第8話放課後大捜査線

【放課後大捜査線】


 予告通り風波が車で校門前に乗り付けてきた。外車に寄りかかって人待ちをする高級スーツ姿のアイドル系イケメンとかどこの二次元だよ。ただでさえ話題の少ない田舎の学校なのだ、ちょっとしたお祭り騒ぎになって教育指導の教師まで出張ってきた。俺と先輩が出て行くと「また軽音部か」と、嫌な顔をされたが、風波がにっこり笑って対応するとびっくりするぐらいおとなしく引っ込んでいった。なにそれめちゃくちゃ怖いんですけど。

 どんな影響力が働いているのか想像するだけで怖い風波の運転で俺たちは学校を離れた。いつも通り先輩は身一つ。俺は鞄一つ。ちなみにギターは部室に置いてきた。最近お守りと護符のおかげもあってギターを常時担いでいる必要がなくなったのだ。代わりに黒猫が俺に引っ付くようになった。


「ずいぶんと懐かれたものじゃ」


 先輩が言うとおり、高級車の後部座席に座る俺の膝の上で黒猫はくつろぎ尻尾を揺らしている。ファミレスに現れてからこの黒猫は俺から離れなくなった。普段は勝手気ままにその辺をブラブラしているが、俺が探せば必ず視界の中に現れる。先輩曰く、「猫の恩返しじゃろ」らしい。俺は何を返されるのだろうか。怖くもないし、人目がないところでなら触りたい放題だから、世話不要、毛も抜けないペットだと考えれば可愛く思えてくる。名前、つけてもいいだろうか。


「うう」


 そして挙動がおかしくなった人が一人。

 先輩である。

 黒猫が俺に引っ付いているといつもより近くに寄ってきて文字通り指をくわえて猫を見ては唸る。唇を尖らせて頬を膨らませて眉間に皺を寄せて、可愛い顔がかわいそうなことになっている。可愛いけど。この人、ウサギだとおもってたけれど猫派なんだろうか。猫好きの猫アレルギーで今まで触ったことがないとか? ありえる。


「撫でる?」


 言うと先輩の顔が輝いた。たぶん、物理的にも輝いていたんじゃないだろうか。まぶしくて目が開けていられない。

 なぜか頭を突き出された。


「は?」


 ちょっと意味がわからない。下から恨めしげな赤色が見てきた。


「撫でると言ったのは嘘かや?」


「いや、猫を撫でるかって話で」


「ふぬぅ~」


 奇声を発した先輩はほっぺたを限界まで膨らませた。顔を真っ赤にして涙まで浮かべている。

 え? ええ!? 俺が悪いの? いや、たぶん俺が悪いんだよね? いやでも猫に嫉妬する必要なくない? 


「後ろであんまりイチャつかないで? お兄さんハンドル操作間違っちゃうから」


「いや、これはマジで違うから」


 風波にツッコミを入れている間に先輩はそっぽを向いてしまった。まだほっぺたは膨らんでいる。そんなパンパンに膨らませてたらいつか飛んでっちまうぞ?

 撫でてほしけりゃ猫を恨まずに言ってくれればいいのに。ここで言ったらまた風波に茶化されるから後で言おう。


 先輩が拗ねたまま病院に着いた。面会の手続きを済ませてたどり着いた先は個室だった。

 そもそも病院自体が怖いのだがお守りの効果か、先輩が傍にいて黒猫が先を歩いているからか、おそらくその全てのおかげで平静は保てていた。が、入室する前にどうにもできない震えに襲われた。先輩に背中を撫でられるが震えは止まらない。猫が足に体をすり寄せてくる。

 俺の様子に気づいた風波がドアを開けるのを待ってくれる。こういう空気は読んでくれるんだな。


「なぜ怖いのか確かめねばならんのじゃ。できるかや?」


 宥める笑顔ではない。真剣にこちらを見つめ力を与えてくれる強い眼差しがあった。先輩に手を握って貰ってどうにか頷く。

 

 風波がドアをノックした。中から女の人と男の人が出てきて風波と挨拶を交わす。俺たちについて説明しているようだが声は入ってこなかった。ドアが開けられた瞬間冷気が流れ出てきて足元を撫でる。猫が驚いて俺の肩に昇ってきた。冷気は黒い靄に見えた。すごく不快だが手を強く握られて踏みとどまる。

 促されて機械的に入った。挨拶できていたのか怪しい。

 淡いグリーンの壁紙に合わせたカーテンと家具が揃った個室は、優しい色合いなのに陰鬱としていた。窓のカーテンは開けてあるし、差し込む日も穏やかだ。なのにジメジメとして気が滅入る空気が漂っている。窓際のベッドに小さな体が横たわっていた。小学生にしても布団の膨らみが異様に小さい。

 間々原いつきは仰向けで横たわり目を見開いていた。瞬きもせず、一点を見つめ、乾いた唇がわずかに動いている。布団は胸元まで掛けられていて片腕は点滴に繋がれていた。枯れ枝のように細い。下半身だと思われる場所が布団の上から黒い靄に覆われていた。ベッドの上の靄が一番濃い。そこから流れ出した靄が部屋全体を暗くしている。


 震えるほど怖いのに無意識にベッドに近寄っていて間々原いつきを真上から見下ろす。視界には入っているはずなのに視線は合わなかった。


「両足、どうしたんですか?」


「事故で潰されて切断してしまったって」


 間々原いつきを見ながら訊いた俺に答えたのは風波だった。ご両親がどうしているのか今の俺には把握する余裕がない。両足が機能していないことは訊く前から察せられていた。病室の壁に、針のようなもので串刺しにされていたから。


 かすかに動く唇に身を屈めて耳を近づけた。


「ま~……だだ……よ」


 思わず背を仰け反らせた。


「坊、気をしっかり。ここで飲み込まれてはだめなのじゃ」


 先輩が背中を叩く。猫が鳴く。それでどうにか正気を保てている。


「追い打ち掛けるようで悪いんだけど、これ、見られる?」


 控えた声で風波が耳打ちしてくる。差し出されたそれはノートだった。

 先輩が受け取り俺に視線で確認して表紙を開く。また新品のノートだった。白紙のページを何枚かめくり、唐突に現れたそれは小山秀のものとは様相が違っていた。

 ヒトガタの上にある鬼の文字が溶けたように滲んで判別が付かなくなっている。左右の文字は変わらないようだったが、読めない俺の目からでもヒトガタの中に書いてある神代文字の形が違っていた。なにより、ヒトガタの下半分のページが破られていた。ノート自体の綴じにぶら下がった下半分は黒く塗りつぶされた上に何かで何度も突いたように穴が空けられている。


