第60話 後ろから隣へ

「一番からドュミ・プリエを二回。バーは握らず、添えるだけね。」


その日の朝はバレエからスタート。

バーを持ち、指示された足のポジションに合わせる。

『プリエ』とは、フランス語で「膝が曲がった状態」の意で、バレエの中でも基礎的な動作の一つ。

両脚を付け根より外旋、踵は床面を離れずにアキレス腱を伸ばす。

バレエとフィギュアの関係は、柔軟性や平衡感覚を身につけ、多岐に渡って「魅せる力」を養う。


「足を上げるときは、甲がいつも外側になるように気をつけろよ。」


「わかった。」


フロアで踊るセンターレッスンでは、主にアームス(腕)を重点的に教えてもらう。

手で円を作る「アン・オー」に始まり、外向きに返す「アロンジェ」、フリーレッグを後ろに上げて半身を倒す「アラベスク」と次第に複雑な姿勢に移る。

講師に修正された角度を何度も鏡で確認しているシオンを傍に、俺は新プログラムについて思考を巡らせていた。



「本当にやる気か?」


バレエレッスンの後は、昼食を挟んで氷上練習に当てられる。

各々がスケーティングを磨く間、俺はエレメンツの構成をエミールに伝えた。

メモを見た彼の表情から察するに、無茶だというのは承知している。

フリーで四回転ジャンプを繰り返して使えるのは一種類だけ。(その内、片方は必ずコンビネーションにしなければならない。)

俺が今飛べる四回転は五種類。

つまり、最大六回まで組み込めるということだ。


「そうでもしないと、シオンに追い抜かれるのも時間の問題だ。」


厳しいトレーニングにも弱音を吐かず、「今の自分には何が必要か」を研究、実践している。

若さ故の吸収力の高さ。

それに勝つには俺も相応の進化しなければならなかった。

スピーカーから流れる音楽は、伝説のアーティスト『エルトン・ジョン』のブレイクを描いた映画『ロケットマン』

レジェンドの引退によって、舞い降りたチャンスと滾る闘志。

俺のスケート人生こそが今シーズンのテーマだ。


(…本当、集中してると気づかないな)


決められた練習時間が終わり、リンクが閉まる六時まではそれぞれの判断に委ねられる。

といっても、先に帰るなんてことはない。

その旨を確認しようとシオンを呼んでみる。

だが、ショート『007』のステップを踏む彼の耳は塞がれたまま。

動きが止まったところで試しに肩を叩くと、ビクリと慄いた。


「…急に驚かせるな。」


「さっきから呼んでるんだけど。ゾーンに入ると聞こえなくなるのか?」


「考え事してるとそうかも。…この部分が上手くいかなくて。」


背中を大きく反らせる振り付けに苦戦しているらしい。

からかえばツンケンした態度だが、シオンはスケートに対しては真摯が故に俺もつい教えたくなってしまう。


「あえて溜めた方がメリハリはつく。後は表情だな。ジャッジに『俺を見ろ!』ってアピールする。」


「…ライデンが言うと説得力あるな。」


まだ照れがあるのか、表情はぎこちない。

こういうのは思い切ってやった方が見てる方も喜ぶ。


「礼はループの指南で頼むわ。」


左足のエッジだけで踏み切るループは他のジャンプに比べて、飛距離が出ずらい。

そのため、基礎点の割に苦手な選手も多い。(アクセル→ルッツ→フリップ→ループ→サルコウ→トーループの順番)

多少ファーストが崩れてもバランスを修正できるトーループとは違い、ループは余裕のあるジャンプにしか付けられず、特にセカンドジャンプに持ってくるのは至難の業だ。

明日はお互い、地元メディアの取材が入っている。

周りの目を憚らず、好きなだけ飛べるこの時間を無駄には仕舞いと、あちこちで着氷の音が鳴った。


「そう考えるとセカンドループって少ないよな。ワールドでもティナぐらいしかやってなかったし。」


「前に涼香も練習してるって言ってた。あいつ器用だから、リカバリーで色々飛べるんだよ。」


(…連絡取ってんだな)


ノービス時代からの仲なのは知っているが、国別対抗戦を機に距離が近くなったと感じているのは俺だけなのか。

純粋な少年がその心を自覚するのは、果たしていつになるのやら。


「…これは?」


「エキシ用の音源。ちょっと試したいことがあってな。」


通常スケーターは試合用のプログラムの他に、エキシビションを作っておく。

名目上は上位選手による模範演技。(オリンピックや世界選手権なら原則5位以内、開催国の選手が招待されることもある。)

個性を最大限に発揮したコミカルな演技が注目を集める。

差し出した一枚のCDケース。

俺が提案したのは、アイスショーなんかで偶に見かけるスケーター同士のコラボ。


「メダリスト同士のコラボ。オリンピックのワンツーフィニッシュの締めにどうだ?」


「自分が金獲るの前提かよ。言っとくけど、負けるつもりはねえよ。」


「いいぜ。かかってこいよ!」


俺の背を追いかけていた後輩はもういない。

隣にいるのは、本気で勝負を申し込む挑戦者の姿だった。

もしかしたら、ずっと望んでいたのかもしれない。

時には仲間、時には敵。

そんなライバルの存在を。




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