第6話それでもこれはデートじゃない
【それでもこれはデートじゃない】
ライブからおおよそ一週間、先輩と出会ってからはほぼ二週間が経った。あれから幽霊を見なくなったとか幽霊が怖くなくなった、なんて都合のいい進歩があるわけもなく、俺は放課後軽音部の部室で膝を抱えてうずくまっている。
「先輩先輩、パワーストーンって洗って清めたほうがいいらしいですよ? 神社の手水舎で洗うとかどうですかね?」
伊音が隣にしゃがみタブレットの画面を見せてくる。パワーストーン、厄除け、手入れで検索が掛けてあった。うん。ありがとうな。タブレットの向こう側に影が横切る。俺は膝に顔を伏せた。
「なんじゃ坊、そんなに怖いのかや? おっぱい揉むかや?」
伊音とは反対隣にぬるい体温がしゃがんで寄りかかってきた。
「揉まねえよ! 女がそんなこと言うなっつうの!」
どこで覚えてきたの!?
壁に向かって膝を抱えた奴が震えながら言っても全く格好がつかない。
いや、でも本当に先輩は言動に気をつけたほうがいい。本気にする奴が出てきたらどうするんだよ。簡単に男にひっついてんじゃねぇよ。
「……くそ……なんで俺は幽霊が見えないんだ」
ほら! 部長が本気にしてんじゃん!
「見えなくてもいいだろこんなもん」
「それで? 今日はどこから連れてきたの?」
ベースのチューニングをしながら羽智が訊いてくる。
「知らねえよ。気づいたらいたんだよ。もうなんなんだよ。泣きてえ」
「護符の効果が切れたのかな~? 昨日までは部室にいれば大丈夫だったんでしょ?」
「お守りもみんな持ってますよね?」
あれから幽霊を見ることは見るが近づかれる頻度は劇的に減った。特に明らかにおかしな格好の幽霊はいつだって遠くにいる。たまに気づかないうちに近寄られている幽霊も部室には入れないらしく、俺にとっては安寧の場所だったのだ。
先輩曰く、お守りと護符が効いているんだろう、とのことだった。それがなくても、部室では恐怖を我慢しなくてよくなったことが俺の中ではデカかった。
むしろ周りの方が先に慣れて俺がビビると誰かが音を鳴らしてくれるし、護符やお守りに異常がないか確かめてくれる。なんなら改良にもノリ気だ。
それなのに、今日のこれである。なぜかこの幽霊は部室に入ってきて俺の周りをウロウロとしているのだ。
「まったく、かわいい猫じゃろ? 好きにさせておけばいずれどこかにいくじゃろ」
「猫ぉ!?」
「うっせぇ! 目の前チロチロ動かれたら落ちつかねえんだよ!」
メンバーのあきれた視線が痛い。俺だって猫ぐらいでビビりたくはない。でもこの猫、黒猫なのだが短い矢みたいなものが首に刺さっておかしな方向に捻れているのだ。そんなのにウロつかれてみろ。情緒不安定になるから。
「でも猫って祟るっていいますもんねえ。なんかそんな感じなんですか?」
伊音がとんでもないことを言う。え、そうなの? それダメじゃね?
不安になって先輩を見ると先輩は動き回る猫を追ってキョロキョロしている。
「猫は人間の傍で暮らしているから情が人間に向きやすいんじゃろう。慕っていた相手に裏切られれば動物とて恨むのじゃ……はやや、坊、見るのじゃ」
「え、やだ――ぐっ」
頬を挟まれてむりやり首を振り向けられた。窓辺の机に飛び乗った猫はツヤツヤの黒い毛並みを舐めて丸まる。刺さっていた矢が消えていた。おかしな方向に曲がった首も元に戻っている。ゆっくりまばたきをした猫は目を瞑り、そのまま日に溶けるように消えていった。
「ど、どうなってんの?」
「お守りも護符も効いていたのじゃ。害意のある幽霊は近づけぬが、ただあちら側に渡りたい幽霊はこうしてここで身綺麗にして渡っていくんじゃろう」
「あ」
羽智が上げた声に振り返る。羽智は窓側の何かを指さしていた。指の先を見ると、窓の上に貼り付けた護符が燃えている。壁を焦がすこともなく燃え尽きて跡形もなく消えていった。
「お守りも護符も定期的に換えた方がよさそうじゃな」
伊音が空かさず俺の前に五線譜とペンを差し出してきた。さらに羽智がお守り袋を持って待ち構えている。先輩も新調したお守り袋を「ワシもワシも~」と差し出してくる。書きます。書くからちょっと待ってろお前ら!