「ああ……」


 先輩が声を漏らす。悲しいのが煮詰まって口から零れたみたいだった。

 俺にもなんとなくわかった。因果応報。恨み辛みが絡まってこんな形になってしまったんだろう。


「もしかして、動物虐待の事件になにか関わってますか?」


 俺が責めるのは角が違う。けれど、あまり平静な目を向けられなかった。俺の視線の先では間々原いつきの両親が肩を抱き合っていた。奥さんはハンカチに顔を埋めすすり泣いている。


「僕たちは警察じゃありません。依頼者も学校関係者ですから大事にはしないとおもわれますし、最低限の守秘義務は守らせていただきます」


 それもそれでどうかと思うがこちらとしてもしゃべってもらわないことには困る。風波一族ならむりやり覗けそうだが、それもそれで怖い。

 旦那さんが内ポケットから子供用のスマホを取り出し無言で差し出した。風波が受け取る。


「私たちではそれをどう処理していいのかわかりません。まさか息子が、と今でも信じられない。何を間違ってしまったんでしょうか」


 正解なんて返るはずないのに旦那さんは問いかける。

 風波は受け取ったスマホを少し操作して俺に渡してきた。受け取って画面を見る。首に針が刺さって死んでいる動物の写真だ。一枚二枚じゃない。中には何本も刺さってむごたらしい姿になっている動物もあった。元が何の動物かわからない。


「画像を消してしまおうとはおもわなかったんですか?」


「何度も思いました。同じだけ警察に相談しようともおもいました。結局できずに、今もどうしていいかわかりません」


 良心はちゃんと残っていたらしい。


「息子は、どうなっているんですか?」


 医学的なことはわからないが尋常でないのはたしかだ。普通の視界でも科学的に説明がつかない何かが起きていると察せられたのだろう。


「物事には必ず原因があるものじゃ。どんな不可思議なことでも理解に苦しむことでも相応の理由がある」


 先輩はノートを閉じて旦那さんに突き返した。


「その理由が、謂われなき理不尽であったのならまだ救いはあったじゃろう。残念じゃ」


 いつだって人を許容してきて褒めてニコニコ笑っていた先輩の初めて見る拒絶だった。あまりにも無慈悲に、ノートと一緒に間々原いつきの罪を突きつける。


「ひとつだけ教えておくのじゃ。この世には、死ぬくらいでは到底許せぬ、と、因果応報を願う呪いが確実に存在するのじゃ」


 奥さんが泣き崩れ、支える旦那さんも病室の床に座り込んだ。途方に暮れた顔で先輩を見上げている。

 先輩は二人の前に受け取られなかったノートを置く。こちらを振り返った顔は表情が抜け落ちていた。


「命だけは助かるやもしれぬのじゃ。先を急ぐのじゃ」


 人形めいた先輩の気迫にさすがの風波も気圧されたようで動きがぎこちなかった。

 呆然とする両親に挨拶をする風波を置いて俺たちは病室を出た。猫が俺の頭に頭をすり寄せてくる。


「ごめんな。嫌なもの見たよな」


 肩に乗る猫を背中まで撫でる。先輩が呪いを見せたくないと言った時の気持ちが理解出来る気がした。

 その先輩は足早に廊下を歩いていて、ふと立ち止まり壁に背を預けて項垂れた。俺が追いつくと力ない笑顔で見上げてくる。


「ムリに笑うなよ」


「いやじゃ。笑顔が一番似合ってキレイじゃって褒められたのじゃ」


 これも一種の呪いだな。


「いや~すごいね。叩けばいくらでも出てきそうだね」


 こいつは少しぐらい笑顔を出し惜しみしたほうがいい。風波の笑顔は邪悪だ。

 とりあえず三人揃ったので次の目的地に向かう。間々原いつきがあの様子なので正直気が重い。小山秀も間々原いつきも、かわいそうな被害者から自業自得の加害者に印象を変えつつある。次はどんな闇が出てくるのか怖かった。

 そんな俺の不安は実川家が近づくごとに具現化していくようだった。実川家の所在地ははっきりとはわからないが近づいていることだけはわかった。先輩も窓の外をじっと見ているから見えているんだろう。猫も前足を掛けて窓の外を見ている。

 最初はカラスが多いな、と思った。けれどよくよく見ればカラスではなく、黒い靄が濃くなって鳥の形をとったなにかだ。鳥だけではなく、家の屋根の上に猫の影もチラチラ見える。俺に懐いている黒猫も、もしかしたらあちら側に行っていたかもしれない。俺は黒猫を抱き寄せた。

 実川家の周りは、異常だった。少なくとも俺の視界にはろくな映り方はしていない。三階建ての一軒家だ。二階に玄関がある、見るからに金持ちそうな家だった。その家の周りには黒い靄になった動物がひしめき合っている。犬猫、狸のような形も見えるしネズミのような小さいものもチロチロ動いている。屋根は鳥の群れで埋め尽くされていた。影が見ているのは三階だ。おそらくそこが実川泉の部屋なのだろう。

 風波がインターフォンを押し両親が揃って出てきた。間々原家もそうだったが、平日の夕方には早い時間に夫婦が揃っているのが不思議だった。要はそれだけ時間に自由が利く稼ぎがある家庭ってことだったんだな。


 実川泉の部屋のドアを両親が揃ってノックする。


「泉、助けてくれる人が来てくれたわよ。ドアを開けて?」


「もう二度とむりやり連れ出すなんてしないって約束しただろ? 来てくれた人に話をするだけでもできないか?」


 実川夫妻は突然引きこもった息子のあまりの怯えっぷりに、精神科医やら霊能力者やらの力を借りて色々試したらしい。最終的には部屋から力尽くで引っ張り出そうとしたが半狂乱になった息子に根負けして今では部屋から出ないように協力しているそうだ。引きこもりは日に日に酷くなって、今ではドアを開けることすら嫌がっている。

