第4話当然だけれど、たしかに生きていた

【当然だけれど、たしかに生きていた】


 たつ川は、整備された堤防の割には底の浅い川だ。しばらく前にあった季節外れの嵐の時には堤防ギリギリまで水が来たから寸法を間違えたわけではないようだ。町の北側から流れ込み緩く西にカーブするたつ川の、赤い欄干の橋の上に立って西側を向くと、小山の麓に鳥居が見える。鳥居を潜るとすぐに階段で、両側から山の木々が迫る急な階段を昇れば中腹にまた鳥居があって神社の境内に入る。

 木陰差す階段は空気がひんやりしている。運動部がトレーニングに使うこともあり、整備も学校が手伝っていてしっかり手が行き届いている印象だ。

 昔は遊び場として俺も通っていたがかくれんぼの件で大泣きして数日寝込んでからは近づかなくなっていた。おそらく十年ぶりぐらいに階段を昇っている。足取りは当然重い。背負ったギターも、岩と間違えたんじゃないかというほど重く感じる。


「坊、もうちとしっかり歩けんのかや? 日が暮れてしまうのじゃ」


 外に出たことないんじゃないかと思うほど白い肌をしていながら先輩は軽快に階段を昇っていた。うっかり見上げるとスカートの中が見えそうなので段差の奥に生えた苔を眺めながら重くなる足をむりやり動かす。


「これ行かなきゃダメか? 行きたくないんだけど。神社ってこえぇんだもん」


「だもんって、突然キャラ変するでない」


 だだぐらいこねさせてほしい。

 放課後先輩と合流するために軽音部に行ったとき、いつもどっしり構えてのんびり笑っている羽智が落ち着かないぐらいには深刻なトラウマ案件なのだ。霊が見えると告白した後だから俺のトラウマの原因が神社での怪現象だと察しがついたのだろう。俺の幼なじみやっぱり過保護だな?


「神社ってなんかモヤモヤしてんじゃん。訳わかんなくてこえぇんだよ」


 見えるようになって以来、俺の視界では神社は常に霧に包まれたように映っている。他の神社では薄かったり、霧が見えなかったりするのだが、ここは常に深い霧が立ちこめている。

 こうしている今も、先輩の姿ははっきり見えるし足下も確認できるが前後左右、十歩ほど先は霧で景色がぼやけているのだ。

 先輩は違うのだろうか。


「神社がきちんと信仰されて神様がおる証拠じゃよ」


 え~そうなの? これ神様がいるってことなの?


「昔、かくれんぼしてて倉庫に閉じ込められたことがあんだよ。めちゃくちゃ怖くてなんで誰も見つけてくれねぇんだよって泣きわめいてたら誰もいないはずなのに耳元で声が聞こえたんだ。神様がいるならそういうの起こらないもんじゃねぇの? それからおかしなものが見えるようになったから神社に行きたくねぇんだよ」


「なぜか知っているような話じゃな」


 部室の隅で震えていた俺も先輩からしてみたらかくれんぼしているガキと変わらないんだろうな。実際、あの頃から俺は何にも変わってない。

 しゃべりながら昇っていたらいつの間にか先輩に並んでいた。


「人は人のために神を祀るが、神は人のためにいるとは限らんのじゃ。悪戯くらいするかもしれんのじゃ」


「ますます行きたくなくなったわ」


「ここまで来ては戻るほうが大変じゃ。行きはよいよい帰りはこわいじゃよ」


 先輩は俺の手を取って颯爽と階段を昇り始めた。手を引く先輩は筋力以上の力強さを持っている。引きずられて渋々ついて行く。

 てかこの状況でなんでその童謡持ち出してきたの? 余計怖いんですけど!?

 二つ目の鳥居を潜るとさらに霧が濃くなった。風もないのに揺らめいて、冷たい霧が肌を撫でていく。先輩の手を離したらどこに向かって立っているかもわからなくなるだろう。霧の向こうにぼんやりと影になっているのが賽銭箱がある拝殿だろう。それを回り込むと一回りでかい本殿がある。先輩は本殿も素通りして神社裏手に回り込む細い道に入った。裏山からも続いているこの道は近場の小学生の遊び場でもある。

 本殿の斜向かいの位置には小さな社がある。何のためにそこにあって何を祀っているのかはわからない。近づくと耳鳴りがした。思わず立ち止まって離れていきそうになる先輩の手を強く引く。まだなにも見ていないのに体が震え出した。

 怖い。動けない。目を開けたくない。

 それなのに目を閉じることもできなくて俺は前方を震えながら見据える。怖い存在が霧の向こうから来る。自分でもよくわからない確信があった。

 霧が揺れ人影が浮かび上がる。息もできず体が固まる。影が段々濃くなって石畳を草履が擦る音が近づいてきた。霧から出てきたのは、四十代ぐらいの男だった。白い着物に紫の袴を履いている。眼鏡の奥の目元には笑いじわが刻まれていて人の良さそうな顔をしていた。神社の関係者だろう。禰宜ねぎと呼ぶのか宮司と呼ぶのかはわからない。男は背後で両手を組んでいてゆっくりと俺たちに歩み寄ってきた。