こんな感じで軽音部の日常に先輩の姿が加わった。この人、放課後だけじゃなく昼休みも部室に来るようになったのだ。最初は俺の教室に弁当をせびりに来ていたのだがあらぬ噂が立つのも面倒なので部室を集合場所にしたのだ。羽智には「もう遅いとおもうよ?」と、言われているが、自分の教室で先輩が飯を食っている姿は想像だけでも落ち着かなかった。先輩はなにも気にしていないようだから俺のわがままなんだけどな。それに羽智も付き合いだし、伊音が加わり、部長まで昼休みは部室で過ごすようになった。
なぜか俺の作る弁当の量は日に日に増え、伊音の弁当もいつの間にか本格的な重箱になった。逆に羽智と部長は購買に行く頻度が極端に少なくなった。先輩はそもそも俺の弁当を当てにして学校に来ている。先輩を家に送り届けた次の日から俺の弁当は量を増やしているから先輩については何を言う気もない。羽智と部長に関しても、うまいうまいと食っている内は許してやる。ただし、一人分作るのも二人分作るのも手間は一緒だが、三人目からは確実に手間増えるからな?
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
相も変わらず幽霊にビビって先輩の背中に隠れギターを弾く日々を過ごしているそんなある日の放課後。今日は勝手に視界に入り込む怪異もなく平和のまま終われると信じていた。
普段はホームルーム終わりにすぐに部室に来る先輩が遅れていた。そわそわする部長を無視して音を調整していると伊音のスマホが着信音を鳴らす。
「うわ~兄さんだ」
長い前髪の下でわかりやすく表情が歪む。どんだけいやなんだよ兄ちゃんからの連絡。すっごいわかる。伊音は応答しながら部室を出て行った。入れ違いに先輩が飛び込んでくる。
「坊! デートがしたいのじゃ!」
「はあ!?」
爆弾発言と同時に背後からドラムスティックが飛んできて部室の反対側まで滑っていった。
あまりの動揺に椅子からも転がり落ちた部長を無視して先輩がまっすぐ俺の前に来る。
「隣の席の西谷さんにデートの自慢をされたのじゃ。ワシもなにやらキラキラした飲み物を飲んでゲーセンで彼氏と写真を撮りたいのじゃ! 中身が飛び出しそうなパンにかじりついて映えたいのじゃ!」
この人になに教えてくれてるんだ隣の席の西谷さん! 床から立ち上がれない部長が「あ~、あの人ね……」と、どこか遠い目をしている。
さては隣の席の西谷さん、常習犯だな?
大きな赤い瞳を潤ませた先輩が祈るように指を組んで見上げてくる。これを部長にやれば一発だろうに、なんで俺に向けるかな。
「デートは彼氏としろよ」
「……そういえば彼氏いないのじゃ」
「はい解散」
この人食い意地が張ってるだけだろ。
「坊~~~~」
「ひっつくな! 押しつけるな! そもそもキラキラした飲み物ってなんだよ! 飲み物は普通キラキラしねえんだよ!」
「先輩ちょっといいですか?」
「おうっ」
伊音に呼ばれたのを理由に俺は先輩を羽智に押しつけ廊下に飛び出した。腕に柔らかい感触が残っていてぞわぞわする。
「兄さんが先輩に話があるみたいで」
差し出されたスマホと伊音を見比べる。「無視できないか?」と視線で問えば「ムリですね」と、首を横に振られる。ですよね~。やろうと思えば俺の番号だって調べて掛けてこられそうな人が無視したぐらいで諦めるわけないよな。渋々スマホを受け取る。
「久しぶり~乾くん。ちょっと急いでるから要件を伝えるね。小山明さんから連絡があってね、まだいるらしいよ。奥さん」
意味を理解するのにしばらくかかった。喉が渇く。背筋が寒くなる。立っている感覚が不安定になる。
「どういうことですか?」
何を言っていいかわからず出た言葉がそれだった。我ながら間抜けだとおもう。
「さぁ? それがわからないから電話したんだ。小山さんとしては一度君に来て欲しいらしいよ。今日は家にいるって言ってた。どうする? ちなみに僕はもうすぐ着く」
「坊? 悪い知らせかや?」
