第10話朝日が昇ったら
【朝日が昇ったら】
しばらくぼんやり座っていたが辺りが段々と明るくなってきた。どうやら現実で神社にいるらしい。座っているのは神楽殿の真ん前だった。
理解する気も起きなくてとりあえず山の奥へ歩いて行く。土が踏み固められ両側から巨木の枝が迫る細い道になった。左側にカーブを描く下り道は北側に降りられる地元の抜け道だ。
「志紀!? 志紀~~~~!!」
下の方で光がチラチラしているな、と思っていたら羽智の声が木霊した。長い足で急な坂道をダッシュしてくる。チラチラしていたのは懐中電灯だったようだ。
「羽智?」
「なんでそっちが不思議そうなのこの子はもお~! っていうか泥だらけ! なにこれ袖ボロボロじゃん! 怪我は? 大丈夫?」
オネエなのかオカンなのか幼なじみなのか、最近羽智のキャラがわからない。
髪についている泥を払われ腕を取られシャツまでめくられる。
「先輩生きてたあ。もうヤです。こんなに人を心配したの初めてです」
ありがとうな、伊音。前髪上がってるし眼鏡ないし、お前がどんなに取り乱して俺を心配してくれてたのかよくわかるわ。女子がうるさそうだからやっぱり顔は隠してたほうがいいな。
「団地は酷い有様だしお前だけいないし、心配掛けさせやがって」
ちょっと部長、泣いてます? 男泣きが似合うのはポイント高いですよ。
三人はよってたかって俺の格好に驚き、心配して、安心してくれた。
だいぶ遅れて先輩が道を上ってくる。なんともないようで安心した。でも、なんでそんな悲しい顔で笑うわけ?
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
羽智たちは夜の間に団地に到着し、外でずっと待ってくれていた。周囲を見回り、何度も五階の東端を見上げていたら窓ガラスが割れてベランダから犬が落ちてきたんだとか。犬は地面に着く前に消えたが何か起こっているのは確実なので外階段を使って向かおうとしたら赤いリボンにお守りを結びつけた黒猫が座っていて、踊り場には俺のギターケースを抱えた泉が倒れていたらしい。
救急車を呼んで、一緒に到着した風波の指示で警察も呼んで、騒いでいるうちに五階から生き残った奴が降りてきてさらに現場は騒然とした。
俺が団地に戻ったとき、団地からは次々と遺体が発見されていた。冷蔵庫に詰め込まれた吉宏の母親。失踪していた父親は配管が通る壁と壁の隙間に詰め込まれていたらしい。壁に穴を開けて取り出したらしいから、人間業じゃないだろう。
警察に保護されるまでに吉野に聞いた話だと、俺と泉がベランダから飛び出してから、先輩はずっと踊っていたらしい。不思議な踊りだったからみんなで手を合わせて拝んだっていうから相当シュールな光景になっていたはずだ。途中飛び込んできた犬も先輩が撃退してくれたらしい。
先輩が踊り終わると爺さんが消えていて、「もう大丈夫じゃ」と、言われて降りてきたら救急隊員やら警察やらに囲まれて驚いたと言っていた。
病院に運ばれた泉はすぐに意識を取り戻して両親と面会できたらしい。ただ、間々原は同じ頃息を引き取ったそうだ。小山さんの家では母子の骨壺が割れて骨が散乱したらしい。
そのほかにも死体が見つかり、助かったセーラー服と学ランは毛布にくるまって泣いていた。
夜が明けたら裏山で吉宏の捜索が始まった。
龍神様的には裏山も自分の庭みたいだったが人間的には裏山は個人の持ち物だ。そこは風波が手を回して警察が入れるようにしたらしい。
俺は疲労で倒れそうになる体に鞭打って捜索に協力した。吉宏はすぐに見つかった。それは俺が先輩と掘り返した場所だった。
そして、その近くからさらにもう一体白骨体が発見された。こっちはだいぶ古い骨らしい。
警察が骨を持っていくのを呆然と見送った。