 先輩が俺と男の間に入る。

 目を合わせたくない。今すぐ地面にうずくまりたい。とにかくその男が怖くてしょうがなかった。

 男は先輩と触れあうほど近づき、でも先輩を無視して首を伸ばして俺を覗き込んできた。背後に隠されていた手が出てきて考え込むように少したるんだ顎を撫でている。

 先輩が振り返る。先輩の赤い瞳と、男の黒い瞳が俺を見る。断然男の視線の方が怖かった。


「ふむ。あのときの童か」


「うあっ」


 声に弾かれたように俺は尻餅をついた。それでも先輩は手を繋いでくれていて、俺の傍にしゃがみ込み、同じ高さから男を見上げた。


「恐怖とは畏怖でもある。坊はよく感じよく喚く。それは正しく敬うことに繋がる大切な感覚なのじゃ。素直に怯えればよい」


「一葉も生意気なことを言うようになったものだ」


「な、なんなんだよ……アンタら」


 二人がかりで訳のわからないことを言われ泣きそうだった。

 先輩が握っていた俺の手をさらに片手でポンポンと叩く。


「こちらはこの神社の龍神様じゃよ。川主様とも呼ばれておるのじゃ」


「久しぶりだな童。少しは大きくなったか?」


 ちょ、ちょっと待ってくれ。いや、本当に待ってくれ。ちょっと処理が追いつかない。え? 俺、耳のチューニングあってる?


「りゅ、りゅう……龍神、様? ……は?」


 龍で神で様? 川? 主? 久しぶりって? なに? 俺、龍神様と知り合いなの? 絶対会ったことないだろ。こんな怖いのに遭遇してたらトラウマ…………会ってるじゃん。


「も、もしかして、かくれんぼの時、倉庫にいたのって……」


 冷や汗をダラダラ掻きながら龍神様を見上げる。見上げることすら恐れ多い。地面に頭を擦りつけてそのまま消えたくなるが体が一切動かない。

 龍神様が人差し指で眼鏡を直した。


「なんだ、忘れていたのか?」


 忘れたくても忘れられなくて今でも引きずってますけど!?


「珍しい色の童がいたから遊んでやろうとしたら泣かれて困った困った。あやしてやろうとするとさらに泣くからなぁ。もう泣き虫は治ったか?」


 あれ、あやされてたのかよ!? あのときの「もういいかぁーい」って遊びに誘われてたの!? 一片たりともこっちに伝わってきてねぇわ!


「泣き虫は治ってないのじゃ。な? 坊?」


 泣いていいだろうか? トラウマの原因が神様とかしゃれにならないんですけど。


「…………もしかして、俺が見えるようになったのも龍神様のせいだったりするわけ?」


 やさぐれ気分で訊いてみたら「う~ん、たぶんそうじゃな~い?」的な、テキトーな返答をいただいた。俺はこの場でふて寝しても許されるんじゃないだろうか。突然の真実に立ち直れない俺を尻目に二人? は、ご近所同士がするような「最近どうよ? 変わりない?」みたいな挨拶を交わしている。ちなみに「一葉」っていうのは龍神様が先輩を呼ぶときのあだ名みたいだった。どっからとってつけたの?


「して、なにしに来たんだい?」


「一枝もらいにきたのじゃ」


「なんだ、私と遊びに来たのではないのか。そのくらい好きに持っていけ。いや……これをもらっておこうか」


 龍神様がゆっくりと先輩に手を伸ばす。目指す先は、多少改善されたが未だにがっつりと見えている谷間だ。

 ちょっと待てちょっと待て! それ以上近づいたら触るだろ!?

 触らせたらダメだと思うのに体は動かなくて、いやにゆっくりなその動きを見ているしかできなかった。

 そもそもなんで俺こんなに先輩に触られるの嫌なんだろうか。

 先輩はとくに気にした様子もなくおとなしく立っている。

 抵抗しろって。

 男の指が肌に触れた。

 鳥肌が立つくらい嫌だった。

 何かをつまみ上げて離れていく。迷彩柄の小袋だ。昨日俺たちが作ったお守りを先輩から取り上げた龍神様はしげしげとそれを眺めてから袖にしまった。


「また坊と遊びに来るのじゃ。今日は急いでいるから失礼するのじゃ」


「あとでゆっくり舞を納めにおいで」


 先輩の言葉にゆったり頷いた龍神様は霧の中にスウッと消えていった。締められた喉が解放された気分で俺は何度も深呼吸をする。唐突に現れてさらっと爆弾を落とし一切迷いなく去って行った。全部ひっくるめて怖い。

 そして「また遊びに来る」という先輩の勝手な約束に盛大に巻き込まれた。俺できるだけ来たくないんですけど!?


「さて、挨拶もすんだから枝をもらってさっさとご婦人を迎えにいくのじゃ」


 今のそういう通過儀礼だったの? 挨拶がとんだ恐怖体験なんですけど。

 先輩に手を引かれて立ち上がる。気を抜くと膝から崩れそうだったが倒れると手を繋ぐ先輩を押しつぶしそうなのでがんばった。石畳の横に頭を下げて潜る小さな鳥居が立っている。そこから三歩ほどの横道が延び突き当たりに小さな社があった。俺の両手を広げた幅より少し小さな規模の社だ。手前には小さな賽銭箱があり、本殿をそのまま小さくしたような作りで、細いしめ縄に稲妻みたいな形の紙が下げられている。両脇には赤い布が結びつけられた榊が供えられていた。

 先輩は手を叩くなり礼をするなりすることもなく榊の片方を引っこ抜いた。


「え!? それ取っていいやつ!?」


 思わず声が出た俺を振り返り赤い瞳を瞬かせて首を傾げる。あざとすぎて可愛くねぇって……可愛いけど。


「龍神様が好きにしろと言ってくれたのじゃ。大丈夫じゃ」


「そ、それならいいけど」


 それでさっさと帰ろうとするが、なんだか後が怖いので、俺はポケットを漁り出てきた二百円を賽銭箱に入れ頭を下げた。神社の参拝って手を叩くような気がしたけれど手が塞がっていてできないのでこれで勘弁してください。


「坊は優しいのじゃ~」


 アンタが何もしなさすぎるんだよ。「二百円も入れるなんて豪勢じゃのう」とかのんきに言いながら来た道を戻っていく。帰りはこわい、なんてこともなく、俺たちは鳥居を潜り霧のない世界に帰ってきた。

 …………え? 俺、神様としゃべった?



◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆



 何のためか、先輩は空ペットボトルにたつ川の水を入れた。学校を出るときいきなり俺の鞄に突っ込むからなんだとおもったらこのためだったのか。説明しろよ。

 川を渡ってからは先輩とは別行動になった。今朝の通学時に交差点に女が戻ってきたことは確認済みだ。先輩は女を連れてくるために交差点に、俺は風波から送られてきた住所を地図アプリに入れて経路を確認する。

どうやら学校北側の川沿いに建つアパートらしい。先輩とは学校裏門が面する歩道の角で待ち合わせだった。

 先輩を待つ間に風波からメッセージが届く。


――ごめんなさい。


 え? なに? 怖いんだけど。俺裏切られるの? なに? 

 風波からはそれだけで続きが送られてくる様子がない。ますます怖くなった。問いただそうかとしたが鈴の音が聞こえて顔を上げると交差点側の角に先輩が立っていた。手には榊、反対の手にはペットボトルがある。事前説明にしたがって、俺はアパートに向かい次の角に歩く。先輩は角一つ分の距離をとって俺を追う。なんでこんな面倒なことになっているか訊いたが「幽霊は角が好きなんじゃよ」と言われた。説明が面倒になってるよな? 肝心なところが雑なんだよな、この人。

 俺からは女の姿は見えないまま旦那のアパート前まで到着した。角がなくなったら次の目印は門や境だと先輩は言った。アパートは道に対して横を向く形で三棟が並んで建っている。敷地を塀が囲んでいて、塀沿いは駐車場と駐輪場になっていた。塀の途切れたところが門扱いできるはずだ。


 チリリと、鈴の音が近くなった。先輩がゆっくりと歩いてくる。三歩歩くと榊を小さく振った。榊から水が落ちる。ペットボトルから川の水を榊にかけ、また三歩歩いて水を落とす。

 あれは先輩の力でどうこうしている訳ではなく、神社から授かってきた榊と川の水のおかげらしい。

 なんでも霊は水に呼ばれるんだと。

 粛粛と歩く先輩は整った容姿も相まって人離れした、と、いうのか神々しいというのか、ちょっと怖い気もする。

 

 先輩の後ろに見える角からスウッと何かが出てきた。女だ。俺は視線を逸らす。幽霊には足がないと言っていた奴はどんな視界をもっているのだろう。普通に歩いてるんですけど? むしろ絶対歩けないような体なのに歩いているから余計怖い。


「さて、どこの部屋かや?」


 俺の目の前まで来た先輩が塀から敷地の中を覗き込む。さっきまで人形じみた完璧さだったのにしゃべり出すと途端に人間くさくなる。これが残念美人ってやつか?


「一番左の棟の一階角」


 どこまで近づくのか訊くと部屋の前までだと言うから俺は三棟並ぶ一番奥、道路側の角部屋を目指した。迷子を届けるだけだ、と軋む良心に必死に言い聞かせる。

 背中に冷気を感じる。女との距離が詰まっている。心臓が跳ね上がりそうになるのを深い呼吸で抑えて部屋の前まで来た。

 アパートは二階建てのメゾネットタイプらしい。一階に玄関ドアが五カ所あり、玄関ドアの左側に人一人分くらいのシャッターがあった。収納だろう。二階にベランダがある。クリーム色の壁と紺色のドアに屋根で小綺麗な印象だ。

 これからどうすればいいのだろうか。隣の先輩を窺おうとしたら余計な関節の増えた女の腕が伸びてきた。飛び退くこともできないくらい驚いた俺は悲鳴を飲み込み固まる。せめて顔だけはみないように視線をドア側に逸らした。女の腕は紺色のドアに伸びる。触れるか触れないかの瞬間、ドアが内側から開いた。


「うあっ」


 堪えていた声が漏れてしまった。

 ドアを開けたのは三十代半ばくらいの男だった。ワイシャツにグレーのスラックス姿は帰ってきたばかりの会社員、という感じだ。サイドを撫でつけて整えていただろうヘアスタイルが乱れている。目の前にいた俺と目があってポカンとしていた。


 俺も咄嗟に何を言ったものかわからず押し黙ってしまう。男二人、見つめ合ってしばらく固まっていた。


「あっ、ごめんごめ~ん、遅れちゃったね」


 沈黙を破ったのは俺たちの後ろから来た男だった。振り返ってまた俺は固まる。

 くせ毛に長い前髪。黒縁眼鏡。同じ要素なのに野暮ったく見える風波とは違いこっちは愛嬌のある目と浮かべた笑みでアイドル系イケメンの容姿を最大限生かしている。一目で兄弟だとわかるぐらい似ているのに印象が全く違う。