部室で「坊に捨てられたのじゃ。もうお嫁にいけないのじゃ。お~いおいおい」とわざとらしく泣き真似をしてた先輩がいつの間にか傍に立って俺の袖を握っている。気遣ってくれる視線が温かい。
「先輩……小山さんのところに、奥さんがいるって」
傍の伊音にも部室にいた羽智と部長にも聞こえたらしい。誰もが息をのむ。この場にいる全員、音の余韻と共に消えていった奥さんを見ているのだ。幽霊がどうこう、心霊現象がどうこうなどと知識がなくても安らかに旅立ったことを感じられた。
「坊、行くのじゃ」
「今から先輩と向かいます」
「は~い。まってま~す」
通話が切れた。伊音にスマホを返す。部室に戻れば羽智がギターのシールドを抜いてくれていた。
「片付けはやっておくから。何かあったら連絡すること」
「あと頼む」
ギターをケースにしまい背負う。鞄は先輩が持っていた。メンバーに見送られて部室を飛び出してから気づいた。
「なんで俺自分から怖いとこに行こうとしてんの?」
「乗りかかった船というじゃろ。それに、電話があったということは坊が頼られたということじゃろ?」
俺もそう思ったから部室を飛び出してきたはずだが、どうにもまた先輩に流されている気がしてならない。この流れに慣れてきた感すらある。走ってんだか走ってないんだか、という速度で小山さんの部屋の前まで来た。息を整えてインターホンに手を伸ばす。その手を先輩に握って止められた。
見れば先輩の視線はインターホンに留まったままだ。触れる指先の体温がいつもより低い。この人、緊張してる?
「引っかかっていたのじゃ」
ささやくような声で言って先輩が視線をあげた。宝石みたいに澄み切って輝く赤に影が差す。
「突然体を奪われた男児は本当に安らかな場所にいけたのじゃろうか」
俺に答えられる訳もなかった。
頭に浮かんだのは窓辺で丸まり消えていった黒猫の姿だった。
「風波兄くんが気にしている不審点となにか関わりがあるかもしれんのじゃ。心してかかるのじゃ、坊」
「おう」
正直何も考えずここまで来てしまったが、起きていることには原因がある。奥さんがいることにはなにか意味があるんだと改めて言われて今更ながら緊張してきた。
インターホンを押すと出てきたのは風波だった。家主のように出迎え俺たちを部屋にあげる。廊下を抜けて突き当たりのドアを開ける。
「ひっ」
リビングに踏み入った瞬間俺は蹈鞴を踏んだ。
「おっふ……坊っこら坊っ」
背後の先輩にぶち当たり二歩廊下に戻る。非難が飛んでくるが不意に出てくるものほど怖いことはない。いきなりいるとは思わなかったのだ。
小さな仏壇の前に喪服姿の奥さんが立っていた。長い髪は首の後ろで一つ縛りになっていて白と言うより青白い頬が見える。仏壇をじっと見下ろしていた。霊って髪縛るの? そのゴムどこから出てきたの?
「やはりいますか?」
左手のキッチンから小山さんが出てきた。白いシャツに黒い細身のパンツ姿は、前に見たときよりすっきりしていて疲れた感じはしなかった。
俺の横をすり抜けて先輩がリビングを覗く。
「ふむ。ほれ、埒が明かないのじゃ。せめて部屋に入るのじゃ」
「へぇ~やっぱり見えてるんだ。おもしろい」
先輩に手を引かれてリビングに入ったはいいが仏壇に近づけなくて俺は入り口で立ち止まる。
俺を避けて入ってきた風波が追い抜き様にボソリと零した。胡散臭い笑顔付きで。
小山さんと風波はテーブルに向かい合って座る。テーブルには俺と先輩の分の飲み物も用意されていたがとてもじゃないが座る気分にはなれなかった。
「そこに、妻がいるんですか?」
小山さんがまた訊いてきた。前みたいにどうなってもいい、死んでもいいと投げやりな表情じゃなくて、気遣わしげな、できることなら会いたいと言っているようだった。
「ぐっ!?」
小山さんに視線を移していた間で奥さんがこっちを向いていた。距離は変わらないが確実に俺のほうに体を向けている。
下がろうとする俺を先輩が腕を掴んで止める。先輩!? 怖いなら怖いでいいって言ったよね!?