あれは、先輩だ。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
一つの団地から行方不明者は出てくるわバラバラ死体は出てくるわ動物の死骸は出てくるわで町を巻き込んでの大騒動に発展した。俺を含め軽音部メンバーは事情聴取され解放されたのは翌日の夕方だ。先輩は、いつの間にか姿を消していた。
疲れているはずなのにじっとしていられなくて、シャワーを浴びてまた制服に着替えた。ギターを背負って夜道を歩く。新品なのに傷だらけだ。中のギターは無事なのでケースとしての優秀さを実証してしまった。
交差点を渡り裏門から学校に入る。黒猫は俺の横をぴったりと着いてくる。この時間じゃ施錠されているはずなのに外階段から中に繋がるドアは開いていた。合鍵を持っているが軽音部のドアを開けるのには必要なかった。
窓際の椅子に先輩が座っていた。中庭の外灯か月明かりか、白い頬を仄かに照らしている。外を眺めていた横顔がこっちを向いた。
「ご苦労様じゃったね。坊、こちらにおいで」
薄く笑って並べられた椅子の座面をポンポン叩く。俺は黙って先輩の隣に座った。ギターケースを脇に立てかけ隣の先輩を見る。薄暗い部室でも赤い瞳はキレイに輝いている。今度石を選ぶときは赤い石にしよう。
「残してった奴らのこと、ありがとうな」
「なに、適材適所じゃよ。坊も、よくがんばったのじゃ」
自分のことより俺を褒めるときのほうが誇らしげに笑う。
「坊を守ると息巻いておったのに、結局坊に助けてもらったのじゃ。礼を言うならワシのほうじゃよ、ありがとう」
ありがとうが素直に受け取れなくて唇を噛む。そんな俺を見て先輩は困ったように笑う。
「いつ?」
「はや?」
まだ泣くには早い。眉間に力を込める。
「先輩が死んだのは、いつ?」
ひどいことを訊いているっていうのに先輩は柔らかく笑う。
「いつかと問われると困るのじゃ。大昔過ぎて覚えておらんのじゃ。ここ百年ぐらいは移り変わりが激しくてついて行くのがやっとじゃったから、よく覚えておらんのじゃよ。はて、平家が落ちぶれた頃じゃったか天下を争っていた時代じゃったか……」
寸前まで来ていた涙が引っ込んだ。だいぶ開きないか? 戦国時代だって百五十年ぐらいあるだろ。どんだけガバガバなんだよ。
「少なくとも江戸に幕府が置かれた頃には死んでいたのじゃ」
近くにスーパーができたみたいなノリで言うな。はあ、もう、しんみりするかとおもってたらこれだよ。
「じゃあ、なに? 少なくとも四百年くらいはずっと女子高生してたの?」
江戸時代に女子高生なんていなかっただろうけど。
「そうなんじゃよ。昔は神社に引きこもっていたのじゃが、学校が出来てからはこっちに住んでいる状態じゃな」
この学校もそれなりに歴史あったような気がするんだよな。住んでるって学校のヌシ――――おいちょっとまて。
「じゃあ俺が先輩送っていった家ってなに? 俺をごまかすための嘘?」
先輩はあさっての方向に目を逸らす。
「おい」
小さい頭を両手で掴んでこっちを向かせた。赤い瞳が揺れに揺れる。途中で開き直ったのか唇が尖った。
「じゃって、学校や神社に行ったら坊は余計に心配するじゃろ? あそこならまあ、ギリギリじゃろ?」
じゃろ? じゃねえわ。なに俺の心配してんだよ。ばつの悪そうな顔で上目遣いすんな。
ふわふわ柔らかい先輩の髪をめちゃくちゃにかき混ぜてやった。
「ふぎゃあ~っ……なにするんじゃ! 女子の髪は丁寧に扱うものじゃよ!?」
こんなことでもなければトリートメントつけてブラッシングしてやるわ。
「俺はなあ、先輩が親に放置されてるんじゃねえかってめちゃくちゃ心配したんだぞ? スマホも持ってねえし金ももってねえし食い意地張ってるし。そもそも何も持ってねえし」