「風波くんが急成長したのじゃ」


「……そういう可能性も捨て切れねぇな」


 それぐらい顔がそっくりなのだ。弟は整った顔を全力で隠しているから付き合いが浅い奴はわからないだろうけど。


「助手の方が先についてしまってすみませんね。昨日ご連絡しました探偵をしております風波玲音かぜなみれおんです。小山明こやまあきらさんですね?」


 推定風波兄、がほぼ風波兄に確定した。親戚って線も消えたわけじゃないが、ここまで似ていると疑う余地がない。風波が言っていた情報のツテってこの人だったのだろうか。探偵が身内にいると個人情報がバカスカ手に入るの? それはそれで怖いわ。どさくさに紛れて俺たち助手ってことになってるし。風波からきたメッセージはきっとこのことだったんだろうな。

 正直、高校生が突然家の前に立っている言い訳なんて思いつかなかったのでありがたくはある。


「ああ、はい。どうぞ」


 男、女の旦那、小山さんはどこかほっとしたような顔で頷き、ドアを開けて俺たちを招き入れてくれた。

 風波兄は俺たちを振り返り超絶に人好きのする笑顔を見せて「それじゃ上がらせてもらおうか。乾志紀くん、朝香霞さん」と、言った。風波兄弟何者なの?


 先輩が持っていたペットボトルに榊を生けて玄関脇にそっと置いた。

 風波兄、先輩、俺の順に入りドアを閉める。女の姿はどこにも見当たらなかった。


 玄関を入るとまっすぐ廊下が延び右手にドアが二つ、左手にドアが一つ。廊下正面のドアを抜けるとキッチンとリビングダイニングがあり、真ん中にカーペットが敷かれその上に正方形のテーブルがぽつんと置かれていた。正面は掃き出し窓で今はカーテンが閉められていた。窓の右手に仏壇があり、二つの位牌とその奥に白い布に包まれた箱が二つ置かれていた。見たことのある光景だ。俺の時は父親と母親だったが、息子と奥さんの位牌と遺骨。まだ入る墓が決まっていないのだろう。

 風波兄が小山さんに声をかけ仏壇に手を合わせる。習って俺と先輩も線香をあげ手を合わせた。位牌の前には写真も飾られている。部室での件があるから冷や汗を掻いたが生前の笑っている姿だった。

 仏壇を横目に見る位置に風波兄が座る。テーブルは一辺に三人も並べるほど幅がないので俺と先輩は背後に控えるように並んで座った。俺たち、助手らしいし。自然な動作で先輩は仏壇側に陣取ってくれた。もう俺、アンタについてく。ちょっと涙が滲んだのは早々に正座がきつくなったわけじゃない。たぶん。

 三人分のお茶を淹れてくれた小山さんが掃き出し窓を背にして風波兄の正面に座った。


「お話はしゅうの同級生についてでしたか?」


 小山さんが自ら話を切り出した。


「はい。事故で亡くなられた秀くんには仲の良かった三人の同級生がいらっしゃったとか。ご存じですか?」


 いらっしゃった、って、今はいないんだろうか。そもそもなんで俺たちはここで座ってるんだっけ? 女をこの部屋に届ければそれで終了だと信じてたのに。


 小山さんが首を傾げる。


間々原ままはらさんと実川さねかわさんなら家族での付き合いもありますが、もう一人と言われると、恥ずかしながら思い当たりません」


 息子の友達について知らなかったことがショックだったのか小山さんの肩が下がっていく。


「今年度からの転校生だったようなのでムリもありません。では。間々原いつきくんと実川泉さねかわいずみくんが現在どのような状況かご存じですか?」


 小山さんの下がった肩がビクリと跳ね上がり明らかに顔色が変わった。口を開くが言葉は出てこない。


「ご存じのようですね。間々原いつきくんは現在入院中です。事故に遭い両足を切断する大怪我だそうです。一命は取り留めていますが精神を病んでしまったようで会話が成り立たない。実川泉くんはお元気のようですが部屋にこもりきりになってしまったそうです。友達を二人も続けて亡くしてしまったなら無理もないかとおもわれます」


 俺からは風波兄の表情は見えない。が、たぶんこの人薄く笑ってる。地味に怖い。


「今日お伺いしたのは新しいお友達の鹿住吉宏かずみよしひろくんについてです。今年度からの転校生で秀くんのグループとよく遊んでいたそうです。その鹿住吉宏くんが二ヶ月ほど前から行方不明になっているんですがお心当たりはありませんか?」


 風波兄がなんのためにここにいるのかはわかったが俺たちが巻き込まれた理由がわからない。小山秀の周りが不穏だというのは確かなようだが、不幸っていうのは結構簡単に連続するものだ。俺はとりあえず女が交差点を離れておとなしくしてくれればそれでいい。早く部屋から出たかった。決して足が痺れて痛いからではない。先輩を盗み見れば涼しい顔で座っている。しゃべらずじっとしていれば本当に人形みたいだ。息をしているのかもあやしいぐらいに。


「いえ。初耳です。なにも知りません。捜索届は出されていないんですか? 学校側からもなにも通達はなかったとおもいますが」


 首を振る小山さんの気持ちはわかる。行方不明なら学校も警察も騒いで聞き込みをするはずだ。ましてや失踪しているのは小学生なんだから。


「実は二ヶ月ほど前から無断欠席が続いていたようでして、親とも連絡がとれず学校側も判断に困っていたようです。学校関係者に知り合いがいましてね、その縁で僕が調査をさせてもらっているんです」