 重傷だな。先輩に出会う前の俺がこの影に囲まれたら同じようなことになっていた気がする。どこまで見えているのかわからないけれど。


「あの、少し下がっていてもらえますか?」


 この調子だと埒が明かない。ギターはないが五線譜とペンはある。気を紛らわすことぐらいはできるはずだ。先輩も頷いているのでどうにかなるだろう。


 いきなり出しゃばってきた高校生に戸惑う夫妻を風波が説得する。階段の降り口まで下がって様子を見守ることで部屋の前を明け渡してもらえた。


「おまえも少し離れててくれるか? 悪いな」


 黒猫の頭を撫でて言えばおとなしく風波の足元まで走ってお座りしてくれた。害意はないとはいえ、今の実川泉が黒猫の姿を見たら恐怖で死ぬ可能性もあるしな。しかし、頭のいい猫だ。


 俺は強めにドアをノックした。


「おい、部屋の外が怖いのはわかってるけど、引きこもってるだけじゃなにも解決しないだろ。何が見えてる? 犬か? 猫か? それとも鬼か? 死ぬまでかくれんぼ続けるつもりか? お守り渡すからドア開けろ」


 部屋から結構な物音がして何かがドアにぶつかった。おまけに何かが割れる音までする。え? 手遅れ? 大丈夫?

 マジで焦ったらドアノブが動いた。数ミリだけ隙間ができたが部屋が暗いのか何も見えない。廊下から差し込む光ですぐそこに誰か立っているのだけ確認できた。腐臭のようなものが漂ってくる。


「見えるの? 助かる?」


 か細い声だった。声変わり前の高い子供の声だ。


「おまえが色々話してくれりゃ助ける方法が見つかるかもしれない。部屋に入れてくれないか?」


 さらに少しだけドアが開く。ギョロリとした目が光を反射した。幽霊と見間違える程度には生気がない。

 そして異臭が強くなる。部屋の中でなにか腐っている。

 泉の身長に合わせてしゃがんだ。


「俺は乾志紀。こっちは俺の先輩」


 先輩が俺の横に顔を揃えた。


「朝香霞じゃよ。泉くんや、怖かったじゃろう。よく頑張ったのじゃ、少し話をするのじゃ」


 ここでも美人の笑顔は効果覿面だった。ドアが開いて泉が姿を現す。髪はフケが浮いてボサボサ。パジャマは薄汚れていて所々シミが付いている。目はギラギラしているのに生気がなくて隈が濃い。

 足元には食器が転がっていた。グラスが割れて小さな足を傷つけているが泉本人は意に介した様子がない。思わず泉を抱えて部屋に踏み込んだ。


「いやあああ! 離して! 見つかりたくない! いやああああっ!」


「うるせえ。俺だってあんなのに見つかりたくねえわ。でも見つかる前におまえ死ぬぞ」


 手探りで電気をつければ惨状が現れた。人の住む場所じゃない。 先輩が一緒に部屋に入ってドアを閉める。が、顔をしかめて鼻を摘まんだ。泉からも部屋からもどぎつい臭いがして俺も鼻が曲がりそうだ。

 ドア前の食器の散乱はまだいい方で、設置された簡易トイレには汚物が溢れているし、食い散らかした食べ物がそこここで腐っている。ゴミは散乱しているし汚れて脱いだ服も放置されていた。一見無事に見えるベッドも、布団をめくれば漏らしたものでシミになっていた。壁には自作したと思える札がびっしりと貼ってある。よく見れば床には油性マジックで札の模様が描かれていた。窓は段ボールで塞がれてそこにも理解出来ない文字が殴り書きされている。


「これは酷いのじゃ」


 俺に学があれば酷いよりももっと酷い表現ができただろう。そのぐらい酷い。吐き気で倒れそうだし、十分と耐えられる気がしない。物理的にこれではお守りも護符も意味がない気がした。

 暴れる泉を仕方なくベッドに座らせる。乾いているだけましだろう。そう思い込まないとやっていられない。


「おら、まだ大丈夫だからこっち見ろ」


 泣きじゃくる顔を両手で挟み込んで視線を捉える。


「窓の外が怖いか? とりあえずまだ家の中には入ってきてないから、しっかりしろ。俺がお守りをやる」


 こんな環境じゃ思考もろくに働かない。俺は自分のお守りを泉に握らせた。


「わっ!」


 途端に燃え上がりお守り袋が汚れた床に落ちた。中を見ればあったはずの楽譜がない。

 冷や汗が背中を伝った。

 俺が焦っているのに泉はキョトンとしている。その様子は、泣き叫んでいるよりもよほど生気があった。


「坊、もっと穏やかな楽譜はあるかや? 落ち着かせるような音じゃ」


 先輩が俺の隣で泉を覗き込む。

 鞄を漁って優しいバラード曲を取り出した。一緒に陽だまりを歩こう、みたいな歌詞が付いている曲だ。

 口笛でメロディーをなぞり泉に渡す。泉が触った瞬間燃えだした。


「わっ! すごい……」


「どうやらおまじないの効果もあるようじゃな。坊の才能は末恐ろしのじゃ」


 もろもろ説明してもらいたかったが先輩に「あとじゃ」と、言われ、無邪気に両手を見ている泉へ向き直る。どうやらだいぶ落ち着いたようだ。


「おい、大丈夫か? 落ち着いたか?」


「え? お兄ちゃん――――うぐっ」


 俺と視線が合って瞬いた泉はベッドに蹲って戻した。口から出てきたものは黒い。強い腐臭を放っていてこっちまで吊られそうだ。


「先輩水貰ってきて」


 先輩が俺の鞄から楽譜の束をひっつかんで飛び出していった。

 泉の背中を撫でる俺もそろそろ限界が近い。


「全部吐き出せ。家中の窓を塞ぐからとりあえずこの部屋を出るぞ? できるな?」


 首を振られたら問答無用で引きずり出してバスルームに突っ込む所だが、吐きながらも泉は何度も頷いていた。

 廊下を足音が行き来している。


「坊、とりあえず隣の部屋じゃ。窓を塞いで護符も貼ったのじゃ」


 先輩が開いたドアから、俺は泉を抱えて飛び出した。すぐさますでに開けてあった隣のドアに飛び込む。先輩が入ってきてドアを閉める。内側に護符を貼った。


「あ~~~~~~~空気がうまい」


 部屋が違うだけで天国と地獄だ。

 隣の部屋は窓が塞がれ等間隔で護符が貼られていた。クローゼットがあるだけで他には何もない部屋だが、逆にそれが何物にも代えがたいと思える。片隅にタオルと清潔な水が入った洗面器、救急箱が置かれていた。着替えは泉の部屋にしかないのかもしれない。期待しない方がいいだろう。


「よくぞあんな空間で生きておったのじゃ。さすがのワシでもあれはムリじゃよ」


 そこで俺を不安にさせる発言やめて?

