第66話 約束
コロラドスプリングスでの合宿も終え、いよいよシーズンインの初夏。
既に、ジュニアグランプリシリーズや国内試合も開催され始めた。
「ニッポンの大会?」
俺がスマホでスクロールしていたのは、滋賀県で行われたローカル大会について。
ティナが覗き込んだニュースサイトに映る、表彰台の頂上に乗った拓也。
昨シーズンの『パイレーツ・オブ・カリビアン』とは大きく路線を変えた、サン=サーンスの交響詩『死の舞踏』
市原先生の思惑が功を奏したのか、順調なスタートダッシュを切った。
「初戦であんなに飛ばして大丈夫なの?」
「賞品がブランド牛だから、やたら気合いが入ってたみたいで。俺もジュニア頃に一回貰ったな。」
「へー、面白そうね。」
フィギュアスケートにも賞金は存在するが、原則ISU公認大会のみ。
全日本ですら参加費を取られるので、むしろマイナスだ。
(価格は世界選手権→ユーロ、四大陸→グランプリファイナルの順。世界選手権優勝で約500万円、オリンピックであれば、これと同じぐらいの金額に日本スケート連盟から追加報酬が下る。)
しかし、この「げんさんサマーカップ」主催のスポンサーである食品メーカーは、各カテゴリーの優勝者に近江牛を副賞として用意した。
そのため、毎年トップ選手による争奪戦が繰り広げられる。
「俺たちもそろそろだな。ティナはフランス大会からか?」
「ええ。選考に受かるには、グランプリシリーズで結果を残さないと。…きっとオリンピックを狙えるのも、下の世代がいない今年がラストチャンスね。」
去年まで15歳(6月30日までに)だった年齢制限が17に引き上げとなり、ロシアなどの有望なジュニアスケーターたちがシニアに移行できず、選考の対象を外れた。
逆に、ベテランにとっては最高のチャンスとも言える。
先日発表されたアサイン。
俺が第二戦のカナダ大会と第五戦フィンランド大会で、ティナが第三戦フランス大会と第六戦日本大会。
(世界選手権6位以内は、アサインの希望を優先して通してもらえる。)
多分、これからもスケカナにはお世話になるだろう。
「でも、トゥーランドットの評判は良いんだろ?」
「後はPCSがどれだけ伸ばせるか、ってところね。」
ティナのフリーは、中国の姫が主役のプッチーニが誇るオペラ『トゥーランドット』
ミステリアスな魅力を感じられるとアイスショーでも好評だったらしい。
「やっぱり、お前は妖精より悪女の方が似合うよ。」
「ちょっとそれどういう意味?」
(…素直に言えばいいのに)
急に姿を現したかと思えば、ライデンが軽口を叩く。
こうした喧嘩も夫婦漫才のように見えなくもなかった。
「ライデンの馬鹿。調子に乗って、後悔しても知らないわよ!」
あからさまに足音を立てながら、ティナがリンクを出る。
「いいのか?」
「うるさいのがいなくなって好都合だ。」
(…そんなこと言って)
いつか、本気で嫌われたらどうするんだか。
「今日はシオンに用があっただけだからな。」
「…俺に?」
それより、聞きたいことがある。
今日の練習に参加しなかった理由。
ニコラと奥で何やら話していたのと、関わっているのだろうか。
「…アクセルの練習中に派手に転けてさ、その時にやっちまったみたいで」
ジーンズの裾を捲り、現れたテーピング跡。
彼の脚を覆う包帯が真っ先に目についた。
合宿で四回転アクセルを転んだ際、打ちどころが悪く、右足首の靭帯を負傷してしまったという。
「別に大した怪我じゃないし、数週間安静にすれば治る。…でも、グランプリシリーズはスキップすることになった。」
ライデンの派遣の予定は、第一戦のアメリカ大会と俺と同じフィンランド大会。
この二つを欠場し、一月の全米選手権に照準を合わせると決めた。
「俺は出るつもりだったんだけど、ニコラに言われたんだ。『焦るのは今じゃない』ってな。」
誰よりもファイナルでのメダルを欲していたはず。
無理を押し通して、大事な試合で力を発揮できない方が酷というニコラの判断も正しい。
しかし、本人の望みとは反する。
喉に引っ掛かった蟠りが、紡ぎかけた言葉を塞き止めた。
「…悪い。シオンには辛い話だったな。」
無言で首を横に振る。
怪我で足踏みを余儀なくされるもどかしさは、嫌でも理解できるのだ。
腰掛けているロッカールームのベンチに置かれたタオルに寄った皺。
誰かがその箇所を握り締めていたことが明らかだった。
「逆に俺がいないってことは、金メダルを獲れるチャンスだ。」
景気付けるように、朗らかな声が飛んだ。
ここで気を遣う必要はない。
「最初からそのつもりだ」と返す。
「じゃあ、約束しよう。」
凛とした音が空気を揺らした。
息を呑み、拳を携える。
「次に俺と戦うまで、誰にも負けるなよ。」
ライデンの手が俺の髪を乱雑にかき回す。
わしゃわしゃと頭を撫でるそれは、いつもなら払いのけていたもの。
「…今日は素直だな」と穏やかな笑みを浮かべ、ヘーゼルの瞳が迷いなく見つめる。
窓辺に差し込んだ、ほのかに彼の輪郭を照らし出す夕焼けの光に、俺の視線は奪われていた。
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