 そこから風波兄は経緯を説明し始めた。

 行方不明の鹿住吉宏は母親と二人暮らしで、離婚を機にこの町の小学校に転校してきたらしい。年度初めの転入と言うことで友達もでき問題ないように思われたがある日を境に姿を見なくなった。学校が母親に電話をかけてみるが繋がらず、自宅を訪ねてみるも生活の痕はあるが人の姿はなかった。親類の所在も不明でどうしようもなくなったとき小山秀の事故死があり、続けて友達の間々原いつきの事故があった。二度あることは三度あるかもしれない。いや、すでに間々原いつきで三度目かもしれない。同じ友達グループの実川泉も様子がおかしい。しかし確証はない。ただの杞憂ならいい。警察に知らせて大事になる前に心の準備をしたい。そうして探偵である風波兄に依頼が舞い込んだようだ。

 調べてみると気になることが多い、と、風波兄は言う。

 鹿住吉宏の父親を探して訪ねてみるもこちらも失踪しており逆に職場から所在を尋ねられる始末。父方の親戚を訪ねるも行方はわからず誰一人として父親と連絡がつかない。母方の親戚はどうかと探してみるが、母親の血縁はこの町に住む祖父だけだった。団地に住むという祖父を訪ねてみれば孤独死した老人を発見してしまった。この間二週間。どうにもおかしな気分になって事故に遭った小学生の線から調べてみれば起点となった小山秀の母親が自殺しており父親は引っ越していた。そして今に至る。らしい。

 寒気がした。一つ一つは稀ではあるがありえない話じゃない。寄せ集まると不気味だった。


「秀くん、いや、この場合は鹿住吉宏くんの周りではどうもなにかが起こっているらしい。もしかしたら行方不明の鹿住吉宏くんは事件に巻き込まれて、秀くんたちはそれを目撃してしまったのではないか、とも考えられます。単刀直入に伺います。奥様、小山亜希菜こやまあきなさんの自殺は、本当に秀くんの事故死を苦にしたものでしょうか?」


 やっと繋がった。女、小山亜希菜の自殺の原因。交差点に現れた理由。俺たちが何を知りたいのか風波兄はちゃんとわかっていたらしい。事前になにもなく現場でいきなり巻き込むあたり性格が悪い。風波が「ごめんなさい。」しか送ってこないわけだ。それ以外になにも言えなかったのだろう。詳しい話は後で問いただすとして、俺は風波兄の背後から小山さんの顔をうかがい見た。コトリ、と、どこかで小さな物音がした。

 音の出所を確かめようと動かした視線を小山さんの言葉が引き留めた。


「亜希菜、妻は、私が殺したんです」


 小山さんは両手で顔を覆い俯いている。


「それは比喩表現でしょうか、それとも実際の罪の告白でしょうか」


 風波兄の応答は実に淡々としている。告白にはかなりの勇気がいっただろう小山さんは両手をテーブルの上で組む。俯いた顔は今にも泣き出しそうだった。


「妻は自殺です。秀の葬儀を終えて自宅に戻り、私が着替えている間に首を吊って死んでしまった。でも、きっと妻に自殺を決心させたのは私なんです」


「理由をお伺いしてもよろしいですか?」


 またコトリ、と音が鳴った。隣から先輩の手が伸びてきて俺の手を握る。無闇に視線を動かさずじっと小山さんに集中した。


「責めてしまったんです。秀が死んだと聞かされた夜、動揺しすぎて責任を妻に求めてしまった。なぜ道路に飛び出させたんだ、と。お前がよく見ていれば秀は死ななかったんだと。お互い冷静じゃなかった。感情を抑えられず、私は全てを妻のせいにしてしまったんです」


 テーブルの上で握った拳に小山さんは額を押しつけた。つむじがこちらを向く。そこを何かが振り子のように横切った。鈍くいやに大きな音が鳴った。反応して仏壇を見ると二人分の位牌が倒れていた。視界の端をまた何かが横切る。違う、ちゃんと見えている。足だ。黒いストッキングに包まれた足がぶらりと振り子のように揺れ仏壇に当たって位牌を倒した。天井から喪服の女が吊り下がっている。顔は小山さんを見下ろすように俯いていた。俺の手を握る先輩の力が強くなった。

 女の首が伸び、腐り落ちるように滑って揺れに煽られ仏壇にぶち当たり床に落ちる。咄嗟に先輩を抱き寄せた。


「乾くん?」


 風波兄が振り返って首を傾げる。小山さんも俺たちを不思議そうに見ていた。二人には女が見えていないんだ。いつもそうだった。大人二人の反応には慣れている。けれど今は俺と同じものを見る先輩がいる。


 俺が抱き寄せたせいで投げ出された先輩の足首に女の手が伸びる。先輩の分のお守りは龍神様が持って行ってしまったことを思い出した。


「やめろっ」


 叫んだはずなのに掠れた小声しかでない。


「もしかして、妻がいるんですか?」


 見えていないはずの小山さんの声に女から視線が外れた。まずいと思ってもう一度仏壇の前を見るが姿がない。


「坊、テーブルの下じゃ」


 胸元から先輩の声が聞こえて俺はテーブルの下を見る。風波兄の膝先に長い髪が一束散っていた。ズルリとテーブルの影に引っ込む。テーブルの色は白で、小山さんが座っているとは言え掃き出し窓の前だ。そこまで濃い影ができるはずもないのにテーブルの下は真っ黒でその空間だけ暗幕に閉ざされているように見えた。