奥さんはじっとこっちを虚ろな目で見ているだけだ。部室の入り口に立っていた姿を思い出すが、あのときの恐怖はない。ただ、何を求められているのかわからなくて戸惑うことしか出来ない。
「わ、わけわかんねぇよ。先輩」
助けを求めた先輩は俺の横を離れて奥さんに近づいた。先輩が至近距離に寄っても奥さんはピクリとも動かない。
「ご婦人、坊になにか言いたいのかや?」
一度無視されたのに先輩は果敢に話しかける。強い。
なにも変わった様子が見られないので今回も先輩は拗ねるのか、と思ったとき奥さんが動き出した。うつろな顔で小山さんと風波が座るテーブルを貫通してリビングの左側、キッチンの横にある階段に消えていった。
「なにか言いたげじゃな」
「ライブから帰ってすぐに榊と水を川に流しました。それからしばらくはなにもなかったし、毎日仏壇には手を合わせていたのに、一週間ほど前から物音がするようになったんです」
小山さんは事情を説明してくれた。
俺たちが訪れる前から聞こえていた声は消え、毎朝手を合わせることでどうにか生きていこうと思えたという。奥さんと同じ場所に行ったとき、恥ずかしくないようにしようと。一週間はそんな感じで過ぎ、ある日物音に気づいたらしい。ぼんやりしていると部屋の中から小さな物音がする。出所を探してみれば仏壇で、奥さんの位牌がカタリと、音を立てて動くらしい。それ以外に異常はなく、一日一度か二度、小さく音を立てるだけなので不思議に思いながらもそのままにしていた。しかしここ二、三日は家に帰ってリビングに入ると奥さんの姿が見えるのだという。暗い部屋に人影が立っている。電気をつけると姿は消え、呼びかけても反応はない。ただその繰り返しだ。
「なにか言いたいことがあるんじゃないかと思ったんです。妻は口で言うより態度で訴えるほうでしたから。でもそうなると見えない私では何も察してあげられません。ですから風波さんを通じてご連絡させていただきました」
高校生相手にずいぶんと丁寧なしゃべりかたをしてくれる。小山さんの中で俺はどんな存在なんだろうか。
「やはりご子息のことじゃろうか」
小さな顎に指を沿わせた先輩がポツリと呟く。
「恥ずかしながら息子のことは妻に任せきりでした。なにか、息子について不手際があったのでしょうか?」
「でも、秀くんも亡くなっているのに、このタイミングでなにを?」
小山さんと風波の質問には先輩も答えられないようだった。
「声を持たぬ人間を相手にするのと一緒で、見えるから霊の全てがわかるなどということはないのじゃ。坊はどうじゃ?」
「俺だってわかんねぇよ。そもそも怖くてまともに見られねぇし」
「そんなもんなんだ」
風波の反応は、落胆したというより興味深いことが増えたって感じで、それはそれで怖かった。
「妻は、そんなに恐ろしい姿なんですか?」
痛みを堪えたような小山さんの顔に言葉の選択を間違ったと思った。どう言い繕っても怖いんだけど、身内がビビられてるのはいい気分しないよな。
「普通の人間と同じ姿をしてますよ。ただ、俺は幽霊が怖いから、そこにいるってだけでダメなんです」
「ムリを言ってしまったみたいで、すみません」
「あ、いや……なんていうか、俺も気になってたし、ビビりなだけなんで気にしないでください」
開き直れたとはいえ自分からビビりを主張するのは恥ずかしい。堂々としている先輩の手前、格好もつかない。
「二階にはなにかご子息に関係する物はあるかや?」
先輩が天井を見上げて言う。奥さんは階段に消えていった。テーブルは無視して歩くくせに壁とか階段とか、道に沿って歩くんだよな。幽霊の理屈はわからない。そういえばあの猫も机の下に入ったり飛び乗ったり、物を無視するような動きはしなかったな。
「遺品が少し。まだ整理仕切れていない分がありますが」
「奥方は二階に向かったとおもうのじゃ。お邪魔することはできるかや?」
ここまで来たら諦めるけど、幽霊の後を追っかけるって三週間前の俺には考えられなかっただろうな。
「はい。どうぞ」
小山さんの案内を受けて俺たちは二階へと上がった。階段を昇りきるとドアはなく、どでかいロフトのような二階があった。一階と同じ方向に掃き出し窓。階段の上にかぶるようにクローゼットがあり、反対側にベッドがある。男の一人暮らしにしても物がない印象だ。