 とりあえず口を濯がせ顔を洗わせる。すぐに水が汚れるからドアの外に待機している風波に水を替えてもらった。着ている物を全部脱がして濡らしたタオルで丁寧に拭く。これ以上の移動は泉も不安だろうから部屋の中で髪を洗い、落ち着いて話が出来る程度まで身を清めた。途中から登場したビニールプールが大活躍した。父親のTシャツに着替え足の怪我の手当をする。幸いガラスにかすっただけのようで血はすでに止まっていた。


「引きこもるにしてももう少し上手に引きこもれよ」


「ご、ごめんなさい」


 洗っている間なされるがままだった泉が久しぶりに口を開く。ばつが悪そうにシャツの裾を掴む姿が子供らしくて、それだけで安心できた。


「怖かったんだよな。よく一人でがんばったな」


 俺が頭を撫でると大声で泣き出して抱きついてきた。


「ごめんなさい! ごめんなさいぃ……あああっごめんなさいっ」


 好きなだけ抱きつかせて小さな背中を撫でた。落ち着くまで、ずっと泉は「ごめんなさい」と、謝り続けた。

 泣き声が落ち着いてきた頃、風波がドアの隙間からノートを差し出してきた。先輩が受け取り俺の傍で開く。出てきた呪符は吉野満の画像と同じ物だった。鬼の字が滲んでいたり塗りつぶされていたり破れていたりはしていない。


「なるほど、カラクリは読めたのじゃ」


 先輩はノートを閉じる。表紙には実川泉の名前があった。


「さて泉くんや、辛いじゃろうがお話を聞かせておくれ。なにがあったのじゃ? いや、なにをしたのかや?」


 涙に濡れた頬を指先で撫でる仕草は優しかった。でも、ひたりと見つめる赤は獲物を狙う獣のようで幼子への配慮は見られない。


「ひぐっ……う……うぇ、ごめんなさい」


「泣いて謝るだけではなにもわからんのじゃ。謝らなければならないことをしたとわかっておるのなら話してほしいのじゃ。これ以上人が死ぬのを坊に見せたくはないのじゃ」


 俺視点なのはなぜだろうか。アンタだって平気なわけじゃないだろ?


「おどかすだけだって、あとで見つけに行くから大丈夫だって秀くんが言ったから……かくれんぼで鹿住くんを閉じ込めて……」


 記憶がむりやりこじ開けられた。喉が詰まる。溢れてきた怒声を噛みしめないと自分の感情を泉にぶつけてしまいそうだった。


「そしたら雨が降って……雷とか……すぐに行けなくなっちゃって、後で行ったら、もうなかったの……」


 子供の文章で語られる事情は穴だらけだった。責めないように、追い詰めないようにひとつずつ穴を埋めていく。

 ことの顛末はこうだ。


 四年生に進級して転校してきた鹿住吉宏は片親で、見えないところにアザがある子供だった。泉自身はかわいそうな子だと思っていたけれど、小山秀と間々原いつきにはちょうどいい獲物に見えた。転校してきたばかりで友達のいないのをいいことに、鹿住吉宏に仲良くするふりをして虐めていた。

 小山秀は自分より弱いものをいたぶっては悦ぶ性格をしていた。間々原いつきも引っ張られ悪ノリは悪巧みになっていく。最初はおもちゃのクロスボウで動物を驚かす程度だったのが、間々原いつきが矢の改造を始めてから言動の制御が効かなくなった。矢を改造したとしてもおもちゃの威力だ。狙われた動物は一発では死ねなかっただろう。

 動物を殺すことに飽きてその目が人間に向く。それでも周りにバレないように転ばせたり、物を隠したりする程度だったのが鹿住吉宏を見つけてエスカレートしていった。元々アザの絶えない体だ。多少の殴る蹴るは自分たちのせいにならない、と、間々原いつきや泉にも暴行を強要した。

 そしてかくれんぼだ。たつ川神社の裏山でかくれんぼをして壊れかけた小屋に鹿住吉宏を閉じ込めた。小山秀と間々原いつきが笑っているから泉は逆らえなかった。元々泉は小山秀に虐められていた側で、鹿住吉宏が現れてからずいぶんと楽になったと喜んでいた面がある。間近で虐められる鹿住吉宏に同情しつつも、もう戻りたくないと考えるのは仕方のないことだ。小山秀に閉じ込めた鹿住吉宏を助ける気があったかどうかはともかく、泉は助けに行く気でいたらしい。三人は鹿住吉宏を閉じ込めた後、間々原いつきの家に遊びに行き、その途中で雨が激しく降り出して慌てて自宅に帰った。雨は止むどころが嵐になり、たつ川が氾濫水域に達するほどになって家から出られなくなる。雨が収まったのは二日後だ。さらにたつ川の流れが収まるのに一週間かかり、泉は気が気ではなくなった。他の二人は勝手に帰っただろうから心配ないと言って聞かない。泉は一人で裏山に行き、土砂崩れで跡形もなくなった小屋を見て怖くなった。

 それからすぐに小山秀が事故死し間々原いつきが事故で半死半生。自分の周りには小山秀が殺した動物たちの影が見えて時折「も~いいか~い」と声が聞こえる。とにかく怖くなって、見つかったら鹿住吉宏に殺されると信じて引きこもり、自らの首を締めんばかりの環境に俺たちが来るまで閉じこもっていた。


 想像以上にあくどい。これは鹿住吉宏の呪いが拗れても文句は言えないだろう。


「かくれんぼの鬼から逃げようとして死んだわけだ」


 なにかに追われていた、のなにかは自分たちが殺したかもしれない奴だったのなら必死に逃げたことだろう。


「この呪符は変化するのじゃ」


 先輩の説明は俺に向けてではなく泉に向かっていた。


「最初のこれは鬼を呼び出す呪符じゃ。かくれんぼをふたりでしよう、と、誘っておるのじゃな。もちろん鬼は鹿住くんじゃ。鬼を見つけたらこちらの勝ちじゃが同時に鬼に見つかれば問答無用で負けじゃ」