「ははっ、妻はきっと私を呪い殺しに来たんだ。最近声が聞こえるんです。私と秀を呼ぶ妻の声がどこからともなく聞こえる。さっきも玄関から聞こえたんです」


 人間の表情はここまで歪むのか、というほど小山さんの顔は痛そうで、悲しそうで、でも笑っていた。

 白いワイシャツの胸に手が伸びている。テーブルの下から女の後頭部が出てきた。


「恨んでいる。当然です。私はそれに値することをした。だから、きっとこのまま呪い殺された方がいい」


「やめろよ」


 今度はきっちり声が出た。

 小山さんが虚を突かれた顔で俺を見た。

 女は、いや、小山亜希菜は小山さんにすがりついていた。首に回した手は締めるためではなくすがりつくように回され、額を擦りつけている。漏らす声が聞こえる。泣くのを噛みしめて我慢している呻き声だ。


「アンタはそれで楽になれると思ってるかもしれないけど、それじゃ誰も救われねぇじゃねぇか。アンタの奥さんは自分のせいで息子が死んだんだって悔やんでずっと息子の遺体を掻き集めてるんだぞ」


 自分でも何を言っているのかわからない。そんな光景見たことない。でも言葉は止まらなかった。


「息子がいなくなって、アンタまでいなくなった。だから奥さんは一番辛い現場の交差点に立ってるしかなかったんだ。アンタ、息子が死んだ場所に行ったか? 花を供えるなり手を合わせるなりしたか? 行ってたんなら奥さんは迷わずにここに帰ってこられたはずだろ」


 あの交差点に花が供えられたのを少なくとも俺は見たことがない。


「坊、坊、他人の気持ちを勝手に推測して人を責めてはいかんのじゃ」


 抱きしめた先輩に背中を叩かれ、俺は溢れてくる言葉をようやく止められた。胸元から赤い瞳が覗いてくる。腹の中まで見透かされそうな強い光だった。


「……ごめん」


「謝る相手が違うのじゃ」


 俺たちはゆっくり離れ小山さんに向かって姿勢を正す。頭を下げた。


「知った風な口をきいてすみませんでした」


 風波兄がクスリと小さく笑ったのが聞こえた。小山さんは「いや」とか「まぁ」とか戸惑った反応をしている。

 頭をあげれば嫌でも女の後ろ姿が目に入った。

 長い髪に喪服姿。頭は崩れていないし、腕の関節の数も正常だ。本来の姿はこちらなんだろう。今までは、自分が身代わりになっていれば、と、思っていたのかもしれない。もしかしたら旦那との口論で似たことを言われてしまったのかもしれない。先輩が言うとおり全部俺の推測だ。奥さんはしゃべらないから本当のところはわからない。


「でも、幽霊になるって辛いんだとおもいます。生きていれば飯食って、寝て、誰かとしゃべって、好きな音楽聴いて、そんなふうに少しずつ変わっていけるけど、きっと死んだらそれができない。どんなに辛くても悲しくても、それに苦しむことしかできなくなって、周りを巻き込んでどんどん不幸になるだけなんだとおもいます」


 俺の目にはそういう風に映っている。そして旦那に助けを求めているのに、旦那は呪い殺されたがっている。辛さが辛さを呼んで加算されてそれの繰り返しだ。


「アンタしかいないんですよ。奥さんが今どうなってるかアンタには見えてないでしょうけど、アンタが生きて考えてやらないと誰も救われないし俺は怖いままなんだよ」


 むちゃくちゃ個人の事情が入った。でも仕方ない。ここに来た始まりは「怖いのはいや」だったから。この恐怖が少しでもましになるように、俺は先輩後輩幼なじみを巻き込み赤の他人の家庭事情にまで首を突っ込んでいるんだ。


「坊は、こんな見た目だし口も悪いが優しいのじゃ」


「……わかります」


 先輩のフォローに小山さんは苦笑気味に頷いた。奥さんが今どうしているのか訊かれ、他に言葉が思いつかず「抱きついてる」と、言ったら小山さんは目を泳がせた。成り行きを見守っていた風波兄は小山さんには見えないようにニンマリと人の悪い笑顔を見せてきた。


「妻を助ける方法はないんでしょうか」


 小山さんが俺を見る。風波兄も俺を見る。俺は先輩を見た。俺は旦那に奥さんを押しつけて解決したつもりになっていたが、供養する側の遺族にとったら当然の疑問かもしれない。俺も父親と母親が自分にぶら下がってるなんて言われたらどうにかしなくちゃ、と思っていたかもしれない。


 先輩は俺と奥さんを見比べて「ふむ」と腕を組み首を傾げる。


「後悔の念があるならばいずれご婦人に言葉が届くじゃろう。毎日仏壇に手を合わせ謝り、どうか安らかになっておくれと念じる。それが普通の供養というものじゃ」


 先輩の言葉は、自分の罪を償え、と、言っているようにも聞こえた。小山さんにもそう聞こえたのか、苦い表情をしている。


「しかし、ご婦人が彷徨い出ぬとも限らぬ。また交差点に戻り坊についてくる可能性もある。死んだ息子の代わりに誰かを犠牲にするかもしれぬのじゃ」


 先輩は立ち上がって玄関に向かい、外に置いてきた榊をペットボトルごと持ってきた。倒れた位牌を立て直し仏壇に供える。宗教違くね?