マジで! 本気で! 実家に連れて行こうか悩んだんだからな!? 神社が家ですって言われた方が百倍安心できたし、先輩ならありえるかもとか納得したつうの。
言葉にした倍の文句を飲み込んだ俺の前で先輩はワタワタし始めた。
たぶん俺、今目が据わっている。
手を上げたり下げたり閉じたり開いたり。唇は動くけど言葉はでてこない。赤い宝石があっちを見てこっちを見て、一度合った視線が上にずれる。
「ぼ、坊じゃってワシに隠し事してたじゃろ!? なんじゃその髪は! 冬毛の狼みたいな髪をしおって! そんなキレイな髪を隠していたなんてずるいのじゃ!」
隠し事のレベルが違うだろ。なに逆ギレしてんだ。最終的に褒めてるし。
シャワーを浴びたときにカラーリングを全部落としてきたから今の俺は地毛の色だ。かくれんぼで龍神様に構われた後遺症だか副作用だかで寝込んで起きたら髪色がすっかり抜け落ちていた。じいちゃんばあちゃんは呑気に生え替わるだろうって言ってたけど、それ以来俺の髪は灰色。よく言えば銀色で、ヘアカラー的にはホワイトアッシュだろうか。とにかく見た目が派手なので普段は暗い色に染めていた。
「地毛の方が派手で教師からの文句が目に見えてんだから仕方ねえだろ」
「らなワシも仕方ないのじゃ。物事を円滑に進めるには多少の嘘は仕方ないのじゃ」
腕を組んで横を向き顎をあげる。絵に描いたように開き直りやがって。
この人どうしてやろうかと見ているとどんどん顎が下がっていく。伏せられたまぶたの隙間に見えた赤は水面越しの宝石を覗いているようだった。
「おかしな髪色で、琥珀色の瞳で……」
組んでいた腕がほどかれゆっくりと俺に向かって伸びてくる。
「お歌が上手で、琵琶の音色が美しくて優しくて……ワシにいろんなことを教えてくれたのじゃ」
頬を撫でた手は震えていた。
「優しくて、優しくて、ぬくくて、目が合うたびにワシのことを褒めて」
俺に触れる手を握ってしまってもいいんだろうか。水面に沈んでいく赤い宝石を掬い上げてもいいんだろうか。
「先輩――――」
スローモーションで見えた。両手が伸びてきて押し倒された。椅子から落ちて背中から床に転がる。先輩の目から零れた涙が粒になって散って水晶になった。
馬乗りになった先輩が見下ろしてくる。赤い瞳から透明な粒がキラキラ落ちてきて頬を濡らした。
「ずっと一緒だと誓ったのに……先に行きおって……百年もすれば迎えに来てくれるかと待っておったのに一向に現れんし、ワシはどんどん忘れていく。潔く消えられればどれほど楽かとおもったことか……なのにじゃ、諦めておったのに、坊が……坊が来てくれたから……」
結局この人は俺のせいで泣くんだな。過去はいつだってキレイな笑顔を連れてくるのに。
「どんなに似ていても坊が彼のお人でないのはわかっておるのじゃ……でも……でも、ワシだけは……ワシだけは、また会えたっておもっても許されるじゃろうってっ」
頭を引き寄せて抱きしめたけれど、こんなのどうしていいかわからないだろ。違う男だってわかってんのに待ちすぎて代わりにするしかなくて、一人で嬉しいと寂しいを抱え込んで、そんな人をどう慰めていいかわからない。
先輩が俺を「坊」って呼ぶのは最後の抵抗だったのだろう。わずかばかりの一線が、俺たちを踏みとどまらせていた。
たぶん俺が見た夢はこれを警戒していたんだ。触れれば触れただけ先輩を苦しめる。それでも触れてしまった罪悪感に体がバラバラになりそうだった。
シャツの襟がぬるく濡れていく。ブレザーの両脇を強く握られているから満足に腕も動かせない。
「ごめん。苦しかったよな。出会わなきゃよかったのかな」
そんなのは嫌だけれど。
「嫌じゃ」
ここで嬉しいって思ったら、やっぱりダメ?