 この人容赦ないな。わざわざ泉にノートを見せつけた。


「そして見つかれば鬼の文字が消えヒトガタの中の名前が変わる。このヒトガタは見つかった者自身になる。小山秀くんは全て塗りつぶされておったのじゃ。おそらく全身がぐちゃぐちゃに押しつぶされたことじゃろう。間々原いつきくんは半分に裂かれていた。足を切断したのじゃったな」


「わあああああああっ」


 先輩に飛びついた泉はノートを奪い部屋の隅で蹲った。


「ごめんなさいっ許して! 許して!」


「その呪符はまだ鬼が鹿住吉宏くんだと示しておるのじゃ。この部屋にいる限りは見つからないじゃろう。しかしそれでも隣の部屋の二の舞は見えておるのじゃ」


 あの部屋にこもっていたら遠からず死んでいただろう。今回の遊びはそれが目的なのかもしれない。


「先輩、どうすればいい?」


 八方塞がりな気がしてならない。このまま泉は死ぬまで部屋から出られないのだろうか。死んでも出られないかもしれない。

 先輩の表情は抜け落ちたままだ。


「とにかくお守りじゃな。持ってきた分だけ護符を書いて守りを固めるしかないのじゃ。時間を稼ぐ間に鹿住吉宏くんを見つけられればあるいは、じゃが――」


 まだなにか気がかりがあるのか先輩は語尾を濁した。

 俺は鞄から五線譜を取り出してお守りを書く。息を吹きかけて泉に握らせた。


「お兄ちゃんたちは鹿住くんを見つけられる?」


 青い顔で泉が聞いてきた。


「さあな。見つけてやりたいとはおもうけど、どこまでできるやら」


「霊能力者じゃないの?」


 心外だ。


「ちげぇよ」


「え……じゃあ、なに?」


 なんなんだろうか。自分でもよくわからない。


「ロッカー……?」


 ロックを愛してロックに助けられ、奏でて自分の力にする。なかなかロックだ。こういうのもロッカーでいいんじゃないだろうか。


 泉は意味が掴めなくてポカンと口を開けていた。

 先輩が、控えめに笑っていた。ああ、まあ、やっぱ笑顔の先輩がいいわ。

 

 俺は持ってきた分だけ護符を書き実川夫妻に渡した。枚数に限りはあるが三階を覆うぐらいはあるはずだ。家族は大変だろうがしばらくは三階からでないほうがいいことを伝えた。俺たちが何者か、風波がどう伝えたかはわからないが夫妻は素直に頷き、挙げ句に礼まで言われた。先輩が部屋を汚さないようにときつく言い含める。

 鹿住吉宏の虐めの件をどうしたものかと思ったが、風波には車の中で伝えた。夫妻に伝えるかどうかは風波に任せる。


 風波と俺たちが一緒に行動する用事はこれで終わりだ。どこに戻るか訊かれて咄嗟に答えられなかった俺に代わり先輩がたつ川の近くで降ろせと指定した。

 とくに詮索もされず神社正面の橋で車を降り風波と別れた。


 先輩に手を引かれ堤防を越えて川に降りる。黒猫は俺の後ろから距離を置いてついてくる。


「先輩?」


「腐臭が染みついてかなわんのじゃ」


 先輩の表情から察するによほど深刻な事態なのだろう。たしかに、麻痺しかけているが自分が臭っているようで不快だった。風波はよく何も言わなかったな。

 堤防の下は砂利になっていて水の流れは砂利のさらに先にある。穏やかなときのたつ川は澄んだ水の浅い川で、中心の一番深い場所でも膝ぐらいの水深しかない。頑丈な堤防が大げさに見えるが、一度荒れればギリギリまで水が上がってくる。しばらく前の嵐の時も溢れそうになった。おそらく、その嵐に鹿住吉宏は巻き込まれたんだろう。


 砂利に降りると先輩は靴と靴下を脱ぎだした。


「え? まじ? 入るの?」


「なにをしておるんじゃ、坊も早く脱ぐのじゃ。こんな穢れまみれでいたくないじゃろ」


 それはそうなので鞄を降ろし靴と靴下を脱ぐ。ズボンの裾をまくった。


「穢れ?」


「幽霊が原因の汚れみたいなものじゃ。溜まると泉くんみたいに自ら汚れを溜め込むようになるのじゃ」


 躊躇なく飛び込んだ。


「川に入るだけでいいの?」


「本来なら祝詞を唱えるのじゃが、一曲歌うかや?」


 ふくらはぎぐらいの深さまで進んだ先輩が川水で洗った手を差し出してくる。俺も習って手を洗い先輩の手を握る。


「なに歌う?」


「坊が今歌いたい歌でいいのじゃ」


 川の中で両手を繋いで向かい合うなんてこっぱずかしい格好だ。こっぱずかしい歌しか出てこない。零れてしまった最初の音に諦めて溢れてきた歌詞をなぞる。

 スポーツ飲料のCMソングだった気がする。聞いた当初、羽智と夢中でカバーした曲だ。爽やかなメロディーと澄んだ歌声の曲は俺が歌うと印象が変わってしまう。よくよく考えれば、この歌詞は、もうあなたしかいないからずっとそばにいたい、と歌っている。ほらみろやっぱりこっぱずかしい歌がでてきたじゃねえか。


「ふふっなんとも熱烈な歌じゃな」


 先輩に手を引かれ足がもつれる。飛沫が上がり体が近づく。俺を中心にして先輩が回るから俺は川底で踏ん張った。


「ほら、続きを歌うのじゃ」


 そう言って飛んだり跳ねたり勝手気ままに動く。この笑顔が戻ってきたなら穢れとやらは大丈夫なんだろう。この先の歌詞はさらにこっぱずかしいのだが、先輩が笑うならいいか。手を繋いで飛沫を上げながら踊る。端から見たら川底でくるくる回っているだけに見えるだろう。

 歌い終われば先輩はご機嫌で岸に上がった。


「ようやくすっきりしたのじゃ」


 そういえば体にまとわりついていた臭いが消えていた。


「神社の手水舎は禊ぎの代わりじゃ。本来なら川や池に入り身を清めるのじゃが、準備も作法も面倒じゃから簡単になっていったんじゃ。それに今時の川の水は飲んだら腹を壊すから手水舎を使うほうがいいのじゃ」