クローゼットの前に奥さんが立っている。
「遺品はクローゼットの中かや?」
「ええ、出しますか?」
「頼むのじゃ」
小山さんがクローゼットの戸を開ける。奥さんと完全に体がかぶっているがなにも感じないんだろうか。中から出されたのはひとつの段ボール箱だった。小学生で死んだのなら多くも少なくもないんだろう。ましてや小山さんは一戸建てから引っ越してきている。俺にも覚えがある。数年後には段ボールの中身も少しずつ減っていくんだ。
足下に段ボール箱を置かれた瞬間背筋が凍った。さっきまでは、奥さんの存在に震えない程度の恐怖しか覚えていなかったのに立っていることすら怖くなる。
「おわっ」
何かが箱と俺との間に飛び込んできた。驚いて尻餅をつく。
足先にいるのは黒猫だった。毛を逆立てて箱を威嚇しているようだ。混乱して先輩を見るが、先輩も箱と猫を見比べて目を丸くしていた。
箱から異臭がして底から側面が黒く染まっていく。
「あの、どうしました?」
箱を置いただけで怯えだした俺を小山さんが訝しむ。猫にも異臭にも気づいていないようだ。
「そのまま置いておくのじゃ、触ってはならん」
先輩の強い口調に小山さんが一歩下がった。
「なにが見えているの?」
俺のすぐ後ろにしゃがんだ風波が尋ねてくるが説明している余裕はない。第一俺にも訳がわからない。
箱が怖い。とにかく怖い。こわいこわいこわい。
猫の威嚇がさらに激しくなる。
底を染めていたものが床に流れ出した。血だ。赤黒く変色した血がゆっくりと床に広がっていく。
クローゼットの前から動かなかった奥さんが動いた。目を見開いて走り出し箱を抱えて蹲る。
一歩下がった先輩も呆然とそれを見下ろしている。
ただ見ていると喪服の背中が煙のように揺らぎ透けて箱の輪郭が見えてくる。影が箱に吸い込まれていった。箱のシミも床に広がった血もなくなっている。
威嚇するのをやめた猫が俺の前を右に左に歩いて箱の様子を窺っている。チラリと俺を見て一声鳴くと階段を駆け下りていった。
体の震えは止まったが今度は力が抜けて動けなくなってしまった。要するに、腰が抜けた。
「すまんが開けてほしいのじゃ」
「僕が開けるよ」
風波が俺と箱の間に割り込んでしゃがんだ。横から先輩が覗き込む。俺の位置からでは中身は見えない。風波と小山さんが確認するように先輩を見上げた。
「ふむ。坊、ワシにはおかしなものは見えん。来てみるのじゃ」
深呼吸したあと這って箱に近づいた。
一番上に収められていた物にぎょっとする。よくみればそれはおもちゃのクロスボウだった。矢は見当たらなかった。直前に猫を見たから余計に目に付いたのかも知れない。その下にはゲーム機や鞄、ノートなんかが詰め込まれていた。血で汚れているものもなさそうだった。それでも、底の影が怖い。
「坊、どれか怖いものがあるかや?」
小山さんに断りを入れた先輩が一つずつ手に取って箱から出していく。ピンポイントで物に恐怖を感じるものだろうか、と疑問だったが、底にあったノートが出てきた瞬間鳥肌が立った。
「それ、怖い」
ただのノートだ。表紙には小山秀のクラスと名前が手書きされている。それが異様に怖かった。表紙を開けば中から何かが飛び出してくる予感がする。
中を見る許可をもらって先輩がページをめくる。表紙に名前を書いただけでまだ使っていなかったようだ。
「おかしいですね。使っていないノートは捨てたとおもったんですけど」
小山さんが首を傾げる。
ノートの真ん中ぐらいまでめくってそのまま白紙が続くのかと思えた時、唐突にページが真っ黒になっていた。マジックで塗りつぶしたのか、めちゃくちゃな線や円でぐちゃぐちゃに汚されている。書いてあった何かを隠したのか、わずかな隙間に文字のようなものが見える。
「こんなの、知りません」
小山さんは遺品を整理した張本人だ。残す遺品を吟味しただろう。明らかに異常なノートに気づかないはずない。
「これ、持って帰って調べたり写真に撮ったりしたらダメかな?」
風波がさらっととんでもないことを言う。
「俺は絶対やだ」
なんなら先輩がそのノートを持っていることすら嫌だ。
「ん~、人の恐怖心ってバカにできないんだよね。やめておこう」
是非ともそうしてもらいたい。最悪兄ちゃんがどうにかなろうと知ったこっちゃないが伊音は俺の後輩で軽音部だ。とばっちりはごめんだ。