「どんなに苦しくなってもいいのじゃ。もう一度だけ会えたら、村人全員祟り殺してやったワシの祈りも報われるのじゃ」
…………………………………………は?
喉元に顔を埋めているからおかしなように聞こえたのだろうか。いや~まて、ちょっと待て。ツッコミが追いつかない。一言一句聞き逃すまいと神経を全て先輩に向けていたんだ、間違えるはずない。この人言ったよな? 絶対言ったよな? 全員祟り殺したって。あ~、そういや本気の呪いがどうのこうので殺し合いじゃ~みたいなこと言ってたな~。
またこのパターンか。
「祟り殺したの? なんで?」
胸の上の先輩が小さく跳ねた。失言だったのかよ。
「し、知らんのじゃ。祟り殺した? なんのことじゃ? こんな雰囲気の場面で物騒な冗談を言うでないのじゃ」
「全部アンタに返すよ」
逃げだそうとするから小さな背中に回した腕に力を込めた。ブレザーが嫌な音を立てたが構わない。
「怒らねえし嫌わねえから言ってみろよ。なんで祟り殺したって?」
先輩は俺の胸でぶーぶー文句を言っていたがこれ見よがしなため息を吐いた後少し黙ってからしゃべり出した。
「彼のお人は旅の芸能者だったのじゃ。村々を巡って五穀豊穣の祈りを神に納めるのじゃ。ワシは龍神様の踊り巫女でな、楽を奏でる彼のお人と神楽を納めていたのじゃ」
当時の龍神様は荒れ気味でたつ川はよく氾濫していたんだそうな。
龍神様にも思春期ってあったのか? 今でもよく増水してヒヤヒヤするのに、堤防のなかった昔なら余計だろう。
「龍神様もワシらの神楽を気に入ってくれてな、たつ川もだいぶ穏やかになったのじゃ。じゃのにあの連中、彼のお人の持つわずかばかりの金品に目が眩んで殺しおったのじゃ」
肌に重低音が響く。
「しかもこともあろうにたつ川に投げ捨ておった。神楽を失い川まで汚された龍神様がそれはそれは怒り狂ってのう、川の形は変わるし村の半分は沈む大惨事になったのじゃ。ざまあないのじゃ」
投げ捨てる言い方が怖い。たまに見せる容赦のなさはここにあるのか。
「さらにじゃよ! あの学習せぬバカ共!」
ヒートアップしてしまった先輩は俺の腕を振り切って起き上がった。俺の胸をバンバン叩く。痛いっ苦しいっ! 俺の胸板部長と違ってそこそこにしか鍛えてないんですよ!?
