第64話 シャンペリーのアルプス

「スイスへようこそ!」


羽田を出発して、ヘルシンキでの乗り継ぎを含んで約二十時間のフライト。

ジュネーブ空港のターミナルで出迎えたのは、お馴染みのペア選手。

私が合宿で訪れるシャンペリーのリンクは寧々さんたちのホームということもあり、彼らのコーチ『ミシェル・ユーベル』さんも快く招待してくれた。


「伊吹先生もご無沙汰しています。」


「こちらこそ、わざわざありがとう。」


丁寧な口調で彰さんが礼をすると、大人同士の挨拶が続く。

実は、こういった遠征にかかる指導者の帯同費は原則スケーターの自己負担。

(国際大会であれば選手の宿泊費用は、連盟が出してくれる。)

なのに、伊吹先生は「俺の分は払わなくていい」と言った。

クラブの理事長が今までの試合を合わせて賄っているらしい。


「…保護者というより、まるでお嬢様のボディーガードね。」


私は見慣れているから気にしないのだけど、黒づくめの服装は逆に目を引くのだろうか。

寧々さんの素直な感想に、思わず吹き出してしまった。


「第一印象のせいか、ノービスの子には今だに怖がられてて。…本人も気にしてるみたいなんですけど。」


「威圧感の問題?あ、涼香は私の隣ね。」


車のトランクにスーツケースを積み、ポンポンと叩かれた後部座席に並んだ。

助手席に伊吹先生が腰を下ろし、彰さんの運転に任せてリンクへと向かう。

日本だとハンドルが右にあるが、ヨーロッパの多くは左ハンドル。

普段と逆側の窓から見えた景色は、童話の世界のようなアルプスだった。


(詩音さんにも送ろうかな)


「スズカ!」


到着した場所には、思いがけない先客がいた。

ブロンドの髪を垂らした天真爛漫な美少女。

世界選手権で会ったあの厳しいコーチが渡航を許したのか。

リュドミラは私の疑問に、「アカデミーの入学試験でリンクが使えないから、他の場所で練習したいって言ったの。何とか説得できたわ。」と答える。


「入学試験?」


「優秀な生徒には奨学金が出るのを狙って、毎年希望者が殺到するのよ。」


国内選りすぐりのエリートを集めたアカデミーは、生徒の層も厚く、年二回のテストで基準を満たしていないと判断されれば除名という過酷さ。

それ故に鍛えられた技術と精神力が近年のロシアの強さを支えているのかもしれない。


「ここは空気も綺麗だし、来てよかった。」


「そうね。」


早速スケート靴に履き替えて、ウォーミングアップをしてから氷の上に踏み入れた。

まずは四十五分間、基礎練習だけをみっちりやる。(指示は英語だけど、ほとんどスケート用語なので理解できる)

ただ力を入れて漕ぐのでは体力を消費してしまう。

エッジをインとアウトに傾け、自然に加速することが望ましいとされている。

特にアイスダンスの足さばきは、シングルでも参考になった。


「ルッツはどうだ?」


「片足で降りられるようにはなりました。」


「こんなに広い場所を使わせてもらえるのも貴重だ。思う存分飛んでおけ。」


フェンス越しに練習を見ていた伊吹先生からペットボトルを受け取る。

高山地帯は空気が薄く疲れやすいと言われがちだけど、抵抗が少ない分、ジャンプが飛びやすいメリットもある。

既に試合で挑戦して、徐々に確率が上がってきた四回転トーループ。

そして、ハーネスを使って感覚を身につけた後、自分でも何度か試した新技の四回転ルッツ。

普段とは違い、スペース目一杯滑れる機会は大事にしたい。


「回転は足りてるから、もうちょっとね。エッジもクリーンでいい感じよ。」


ミシェルコーチの助言に頷く。

着氷はできたとしても、まだ本番で導入できるクオリティには及ばない。


(…今のって)


私を横切った影。

宙を舞ったループジャンプは途中で開いてしまい、両足着氷。

しかし、確と四回転目に辿り着きかけていた。


「これで四種類?」


「うん。グランプリシリーズは五本構成でいくつもり。」


四回転を五本組み込むなんて、男子のトップでも難しい。

本人は至って平然としているが。


「ニッポンの選手って、トリプルアクセル上手なイメージあるんだけど、何でなのかしら?」


(…そういえば)


今のジュニアの子たちもトリプルアクセルを習得し始めているし、現に私がそうだった。

ロシアだと先に四回転を飛んでしまうから、珍しいという。


「さっきのアクセルもう一回飛んでみてくれる?」


突然、「スロージャンプの手本にしたい。」と彰さんにお願いされた。


「…でも、ペアだとあまり参考にならない気が」


「涼香ちゃんのは踏み切りからランディングまで全く無駄な力が入ってないんだ。…駄目かな?」


そこまで褒められると、断るのも忍びない。

返事をしたと同時に寧々さんが「これでお願いしまーす」と軽い感じで伊吹先生にスマホを渡す。


「…そんなに見られると、飛びにくいんだけど。」


「この際、私も習得しようかなって。」


リュドミラの他、便乗して集まったギャラリーの間を縫い、カーブを追いかける。

スピードを保ったまま、高く、遠くへ。

頭に描くのは、彼のトリプルアクセルだった。

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