 川の水が飲めたのっていつの話だよ。

 岸に上がって足を乾かし靴を履く。


「さて、行くかや?」


 振り向いた先輩は困り顔にほんのり笑みをのせていた。だからムリして笑うなって。

 どこに誘われているかはわかっている。泉の話を聞いたときからなんとなく想像出来てしまった。鹿住吉宏が死んだのは神社の裏山だ。神社には、子供と遊びたがる龍神様がいる。


 霧深い石階段を昇る。夕暮れ時の暗さも相まって手を繋いでいないとはぐれそうだった。猫は昇ったり降りたりを繰り返し付いてくる。


 境内に入ると霧はより深くなる。拝殿で鈴を鳴らし二礼二拍一礼。奥に歩いて本殿を素通りしさらに奥に入ると道がなくなった代わりに開けた場所に出る。太い木々がぽつりぽつりと生え、その間は踏み固められた土でのっぺりしている。この場所が子供にはいい遊び場だった。木々に隠れるように板張りの舞台が現れる。神楽殿だ。正面に三段の階段があり、対面は板張りの壁。三方に壁はなく太い柱四本で屋根を支えている。正面の階段に座ってしばらく待っていると唐突に背筋が凍った。

 来る。

 霧から姿を現したのは杖を突いたおばあさんだった。小綺麗な身なりの老婦人という感じで、一見優しげに微笑んでいるが俺は蹲りたくてしかたない。猫も俺の背中に隠れている。


「神楽を納めにきたか?」


 老婦人から発せられるのは男の声だった。

 こっちが返事をする前に龍神様は近づいてきて俺の背中を覗き込んだ。神様って距離感バグってんの?


「昨日までは泣き虫の童だったのにもう眷属を従えるようになったか。上等、上等」


「あの……恐れ多いんでその辺で」


 うちの黒猫がマジでビビってるから。こいつ俺に似てきたんじゃない?

 老婦人の上品な仕草で笑い龍神様は離れていった。


「遊んでやろうかとおもったが引いてやるとするか。久方ぶりに禊ぎの舞も見られたしな」


「舞に免じてひとつ教えてもらいたいのじゃ」


 先輩に目配せされて頷いた。

 龍神様は杖に両手を添えて立った。


「なんぞ言うてみろ。気が向けば答えてやる」


 ここまで来てやっぱいいですとはいかない。深呼吸ひとつ。全然落ち着かないし心臓は暴れているけれど口を開く。


「アンタ、俺以外にもかくれんぼに誘った奴がいるか?」


 龍神様にとっては意外な問いかけだったのだろうか。見開かれた目がなにかを思い出すように斜め上を見る。なんだか人間ぽい。


「ふむ。泣いて見つけてほしいと叫ぶ童が裏庭にいたので遊び相手の誘い方を教えてやったな」


 やっぱりな、と、違っていてほしかった、がごっちゃになって俺は頭を抱えた。

 むごいことをされて恨みを拗らせたまではわかる。しかし手法が小難しすぎるのが最初から引っかかっていた。先輩が言っていた。信じていない呪文を唱えても効果はない、と。だから俺の札は楽譜だし呪文は音で歌なのだ。神代文字がどの程度認知されているものなのか知らないが、小学生が好んで信じるものには思えなかった。俺にとっての先輩のように入れ知恵した奴がいるはずだ。しかもそいつは神代文字を日常的に使えて、助けを求める鹿住吉宏に信用されるだけの何かを持っている。


「アンタのせいで人が死んだ……子供だ」


 神様を怒らせたらどうなるかなんて考えられなかった。ただ、事実を伝えたかった。


「私にとっては肉体の有無など関係ない。私は無邪気な童が好きだ。だから手を貸した。それだけだ。お前も遊びたくなったらいつでも来い。お前たちの舞に勝るものは今までなかったからな、また見せておくれ」


 神様にとっては呪いも人が苦しむのも天気が変化するより些細なことなのかよ。ふざけんな。ふざけんなよ! どんだけ怖くて、痛くて、悲しくて、苦しいか、アンタわかってんのかよ! 遊んでやってるつもりの子供のどこが喜んでるんだよ!

   

「ありがとう、ございました……」


 爆発しそうなところを堪えて出てきた言葉がそれだった。神様に対する礼儀作法なんて知らないからそれだけで駆け出した。


「坊! 失礼するのじゃ主様」


 先輩の声が追ってくるが待っていられる余裕はない。早く神社の外に出て叫びたい。


「川で弦を洗っていきなさい。身につけている石も清めるといい」


 遠くなったはずの龍神様の声が耳元で聞こえた。この神様、風波以上に空気読めねえんじゃねえの?


 転がる勢いで石階段を降り道路を渡って橋を横目に堤防を上った。コンクリートの斜面を滑って砂利面に降りる。叫びたいのに声が出ない。

 対岸の堤防は夕日に染まっているが川面はこちら側の堤防の影に入って暗く流れていく。先輩と身を清めるために入った川とは別物みたいだ。

 鞄を漁ると弦を換えたときに予備で買った未開封の弦が出てきた。全てお見通しだと言われているみたいで気にくわない。


「弦、濡らせねえんだけど……」


「袋ごと洗えばいいのじゃよ」


 先輩が隣に立っていた。黒猫は先輩の頭の上だ。なにそれ可愛い。


 川の流れに手を突っ込む。ついでにブレスレットも指輪もピアスも外して水にさらした。なにやってんだろ俺。


「神様は純粋で無邪気じゃよ」


 しゃがんで俺の手元を眺める先輩が素っ気ない風に言う。


「前にも言ったとおもうのじゃが、人は人のために神様を祀るが神様は自分のために祭りを受け入れるのじゃ。それが力になるから、祭りが続くなら人が何人死のうが気にも留めんのじゃ。一度怒らせれば村ひとつ消し去ることもためらいはしないのじゃ。故に人は恐れてまた神を祀る。なんとも皮肉じゃな」


 苦い顔で笑うから俺はすくった水を先輩に向かって弾いた。


「ふぎゃ! こら、なにをするんじゃ!?」


 首を振る先輩に驚いて黒猫が俺に飛び移った。


「アンタが悪いわけじゃねえだろ。龍神様が悪いわけでもないってわかっちゃいるんだよ。全部人間が悪いんだ。それでも、もう少しこっちに寄り添ってくれてたら少しはましになったかもしれねえのにって理不尽におもっちまったんだよ」


