第50話
その日の夜は、家に帰ると真っ先に、お風呂に入ることにした。大好きなローズの香りのするバスソルトを入れて、スピーカーから好きな音楽を流して。
正体不明のもやもやする心を、一刻も早く洗い流してしまいたくて。
だけど、胸の中のもやもやは、いつまで経っても消えてくれない。
わたしはどうしてこんなに山本さんのことを気にしているのだろう。
山本さんは、同い年だけど会社の先輩で。それから、そもそも女の人で。
すごくすごく不安になる。
わかってる。自分ではわかっているけれど、わかりたくない。
だから、ずっとわからないふりをしていた。
目を背け続けていた。
お風呂から上がる。鏡のほうを見れば、そこには自分の身体が映っている。
毎日見ている身体。女の人の身体。
あの日の山本さんを思い出す。
あの日山本さんの身体を見た時、わたしが感じた気持ち。それは今でもはっきりと覚えている。
彼女の身体は当然、わたしとは違うけれど、それでも女の人の身体であることに変わりはない。
そんな女の人である山本さんに、わたしが何をしたか。
なかったことにしちゃいけない、悪いことをした。
寝ているあいだに、山本さんの鎖骨にキスをした。
自分でもわけのわからない衝動に突き動かされるまま、生まれて初めてそんなことをしてしまったのに、わたしはそれをなかったことにして、心に蓋をして、隠して。
それで今日まで生きてきたけれど、もういい加減、認めないと、自分の心がどうにかなってしまいそうだった。
お風呂上がりに、タブレットを開いた。いつも動画を観るくらいしかしない、そのタブレットで、今日は珍しく調べ物をする。そこに答えがあったらいいのに、って願いながら。
答えらしき答えは、あるには、あった。
だけどそれは、この気持ちをどうにかしてくれるものでは到底なかった。
むしろそれは、残酷な現実をわたしに突きつけてくれる。
あなたは、『女の人を好きになる女の人』だって。つまりは『レズビアン』だってこと。
もちろん、そういう人たちが世の中にいること自体は知っていたし、女子高時代には『私、女の子が好きなの』って言って、そう名乗っているクラスメイトなんかも目にしてきた。
だけどそのときの友達だって、なんだかんだ今は、彼氏がいたり、旦那さんがいたり子供がいたりするのだ。
だからそんなものなんだろうって。
わたしだって、自分とは違う、骨張っていて固そうな大きな身体や低い声を持っている、そういう人たちのことを、男性のことを、いつかは愛せる日が来るのだろうと、そんなふうに思っていたのだけど。
だけど、きっとそんな日は来ない。
そう、直観した。
わたしが山本さんに向けているのは、紛れもなく『そういう目』だ。
わたしとデートしてきた男の子たちが、わたしに対して向けていたような目。
すごく、すごく不快だったもの。
それなのに今のわたしは、わたし自身がその目を、山本さんに対して向けてしまっている。
それは、なんだかすごく悲しくて。苦しくて。
ただただ、申し訳なかった。
部屋の電気を消して、ベッドの上に寝転んで。大きいクッションをぎゅっと、抱きしめた。
この温もりが、クッションなんかじゃなくて、もしも山本さんだったら。
そんなこと考えちゃダメって思うのに。
ダメだって思うほど、もやもやは消えてくれなくて。
真っ暗な部屋の中で、衣擦れの音と、吐息だけが響く。
頭の中にあるのは、あの日の山本さんの姿で。
切なくて苦しい、それは、正真正銘、わたしにとっては初めてのもので。
ひときわ長い息を吐いたあとで、両の目からは涙が溢れた。
そして気づけばわたしは、そのまま眠りについてしまっていたのだった。
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