「ここに置いておいてもいいものですか?」
小山さんの不安顔はもっともだ。目の前でビビり散らした俺が一番の原因だろうけど。
「不安じゃろうが下手に持ち出すことの方が危険に思えるのじゃ。もしかしたら奥方はこれが気になって戻ってきたのかもしれんのじゃ。しばらくは元に戻して様子見じゃな。変化があればどんな些細なことでも風波兄くんに連絡するのじゃ。いいかや?」
先輩が小山さんと風波を交互に見る。大人二人が女子高生に素直に頷いた。違和感が無いから不思議だ。ノートを閉じて箱の底に戻し、出した物も丁寧に戻して蓋を閉める。どうにもクロスボウが目に焼き付いて離れなかった。
クローゼットに箱の姿が消えるとようやく落ち着けた。
先輩を見れば表情をなくして俯いている。あれ、これなんかヤバいな。フローリングに正座し、組んだ指を太ももに乗せる。
「風波兄くんは、四人は事件に巻き込まれたかもしれぬ、と言っておったじゃろ?」
「うん。小学生がうっかり犯罪を目撃しちゃうってのは稀にあることだからね。それに、小山秀くんにしても間々原いつきくんにしても、何かに追われたように走り出したって証言がある。犯人に追われていたんじゃないかと僕は考えたんだけど」
「いつきくんもなんですか?」
小山さんが目を丸くする。
「たまたま目撃していた通行人の証言です。警察にはあがっていません。崩れ始めた鉄骨の下に自ら走り出したように見えた。と。その目撃者も確信はないようでしたが、そのように見えたらしいです」
「巻き込まれたのは事件ではなく穢れかもしれぬのじゃ」
雲行きの怪しい話に先輩がさらに油を注ぐ。
俺も含めた視線が先輩に集まる。
赤い瞳がじっと床を見つめる。
「やはり起点は最初の行方不明じゃろうか」
たしか小山秀の事故死より前に行方不明になっていた鹿住吉宏だ。風波が探っている案件の起点とも言える小学生。母親も父親も、母方の祖父もいなくなった謎の存在。
「この時なにかの穢れに触れたか、もしくは鹿住くんの行方不明の原因が穢れを呼んだか、作ったかじゃ。他のお子らにも会ってみる必要がありそうじゃ」
「そこは僕が手配するよ。小山さんはこの家にいても大丈夫そう?」
風波の指摘に小山さんの顔色が変わる。一同の視線はクローゼットに向かう。吸い込んだ悲鳴に喉が鳴った。
クローゼットの前に奥さんが立っていた。扉に額を埋め込むようにしてじっと何かを見ている。
「ワシには判断がつかんのじゃ。不安ならば離れていた方がいいとはおもうのじゃが」
赤い視線が俺に問う。俺には先輩みたいな知識はない。だから見たものを感じたまま言うしかできない。
「俺の勝手な想像だから聞き流してくれてもいいんですけど、クローゼットから出した箱が血まみれに見えたんです」
区切って周りを伺えば話を聞いてくれるようだった。
「開けたら大変なことになるっておもいました。けど、奥さんがそれを抱えたんです。腹に抱え込むような感じで。そうしたら血がなくなった。もしかしたら、奥さんはずっとそうやって箱が開くのを防いでいたのかもって、勝手なイメージですけど、守ってたんじゃないかな……と。自分でも何言ってるかわかんないですけど」
思ったままを口にしたら思った以上にまとまらなかった。何を守っているのか、言った俺がわからない。でも、小山さんは納得したような顔で頷き、少しだけ笑っても見せてくれた。
「なら、私はこの家にいようと思います。妻と一緒に守ります」
ああ、奥さんは息子を守ってたのか。
小山さんの言葉に俺が納得してしまった。
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
風波が間々原いつきと実川泉に繋ぎをつけるのは明日以降になるため、今日は小山さんの家で解散になった。
たつ川の堤防沿いを学校側に歩いて行く。
雨の降っていないたつ川は穏やかなものだ。時々この景色を忘れるほどの濁流になるので地元の子供はたつ川では遊ぶな、ときつく言われて育つ。まあ言うこと聞かないんだけどな。とくに俺とか。「龍神様に連れて行かれるぞ」ってじいちゃんばあちゃんなんかには脅されるわけだ。今ならめちゃくちゃ信じて近づかなかったのに、子供の頃の俺、なんで川で遊んだの?