 呪いに力を貸すんじゃなくて慰めることもできたんじゃないか。勝手に期待して失望してしまった。身勝手すぎて腹が立つ。


 濡れた髪を耳に掛けた先輩は赤を瞬かせて優しく笑った。この笑顔を見るとガキ扱いされている気分になってムカムカするのに、混じりっけがないから絆されてしまう。


「神様にまで気を遣って、坊は苦労性じゃな」


 細められた赤が意地悪く輝くから指先に残った雫を飛ばした。きゃいきゃい文句を言う先輩をスルーして水からあげたピアスをつけ直す。指輪をはめ、三つあるブレスレットのうちの一つを先輩に渡した。石はスモーキークォーツだ。それ一つだと数珠みたいだが、厄除けの効果があるらしいし、龍神様の川で清めたから少しはなんかの役に立つんじゃないだろうか。それに、この人は本当になにも持ってない。

 先輩は両手の平に乗せたブレスレットと俺を見比べている。女子が身につけるには地味な色合いだってのはわかっていた。気にくわないなら緑色のマラカイトの方と交換してもいいんですよ? でも、どんな石よりも先輩が持つ赤が勝るから、暗い色を選んだ。


「坊の瞳と同じ色じゃな」


「俺、そんな色してる?」


 スモーキークォーツは煙った琥珀色とでもいうのか、ぱっとしない茶色をしている。光によっては黒く見えたりもする。そういえば自分の瞳の色なんてまじまじと見たことなかったな。


「しておるよ。澄んだキレイな瞳じゃ」


 石を透かして先輩が俺を見る。茶色に赤が混じって揺らめいた。先輩の目に映る俺の瞳を覗いたらこんな感じなんだろうか。

 なあ、恋人の瞳は何色だった? 


「あ~~、志紀~~~~本当にいた~~」


 何事か零れそうになったとき、羽智の声が堤防に反響した。

 見れば対岸に部長と伊音と並んで羽智が手を振っている。背中には俺のギターが担がれていた。俺はすっかり連絡を忘れていたから風波経由だろう。わざわざ探しに来てくれたようだ。それにしても毎回現れるタイミングよ。

 こっちに来るとかなんとか叫んでいるから俺たちがそっちに行くと返して立ち上がった。


「行こ、先輩」


 手を差し出すと笑って握られた。その腕にブレスレットがつけられている。独占欲なのかもしれない。許してほしいと誰かに願った。堤防を上がると山の陰に入る前の夕日に照らされた。先輩の手を引いて橋を渡る。



◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 手を繋いでいることもブレスレットを渡したことも茶化されたが全部素知らぬ顔でスルーした。そうすればこいつらはそれ以上突っ込んでこないと見ての確信犯である。

 自分でもなんでそうしたかわからないのに言い訳も反論もできない。もう先輩が嫌がってないならそれでいい。


 そんなこんなでたどり着いたのはライブハウス「WEDNESDAY」の三階だ。羽智が礼兄に話を通して場所を確保していたらしい。人目もないしある程度好きに出来るので絶好の場所ではある。


「もはや何のための事務所なんだか」


「本当は控え室に使いたかったらしいよ。でも導線が面倒だから保留してるんだって」


 なるほど。だからシャワーブースまでついてるのか。棚ぼたをありがたくいただき俺たちはパーティションで囲まれたソファーセットに落ち着く。椅子が足りないので今度こそパイプ椅子を引っ張ってきて誕生日席に設置する。横から羽智が座った。椅子取りゲームじゃないんですけど?

 もう諦めて先輩の隣に収まった。対面は部長と伊音だ。ここ最近で見慣れた景色だ。


「それではどこからいきましょうか?」


 伊音がタブレットを取り出した。先輩以外はスマホを取り出す。楽譜の共有のために入れていたアプリがこういう役立ち方をするとは想わなかった。全然嬉しくない。


「じゃあ俺からな」


 間々原いつきの詳細は避けて呪符を見つけたこと、その呪符が変化すること、実川泉が鬼に怯えていること、鹿住吉宏が虐められていておそらくもう死んでいることをできるだけ淡々と報告する。場の空気が重くなるのは致し方ない。


「本当に、ボクは先輩たちに出会えて幸運ですね」


 実感のこもった言い方に背筋が寒くなる。

 伊音は白い封筒を取り出した。


「これは吉野さんから預かってきた吉野満のノートです」


 俺が受け取るより先に先輩が手を伸ばしノートを引き出して封筒を投げ捨てる。雑雑! もう少し丁寧に!

 ノートの呪符に変化はなかった。


「まだ、吉野満は無事なんだね」


「なあ、ヒトガタは名前を書いたそいつ自身になるんだろ? だったらこの状態の呪符をどうこうすれば鬼を退治できるんじゃないのか?」


 部長ってば角をつつく天才なんじゃないのか? ハメプレイ探すの得意そう。

 期待を込めて先輩を見るが、残念、真顔だ。


「その可能性はあるのじゃが、一度発動した呪詛を返すには坊の力がおそらく足らんし、呪符を無効にした時点でルールも無効になる可能性がある以上下手な手出しはできんのじゃ」


 要するに鬼は消えるかもしれないが両脇に書かれたルールすら消えて、その瞬間ルール無用のデスゲームが始まる可能性があるってことらしい。人を呪わば穴二つ。呪う側にも相応のリスクがあり、制約が課せられる。このかくれんぼの呪いは設定されたルールが鬼を縛るルールでもあり、こっちの猶予でもある。

 召喚した鬼に見つからなければ負けじゃないってことだ。実川泉の引きこもりはある意味では正解だったようだ。


「それでも、まだ二人が粘っているなら大本をどうにかすれば助かるってことだよね?」


 羽智にすがるように見られて思わず頷きたくなった。


「それがですね、ちょっとまずいことになってまして」


 伊音がタブレットを操作する。スマホが通知を表示する。


「例の画像は削除依頼を出して消してもらったんですが、まあネットの世界なんで完全に抹消するなんてことはできません。拡散の情報をたどって反応があったアカウントを監視していたんですが、半数がここ最近更新してないんですよ」


「それって、つまりどういうことだ?」


 決定的なことを聞きたくなかったのに部長がとどめを刺しに来る。


「呪符を真似して書いちゃった可能性があるってことです」


 そして伊音ははっきり答えてしまう。


「ネットでは尾ひれがついて「ひとりかくれんぼ」なんて言われ始めてます。ぬいぐるみにこの呪符を貼って夜中にひとりで十数えると「もういいかい」に応答があるとか。押し入れに貼っておくと夜中に押し入れの戸が開いて鬼が出てくるとか。なんでかみんな「かくれんぼ」なんですよね」