「川が荒れたのは彼のお人の祟りだとぬかしおったのじゃ!! 彼のお人はそんなことを望むお人ではないのじゃ! 村のために三日三晩琵琶を弾き続けたお人を殺すだけでは飽き足らず辱めおってからに救いようのないバカ共を片端から切り捨ててやろうかとおもったのじゃ!」
赤い目が真っ赤に燃えている。普段はふわふわでほわほわでポンコツなのになかなか苛烈だ。
「ワシが神社の宝刀を研いでいる間にあやつら何をしたと思う!? 恋人と引き離されて祟っておるのじゃから恋人を返してやればよいとかほざいてワシを人柱にしたんじゃよ! どこまで彼のお人を侮辱すれば気が済むのか呆れて物も言えぬ! 言えぬ代わりに川水で村を塞いで二十日かけて一人ずつくびり殺してやったわ! 下手人共は手足を腐らせ最後まで――――」
「ストップストップ! わかったから。もうわかったから」
情報量! ツッコミどころ! この人の恨みがヤバいのは十分伝わったし、語れば語るほどこの人が苦しくなるのもわかった。呪いが一番醜いって言った本人だ。それを俺に見せて嫌われないか泣きそうになっていたのに自分の地雷をバンバン踏み抜いている。
しかもこの人の恨み、自分を殺されたとか恋人を殺された、とかじゃないんだよな。先輩が怒っているのは好きな人をこれでもかってほどバカにされたってところなんだよな。どこまで人のためなんだよ。
「はい落ち着いて。深呼吸」
興奮して唸っている先輩を撫でて、揺らして宥める。
落ち着いてきたら怒り疲れたのか、体から力が抜けて胸の上に倒れ込んできた。
今の格好、誰かに見られたら確実にまずい。
「ワシが彼のお人にできることは全てやったのじゃ。そこからはよう覚えておらんのじゃ。気づけば龍神様が傍におって、それからずっとワシはこのままじゃ」
ゆっくりと先輩が起き上がる。俺の胴を跨ぎ両脇の隙間に手をついて伸び上がってきた。視界に入った顔は、すっかり怒りが抜け落ち、恋人に褒められたというキレイな笑みを浮かべている。
「この顔にまた会えた。よい歌を聴けた。そろそろ川の流れに戻る頃じゃろう。坊はもう大丈夫じゃね? 仲間がおるし、もう自分で力も使えるのじゃ。ワシの代わりに猫ちゃんもおる。まだまだ怖いじゃろうが、立派に立ち向かえるのじゃ。坊のお歌で送っておくれ」
突然ぶっ込んでくるのはずるい。鼻の奥がツンと痛んだ。
「いやだ。怖い。先輩が一緒にいてくれるって言ったじゃんか」
「こらこら、突然甘えん坊さんになりおって。その手には乗らんのじゃ」
どこまでも子供扱いの手つきで頭を撫でられて限界を超えた。
「坊は泣き虫じゃのう」
誰のせいだとおもってんだよ。怖い、以外で泣くのはだいたいアンタが絡んでる時なんだぞ?
「消えるの? もう会えない?」
「そもそもワシは大昔に死んでおるんじゃよ。いつまでもここにいるのがおかしいのじゃ」
「なんだよそれ。じゃあ俺たちが会ったのもおかしいことになっちまうだろ」
そんなことはありえない。先輩に出会えなかったら俺は今でも部室の隅で震えていて。小山さんは死にたがって、奥さんは救われなくて、秀はバラバラのまま弄ばれて、間々原はずっと動物に食われ続けて、泉も汚れた部屋で野垂れ死んで、吉宏は誰にも見つけてもらえないままあのボロ小屋で泣き続けていた。もしかしたら俺も伊音もあの団地で死んでいたかもしれない。
先輩がいたから、俺を見つけてくれたから生まれた音楽がある。
「なにもおかしくねえよ。絶対おかしくねえ。誰がなに言ったって、俺だけは先輩に会えてよかったっておもうし絶対信じる」
ガキがだだをこねるみたいになっているが自分でも制御が効かない。微笑む先輩の下でみっともなく泣いて、それでも伝えたいことを全然伝えられない。
「そうじゃね。ワシも坊に会えてよかったのじゃ。なにもおかしくないのじゃ。坊からはたくさんもらった。どこに行くかワシにもわからんが、これだけたくさん土産を持っていけば彼のお人も笑ってくれるじゃろ」
先輩が左手を胸の前で握り込む。
止まらない涙をむりやり袖で拭い起き上がった。
「はわわっ!?」