「やっぱり川で遊ぶと龍神様は怒るわけ?」
なんとなく、先輩ならわかる気がして訊いてしまった。
「主様はお子が好きだから怒ることはないじゃろ。その教えは昔からたつ川が氾濫しやすい川じゃったから作られた話じゃよ。ワシが子供の頃もよく言われたものじゃ」
そのしゃべり方で昔語りをされると何百年も前の話に聞こえる。
「自然災害も神様のせいにしてしまうから人間とは愚かじゃよ。勝手に責任を押しつけて勝手に崇めるのじゃ」
吐き捨てるような言い方は似合っていなかった。
違和感のある表情は一瞬で消えて俺を振り仰いだ時にはもう笑っていた。
「さて、軽音部に戻るかや?」
今から学校に戻っても下校時間までいくらも残らない。ここからまっすぐ帰るとして、先輩をあの家に帰すと考えると素直に足が向かなかった。
「戻っても部活やる時間ないし、どっか遊びに行く?」
先輩が帰りたいなら素直に従うつもりだった。
「ゲーセンにいきたいのじゃ」
「撮らねえぞ」
笑顔の提案を俺はソッコーで拒否っていた。
「なぜじゃ!? 女子高生はみんな撮るじゃろ!? 彼氏と撮った画像をロック画面に設定してマウントをとるのじゃ!」
アンタ、スマホ持ってないだろ!? しかも認識が歪んでるし。あんな目が異様にでかくなる写真撮ったらバランス悪くなって美人が台無しだろ。肌もこれ以上白くなったらそれこそ人形じゃねえか。
「彼氏いないって言ってただろ」
「いないのじゃ」
「よし帰るぞ」
かといってまっすぐ帰る気はなかった。
先輩は慌てて俺の腕を引く。
「待つのじゃ坊! 写真は撮らぬからゲーセンには行ってみたいのじゃっ」
ほとんど俺の腕にぶら下がっている状態の先輩にわざとらしいため息をついて見せた。
赤い瞳を潤ませる先輩も大概あざとい。
「ぜってぇ撮らねえからな」
このノリで押し切られたらあの四角いブースに入ってしまう自分が想像できた。
部長にこのまま帰るとメッセージを送る。
途端に上機嫌になった先輩に手を引かれ、俺は学校を横目に繁華街に向かった。
「なにやってんだろうな、俺……」
遊園地に来た子供かと思うほどはしゃぐ先輩に引きずられて一時間。写真シールのエリアはむりやり通り過ぎたが至る所で引っかかり、そのたびにプレイするのはなぜか俺。しかもあの人二百円しか持ってない。クレーンゲームも対戦ゲームもメダルゲームも勝っても負けても喜ぶから質が悪い。そんなのねだられたら断れないだろ。
そうして俺の軍資金も尽き、ガチャコーナーの端にある飲食スペースで一人カップジュースをちびりちびりと飲んでいた。先輩はガチャの群れに突っ込んでいったまま姿が見えない。貴重な二百円を溶かさないか心配だ。頭に誰も住んでいなさそうな暗い家が浮かぶ。あの様子じゃ小遣いももらえてないんじゃないだろうか。
出会って二週間、吊り橋効果とでもいうのか、ギャップ萌えとでもいうのか、とにかくテンションの乱高下で先輩にずぶずぶハマっていくのを自覚している。
このまま流されたら先輩に依存しそうで怖かった。もう遅いかもしれないけれど。
「どうすんだこれ」
飲み干したカップを握りつぶしゴミ箱に放り込む。先輩がガチャに金を溶かす前に回収しに行くか。
先輩のことばかり考えていたら誰かと肩がぶつかった。
「わりぃ」
「おい待てよ」
