートに向き合うと。」
かつてのライバルであり、先輩の『宇佐美 悠介』
オフシーズン初頭に、コーチ就任の相談を持ちかけると、想定外の反応が来た。
「随分気に入っているようで。」
「そちらに言われたくありません。綾瀬くんが心配なのはわかりますが、いい加減弟子離れしたらどうですか。」
「…詩音はすぐ無茶をするからな。」
(父親かよ)
カナダ留学後も定期的に連絡を取っているらしい。
少々過保護すぎる気もするが、先輩と綾瀬くんの間の関係性がわかる。
「わかっています。振付師と違うことも。」
「覚悟の上なら、俺は何も言うつもりはない。」
特に探ることなく、「全日本で会おう」とだけ告げられた。
「伊吹先生、フリーの曲かけお願いしてもいいですか?」
「ああ。」
ショートプログラムの手直しが終わったのか、涼香の声がする。
過去に肖っていた意識を引き戻し、CDを掴んだ。
(きっと、あいつなら)
理想を形にしてくれると信じて託した。
俺ができなかった『Art on ice』を
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