後ろに転がりそうになる先輩を抱き留める。あぐらを掻いて体勢を安定させた。先輩は俺の胴を跨いでいるしスカートだし、距離近すぎるし、絶対やっちゃいけない格好な気がするが下手に気を遣っていると先輩が逃げそうだから自分の理性を信じた。
「先輩、左手」
「はや?」
意味がわかってない振りで可愛く小首を傾げるが騙されてやれない。力が込められた左手をむりやり開かせる。
鼻が触れそうな距離にある顔が眉間に皺を寄せる。
「恋人に会うつもりがあんならこんなのしてたらダメだろ」
大昔に死んだ昔の恋人は左手の薬指の意味なんて知らないだろうけど、ずっと女子高生に擬態していた先輩は当然知っているはずだ。なんのつもりでつけたままにしていたのか、なんて今更訊かない。きっと俺のためだから。
「指輪ひとつくらいくれてもよかろう。ケチじゃな」
軽口でごまかして、可愛く尖らせた唇で絆して、そんなことしなくても俺は先輩を忘れないし、きっとそれなりに幸せになるよ。
だからわざわざ持っていかなくてもいい。
細い指から引き抜いた指輪は自分の小指に戻した。
余計なものがなくなった手を眺めていた先輩は苦笑する。
腰に両手を回した。想像以上に細くてびっくりする。バランスを取るために先輩が俺の首に両腕を回した。
恋人同士みたいな距離でも物悲しいのはきっとこれがトドメだからだ。
「俺、昔の恋人を思い出してる先輩の笑顔とか舞とかすげえキレイで見惚れてたんだ」
前髪が触れる。暗い中の白と黒。絵の具ならいいのに、この色は絶対に混じり合わない。
「忘れられない恋してる先輩が好きだよ」
目を見開いた先輩は、笑って――笑うのに失敗して拗ねた顔になっていた。
「坊のくせに、生意気じゃ」
額を擦りつけ合って泣き笑いで見つめ合った。黒猫が俺たちの隙間に体をねじ込んで寝る体勢で丸まる。涙が引っ込んでまた二人で笑った。
先輩と猫を抱えたままじりじり動いて壁にもたれかかる。先輩の頭が肩に乗る。
「ギター持ってきたけど、ここで歌う?」
「鹿住くんたちのために歌うのじゃろ? その時一緒に、みんなで送ってほしいのじゃ」
「うん。わかった」
「それはそれとして眠くなるまで歌ってほしいのじゃ」
「わがままだな」
溢れてきた歌はなぜか朝の歌で、「なんで朝なんじゃ」と、先輩が笑うから俺も笑ってブレブレになった。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
次の日、部室から登校することになった。登校するというか、教室に向かうだけなんだけどな。髪は染めていないが元々これが地毛なんだし、羽智は知っているからもうどうでもよくなった。また染めたら先輩拗ねそうだし。
ホームルーム直前に教室に入ったらめちゃくちゃ注目された挙げ句二度見までされ、クラスの半分を凍らせてしまった。担任は開いた口が塞がらないでいる。
逆に羽智は頬杖をついて俺を流し見るだけだ。
「おい、乾、頭、派手すぎないか?」
「こっちが地毛です」
やっと出てきた教師の一言に短く返して席に座る。前を向いたままの羽智が椅子を傾けて机にぶつけてきた。椅子がダメになるぞ? 背を反らして、机に肘を着く俺の頭に後頭部を寄せる。
「あ~あ、志紀が遠くなっちゃったな」
髪色で家に帰ってないことを察したのだろう。そこから発展してとんでもない誤解をしているらしい。
意趣返しといわけじゃなく、ただ羽智には言っておこうかなって思って耳打ちする。
「なあ羽智、俺、一生童貞かも」
言った瞬間羽智がバランスを崩して椅子から落ちた。教室中の視線を集める。普段が優等生なだけあって担任が「どうした吾妻」ってめちゃくちゃ心配している。しかし羽智はそれどころではないようで、机の下から俺を涙目で見上げている。
え? そんなに痛かった?
「……やだ」
「は?」
溜め込んだ涙があふれ出して俺もなかなか拝めない泣き顔になる。参考資料になるぐらいキレイに「うわ~ん」と泣き出してこっちが驚いた。
「志紀が失恋したあ~~~~」
ばっか! 声デカい! やめてやめて! ガチ泣きで俺の失恋をクラス中に宣伝するのやめろおおおおおおお!!