 奥さんがフラフラと旦那から離れ仏壇の前に正座した。背を丸め頭を下げる。長い髪が横顔を隠し怖さ倍増だ。


「水道水でいいのじゃ。毎日水を替えて榊が枯れたら新しい物と交換するのじゃ」


 高校生の話を真剣に聞いてくれた小山さんが素直に頷く。


「あとは、坊が歌うのじゃ」


「また!?」


 せっかくここまで連れてきたのにどこかに弾き飛ばしでもしたら同じことの繰り返しじゃないのか?

 俺がなにを考えたのかわかっているのか、先輩は得意げに笑った。自信たっぷりの様子が可愛くて小憎たらしい。


「話を聞いて、この夫婦めおとにどんな歌を届ければいいかわかったじゃろ? 間違えなければ坊の歌は届くのじゃ」


 まるで自分事のように胸を張る意味がわからない。が、先輩が言うとできそうな気がするから不思議だ。


「ここで?」


 いつもの癖でギターは背負ってきている。


「ここで演奏したらご近所迷惑じゃろ。ふさわしい場所を見つけてくるのじゃ」


 もう先輩のペースだ。身に覚えがある。そうして流される自分を想像できる。案の定俺が歌うことは決定事項になり、一番反対しそうな小山さんすら「それで妻の供養ができるなら」とか納得しているから俺はライブハウスを押さえることになった。風波兄はまだ確認したいことがあるから、と残ることになり、俺たちは先に帰ることになった。

 玄関を出るとどっと疲れが押し寄せてきた。昨日一日も怒濤の展開だったがこの二、三時間の展開も恐ろしいぐらいの情報量だった。未だに処理し切れていない。そしてこれから処理しなきゃいけないことが増えるのは確定している。


「龍神様もわけわかんねぇし風波の兄ちゃんもわけわかんねぇし……俺、どこに向かってんだろ」


「歌が歌える場所じゃろ? 部室でもいいが、学校は部外者立ち入り禁止が基本じゃからな。ご近所迷惑にならずしっかり聴かせられるところがいいのじゃ。せっかくだからみんなに演奏を手伝ってもらうのじゃ」


「ああ、うん」


 要所要所で鋭いくせにボケてくる先輩が憎い。この人はたぶん俺を振り回す天才だ。


「礼兄のライブハウス借りられるか訊いてみる」


「坊には兄弟がいるのかや?」


「ご近所に住んでたお兄ちゃんってやつだよ。羽智の従兄弟。俺にギターとロックを教えてくれた人」


「ほほう。では礼兄に感謝するのじゃな。坊が今まで無事だったのは礼兄のおかげじゃな」


 普段から感謝に堪えないがもっと感謝すると誓った。近々好物ばっかりの作り置きをしよう。

 俺たちは繁華街方面に歩き出す。道中、軽音部に「色々あってライブすることになりそうだ」とメッセージを送る。当然の反応として疑問符が返ってくるが俺だってよくわからない。どうなるかもわからない。特に部長からは、説明しろだのなんだの送られてくるのでいやになってきた。風波だけは妙に物わかりが良かった。


「先輩、部長がライブ応援してほしいって。動画送るから一言いれて」


 カメラを向けると先輩はやる気満々で笑顔を作り、ちょっと上目遣いで「松本くんライブがんばってほしいのじゃ」と、満点回答をした。さすが先輩、自分の魅力わかってる。動画を送ると部長からのメッセージが途絶えた。代わりに羽智や風波から「撃沈」報告が届く。俺たちが繁華街に着く頃にようやく「準備しとく」と、メッセージが入った。俺は伝家の宝刀を得たようだ。


 繁華街のど真ん中に礼兄、源礼治郞みなもとれいじろうのライブハウス「WEDNESDAY」はある。両側を雑居ビルに挟まれた地下一階、地上三階建ての建物がそれだ。地上階は楽器ショップと収録スタジオと事務所が入っている。まだ夕日が沈みきっていない時間で地下のライブハウスの看板には明かりが入っていない。人一人分の幅しかない狭い階段を降りる。俺は慣れてしまったが結構急だ。振り返ると先輩は身軽に後をついてきていた。ゆ、揺れてる。

 悩んで、先輩が追いついて立ち止まっても悩んで、先輩が口を開く直前に俺は手を伸ばした。一段上の先輩のブラウスをひっつかみボタンを一つだけ留めて即座に離れる。かすかな笑い声を背景に階段を駆け下りた。


 木製のドアは閉ざされていて「CLOSE」の看板が下がっていた。ノブを回して押し開く。

 営業中は照明と音が溢れているが今の時間は薄暗い照明がポツポツ点っているだけの四角い箱だ。入り口右側にはドアに半分隠れるようにカウンターがある。左は階段になっていて、降りればバーカウンターの前に出る。バーカウンターと対面にステージがひっそりと横たわっている。バーカウンターとステージ前ではスタッフが掃除をしていた。礼兄はドア横のカウンターでパソコン画面を覗き込んでいた。


「よう志紀、どうした? 掃除でもしたくなったか?」


 チラッとこちらを見た礼兄が視線を画面に戻しながら言う。

 礼兄にはアルバイトでも世話になっている。ライブハウスや地上階のショップやスタジオの掃除を手伝って小遣いを稼がせてもらっている。

 金髪に柄シャツ、薄暗いのに色つき眼鏡と危ないお兄さん風の見た目だがかなり世話好きの頼れる兄貴分だ。


「時間があれば掃除でもなんでもするんだけどさ、今日はちょっと相談があって」


「この派手なお兄さんが礼兄かや? 吾妻くんの血縁というからもう少し地味な殿方を想像しておったのじゃ」


 言葉を遮って俺の背中から先輩が顔をひょっこり覗かせた。背中に胸がむぎゅむぎゅ当たっている。入り口を塞いでいた俺が悪いんだけど、もうちょっとこう、主張の仕方を考えて欲しかった。