かなりいい加減だけど謝ったのに肩を掴まれ引き戻される。面倒くさい。相手が人間なら売られたケンカを買うことに迷いはなかった、が、
「うわっ」
学ラン姿の他校生だった。髪を金髪に染めている。そんなことはどうでもよくて、俺の肩を掴む左腕に小さな白い手がぶら下がっていた。手だけだ。手首がチラッと見えるがその先は靄みたいに影が揺らいで消えている。大きさから想像すると小学生くらいだろうか。まじまじと見てしまった。
「なんだよ。なにビビってんだよダセェな」
こっちが怯んでいるのを面白がって学ラン野郎が笑う。相手は一人だ。だがこうなると俺が相手にしなきゃならないのは学ラン野郎どころではなくなる。今すぐ逃げたい。俺は肩を掴んだ腕をはたき落とした。相手の怒りゲージが溜まるのは目に見えた。
「なんでもいいからそれ以上近づくな」
「はぁ? 何言ってんだおまえ」
「近づくなって言ってんだろ! 日本語わかんねぇのかよ!」
せめてその腕の手どっかに置いてこい!
「坊! 坊~! 見るのじゃ! ギターじゃ! ギターが出たのじゃ! これはどうやって開けるのかや?」
あああああ! 遅かったかああああ! 二百円溶かしやがった。
先輩が丸いカプセルを手に走ってきた。跳ねるな。見えるし揺れるから。自力では開けられなかったカプセルを覗けば中にギターのキーホルダーが入っている。へぇ、なかなか細かくていい出来だな。じゃなくて、なにこの可愛い人。いや、そうでもなくて。
「あ~はいはい。ちょっと貸して」
たぶんこれでもない。
カプセルを捻って中身を先輩の手に落としてやる。メタリックな色も忠実に再現されたエレキギターを先輩が目線に持ち上げて眺める。目元を赤く染めて心底嬉しそうだった。
「なにシカトしてんだよ」
めげない学ラン野郎がブレザーの襟を掴んで視界に割り込んできた。こっちは美形に癒やされてるっていうのになんてことしてくれてんだ。 学ランを掴む小さな手がぎゅっと力を入れるように動いた。
「ひいいっ」
「坊、それはいくらなんでもビビりすぎじゃ」
カプセルを開けてやった俺に対して先輩の視線が冷たい。くすぶる火みたいだった瞳が硬い石みたいになってる。酷くないか?
「ムリだろ、手だぞ!? 手だけくっついてるとか意味わかんねぇよ!」
「小山の旦那殿にも奥方の手がくっついておったじゃろ。よく見てみるのじゃ、この小さい手はまるで兄くんに必死について行こうとしている弟くんのようじゃろ? ほらかわいいのじゃ」
「可愛くねぇよ!」
「こんな小さな手で必死にすがりついてるところがかわいいのじゃ。小さいお子は大事にしないといけないのじゃ。お子は宝なのじゃ!」
「ババアみたいなこと言っても俺はごまかされねぇからな」
「こら、先輩と呼ぶのじゃ」
「おまえらいい加減にしろよ」
どいつもこいつも構ってちゃんかよ! ついに学ラン野郎は両手を出してきた。むりやり対面させられ鼻が触れそうなほど顔を寄せられる。頭突きでもかましてやろうかと思ったが、相手の顔が場違いに真剣で逆に驚いた。
「おまえら、俺の弟のことなにか知ってんのか?」
「弟?」
俺と先輩の声が見事にハモった。先輩が軽音部に入ってくれたらボーカルに推したい。
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