ホームルーム中に泣き出した羽智のおかげで俺の失恋速報は三時限目までに少なくとも二年のクラス全てに行き渡ることになった。軽音部の二年は俺と羽智だけだが、羽智が黙っているわけもなく、なんならホームルーム中に泣きながらメッセージを送っていたから一年と三年にも噂が流れている気がする。いや、二人なら黙っておいてくれるだろう。そもそも失恋じゃねえんだよなあ。失ってねえし。たぶん一生好きなままだろう。
そうして今までで一番気まずい部活の時間だ。先輩が姿を現さないのだけが唯一の救いだ。
伊音は俺にどう接すればいいのかわからないらしくこっちをチラチラ見ては視線を逸らし、スマホを弄って頭を抱えるを繰り返している。部長はドラムを叩きながら泣いたり睨んだり表情が忙しい。羽智は俺を抱きしめて離さない。
これなに部? どうなってんの? いや、俺が原因なんだけど。
「あのさ、失恋してねえからな?」
その時の三人の顔は鬼気迫ってて怖かった。「どういうことだ」と「誤解させんな」と「詳しく説明しろ」と「殴っていいか」を混ぜて煮込んで表情にしたらこんな感じだろう。命の危険を感じた。
拳と足と言葉が飛んでくる前に俺は声を出す。
「先輩が、引っ越すんだとよ。もう会えないくらい遠くに。そんだけだから」
あながち間違ってないだろう。先輩は確実にこの部室にいたし、俺たちにとってはもう先輩は仲間だ。先輩が消えたってそれはなかったことにならない。
「初耳だ。だから朝香さん学校に来てないのか?」
あ、やっぱり教室行ってないんだ。朝起きたときは傍にいたけど部室を出るときに手を振られて逆方向に歩いて行ったから、覚悟はしていた。
「次会えるのはライブの日だけだとおもうぞ」
「そんな! パーティーとかできないんですか!?」
伊音が言うとカラオケやファミレスの規模で収まらないパーティーに思えてくる。
「そんな暇ないだろ。たぶん」
先輩からしたら生前葬みたいなもんだしな。いや、もう死んでるけど。
「志紀はそれでいいの? 会えないくらいって言っても今時行けないところなんてないでしょ?」
地球上ならどこにだって一緒に行きたいけれど、そうじゃないんだから仕方ない。本人ですらどこに行くかわかってない。
「俺も先輩も納得してる。ライブでちゃんと伝えるって約束したから、みんなで曲作りたいんだけど」
抱きしめられて、背中叩かれて、なぜか握手を求められて、いいライブにしようってことでメンバーの意見は一致した。
警察からの帰りに礼兄にはライブがしたいと伝えてある。風波の協力もあって一晩貸し切りだ。生き残った関係者と龍神様が抱えている奴らが観客だ。客、というよりも参加者、っていうほうがしっくりくる。見なかったら、関わらなかったら俺たちの音楽は生まれなかったんだから。
メンバーと話し合う。晴れの歌がいい。家族が揃っていて、明るい場所で友達と遊んでいる。そんな曲を目指した。
「ならメロディーはこんな感じですかね」
根暗を自認しているのに伊音が紡ぐのは明るくて透明なメロディーだ。
「弾む感じのリズムがいいよね」
前には出てこないけれど全てを支えている羽智が笑顔で爪弾く。
「サビはキレイにいきたいな」
一番軽音部っぽくない見た目をしているのに誰よりも音楽に愛着をもっている部長がバランス良くまとめてくれる。
俺は伝えたい音をコードにしてみんなに持ち上げてもらう。結局、俺にできることなんてたいしたことじゃないんだろう。ギターとボーカルはバンドの花形だけれど、支えてくれる仲間が必要だ。仲間の存在に気づかせてくれたのも、仲間が俺をどう思っているか知れたのも、会場に来てくれる奴らのおかげなんだからなにがどこに関係してくるかわからない。
四人の音をそれぞれ合わせて音楽を作る。はっきりさせられない感情も全部込めた。届けたい人に届くように。
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