「類は友を呼ぶじゃ。呪符が読めなくても呪符に引き寄せられたのじゃろう。鹿住吉宏と同じ境遇を抱えていたり同調しやすい人が意図を読み取ってしまったのやもしれんのじゃ」


 俺も同調していた側かもしれない。表情は見えなかったが伊音も同じことを考えたのだろう、唇を噛んでいた。


「じゃあ次はオレと法弦先輩ね」


 話の接ぎ穂を探す空気を羽智が救った。伊音がほっと息を吐く。


「とりあえず学校で流れてる噂を聞いて回ったのね。最近団地の噂多いよね~みたいな感じで」


 おっとり笑顔とのんびりしたしゃべりで来られたら口もなめらかに滑るだろう。


「そうしたら、孤独死した老人の幽霊が彷徨っているだとか遊びに行った子供が帰ってこなくなっただとか、遺体で見つかっただとか色々出てきちゃって~、とにかく団地の怪談が大流行してたよ。端からあげていけばきりがないからメモを共有するね~」


 共有されたファイルは読むのがうんざりするほど字で埋め尽くされていた。どんだけみんな団地大好きなんだよ。


「俺は実際に団地や団地周辺に住んでる奴に話をきいてきた。第三棟っていうのは一般企業のリノベーション計画が進んでいて住民がいないって言うのは本当らしいな。しかも孤独死の一件があって、隣の棟に保証金付きで越せるならってことで住民が早々に立ち退きに応じたらしい。その孤独死、鹿住吉宏の爺さんなんだが、死んだのがどうも嵐の日だったらしい」


 嵐の日。鹿住吉宏が閉じ込められた日から二日続いた暴風雨だ。たつ川が氾濫寸前にまでなり、裏山の一部が崩れるほどの嵐。学校も休みになったし、実家は田んぼに囲まれているから気が気じゃなかったのでよく覚えている。


「元々足も心臓も悪くて偏屈な人で、近所づきあいもそんなになかったらしい。同じ階にはまばらにしか入居してなくて爺さんの部屋は一番奥だった。玄関で死んでたらしい。玄関扉には爪痕が残ってたって話だ。助けを呼ぶ声は暴風雨の音でどこにも届かなかったんだろう」


 助けを呼びたくて玄関に行ったんだろうか。孫を探しに行きたくて玄関まで這っていったのだろうか。鹿住吉宏は、誰にも心配してもらえなかったんだろうか。


「爺さんの部屋に出入りしている小学生の男の子についても聞いてみたが、そこは曖昧だったな。なんかいたような気がするって具合で確かには覚えられてなかったみたいだ。それで、爺さんが死んでから、住民がいなくなって明かりもなくなったわけだが、爺さんの部屋だけは明かりが付いているらしい」


 気持ち、先輩側に体が傾いた。


「夜になると子供の声が聞こえてくるとか、近くを通ると異臭がするとか、この辺の噂は吾妻とかぶる。とにかくなにか異様だってのが近所の噂だ」


 報告が一周した。なんとなく、先輩の言葉を待った。

 先輩は人形めいた表情で組んだ手を太ももに置いた姿勢になっている。


「お子が遊ぶには遊び場が必要じゃ。無人の団地は、かくれんぼをするには絶好の遊び場じゃろう」


 淡々とした語り口が想像を煽る。

 死んでまでこだわった、いや、途中で死んでしまったからこそ続けなければならなくなったかくれんぼを、夜な夜な無人の団地で続ける鹿住吉宏。それは、寂しさを加速させるだけではないだろうか。


「不思議だったのじゃ、小山秀くん間々原いつきくんは事故に遭っておるが、そのほかの関係者はあらかた行方不明じゃ。呪いの性質上、どこかに隠れているはずじゃが、鹿住くんと関係が深く、かくれんぼが出来てなおかつ人目に付かない、または人が寄りつかない場所というのが思いつかなかったのじゃ。鹿住くんが帰れる場所は爺やのところだけじゃったようにおもう。最期の拠り所としては十分じゃ。爺やの部屋だけ明かりが点っていると噂があったのう。かくれんぼならば見つかりやすくすることはないのじゃ。孫が帰ってくるのを待っているのではないかや」


 伏せられていた顔が上がる。赤い瞳に火が点る。


「鹿住吉宏くんはおそらく団地にいるのじゃろう。みつけてやらねばならんのじゃ」


「それって、すごく危険なことだよね? 呪いの中心に行くわけでしょ?」


「そうじゃよ。どうする、坊」


 羽智は行ってくれるなという顔をする。過保護だ。

 先輩の視線は全てを俺に委ねている。

 部長は腕を組んで目を瞑っているし伊音の表情は見えない。


「俺は……」


 全ては川の流れだと言った先輩の声を思い出す。


「かくれんぼで見つけてもらえないって、すげえ寂しくて悲しくなるから、俺は見つけてやりたい」


 俺が見えるようになったのは、見えなくなった誰かを見つけるためなんじゃないかとうぬぼれてみる。新譜に一喜一憂することもなくずっと暗いフレーズをリピートする誰かに慰めの音を届けるために音楽をやっているんじゃないかって。音楽って楽しいんだよ。音が集まるって、仲間が集まることなんだ。


「志紀のそういうところだよ~」


デジャヴ?


「先輩ならそう言うとおもってましたよ」


 だからお前の中の俺はどんななんだ?


「ギターとボーカルがいなくなったらバンドにならないんだからな。そこ忘れんなよ?」


 部長は変なフラグ立てないでください。


「坊はワシが守るのじゃ」


「てめえ、可憐な朝香さんに守られて恥ずかしいとおもわねえのか」


 突然のヤクザ!


「いやもう全く恥ずかしくないですね。適材適所なんで」


 三人からは呆れた視線が返ってくるが知ったこっちゃない。先輩は守る気満々だし俺は守られる気満々なんだからそれでいいだろ。この人の妙にポンコツな所を俺がカバーすればいい。

 俺があえて無視する部分を羽智が察するように、重要な局面でよく動く伊音のように、一歩引いて見守ってくれる部長のように、俺には俺の役割ってのがある。それが仲間だろ?

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