 礼兄は画面から視線をあげ先輩を認めると絵に描いたようにまばたきをして驚いていた。先輩の存在に驚いたのかしゃべり方に驚いたのか羽智の名前が出てきたことに驚いたのかはわからないが数秒で立ち直り、ニンマリとした笑顔を浮かべる。


「泣き虫なガキがいつのまにか生意気になりやがって。ついに彼女連れできたか」


 カウンターに頬杖をついて俺を見てニヤニヤ、先輩を見てニヤニヤ。「へぇ」とか「ほう」とか頷いて勝手に納得した顔になった。俺の背中で先輩も「おお」とか、意味不明な声を出している。


「ちげぇよ。今ちょっとゴタゴタしててそれを助けてもらってんの。ただの先輩」


「へぇ? ただの、先輩ねぇ。硬派って噂の志紀くんがライブハウスに女子連れてくるなんて初めてなのに、その初めてがただの、先輩、ねぇ」


 礼兄がいやに「ただの」を強調してくる。どいつもこいつもなんでそんなに先輩と俺をくっつけたがるんだよ。あと硬派ってなんだ。見えないものにビビっていきなり逃げ出す男に彼女ができるわけねぇだろ。…………そう考えると、俺がなににビビってるのか共有できる先輩はたしかに「ただの」先輩ではないな。尊敬できる恩人だ。だがしかし、彼女を盾にする男がどこにいるよ。俺が女でもそんな奴と付き合いたくねぇわ。


「ああ、うん、そうそう。恩人です。世話になってる先輩です」


 俺が素直に認めると礼兄は「今はそれで許してやろうか」みたいな顔して引き下がってくれた。ちなみに先輩は俺の背中に張り付いて「まぁそれで許してやるのじゃ」と、はっきり口にした。なにが許されなかったのか気になる。


「それで? ゴタゴタしてるって?」


 話題が戻ってきたが俺はそこで言葉に詰まった。どこからどう説明したものかわからない。羽智たちにはカミングアウトしたし、おそらく礼兄もなんとなく察していて放置してくれているんだろうと思う。たとえここで俺が「実は幽霊が見えるんだ」と、言ったところで羽智たちと同じ反応が返ってくることは予想できる。でも、俺の頭にはまだ、子供の頃に見た礼兄の困り顔が焼き付いていた。もし、今まで見てきたことが幻覚だったら、いつか俺が正気に返って、全部妄言だったってことになったら、信じてくれた礼兄たちを裏切ることになるんじゃないか? 

 同じものを見てくれる人が現れたからって浮かれすぎていないか?


 ポンポンと背中を撫でられた。子供を寝かしつけるようなリズムに落ち込みそうになる思考を引き留められた。


「軽音部でライブがしたいんだよ。歌を、届けたい人がいる」


「ゴタゴタの説明はなし?」


 全部端折ったら当然ツッコミをいれられた。そりゃそうだよなぁ。


「俺も、まだよくわかんないんだよ。どうなってんのか、どうなるのか。でも、歌えば半分ぐらい解決する……らしい」


 この言葉を信じろ、というほうが無理だろ。それでも俺にはこれしか言えなかった。きっと礼兄に甘えているんだ。困り顔をしても、礼兄は俺を抱きしめて落ち着くまで背中を撫でてくれていた。あの時と同じように見守っていてほしいって、十年経っても甘えている。


「そのゴタゴタってのは、誰かにちゃんと相談なり説明なりしたの?」


「羽智が知ってる。てか、軽音部のメンバーには話した」


「ならいいよ」


 へ?

 礼兄はパソコン画面に視線を戻し操作を始めた。


「もう俺に抱きついて泣きじゃくってるガキじゃないんだし、年相応の厄介事もあんだろ。誰にも話せないなら大人として見過ごせないが、仲間に話してんならムリに訊かないよ。それに、羽智が知ってるなら大抵は大丈夫だろ」


 羽智への信頼が半端ない。俺も頼りにしているから羽智の人間性のなせる技だろう。


「なんじゃ、今も昔もなにも変わっておらんのじゃ」


 先輩が俺の腕と胴体の間に頭を突っ込み、そのまま肩をねじ込んで前に出てきた。普通に言って!? めっちゃ触ったじゃん!? アンタ距離感おかしくね!? それ部長にやったらあの人ぶっ倒れるからね!?


「なんだよお前、まさか彼女に泣きついてるんじゃないだろうな」


 …………その通りです。彼女じゃないですけど。


「朝香霞というのじゃ。坊の世話をしておるのじゃ」


「霞ちゃんね。面倒な男に育っちゃったけど志紀のことよろしくね」


「任されたのじゃ。まだまだ坊やだから育てるのは今からでも遅くないのじゃ。それでじゃな、取り急ぎ坊に歌う場所を整えてやりたいのじゃが――――」


 妙に意気投合した先輩と礼兄は俺を放って話を進めていく。訂正したいところは色々あるのだが、「明日にでも」とか先輩が言い出したから「せめて三日時間をくれ」と、割り込んだ。先輩と礼兄に組まれたら俺は頭が上がらないかもしれない。

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