第29話

 ある日のお昼休みのこと。パソコンの画面にロックをかけて、休憩に入ろうとしたそのときに、突然わたしは後ろから呼ばれた。


「円城寺さんーこっち来てー」

「はーい、今行きまーす」


 総務課の吉沢さんだ。きっと多分また、コーヒーを作るお手伝いの仕事だ。


 他の女の子たちが揃って吉沢さんを無視するから、あの人はいつのまにか同じ課の人じゃなくて、経理課のわたしのところに来るようになってしまった。


 わたしだって本当はやらなきゃいけないことがあるけれど、来てと言われたらもう行くしかない。


 行ってみれば案の定、来客対応だった。二十代前半くらいに見える若い男性と、その二周りくらい上に見える男性の二人組。人材派遣会社の営業さんとのことだった。


 コーヒーを三つ淹れて持って行くと、吉沢さんはなぜか会議室の前で、コーヒーを乗せたお盆ごと受け取ってしまう。てっきり中まで持っていって、わたしがお客さんにお出しするのかと思っていたのだけど、作るだけで良かったらしい。


 お盆を渡す時に、吉沢さんの手が私の手に一瞬触れたけど、それはわざとなのかどうなのか、どうにも微妙なラインだったので、なるべく気にしないように試みる。


 だけど、なんなんだろう。この不快な気持ちは。


 なんとなくモヤモヤしてしまって、会議室の隣にある休憩スペースに寄ってしまう。普段はこんなところには来ないのだけど、今日はお茶出しがあったからみんなとランチに行けなかったし、それになんだか一人でゆっくりしたい気分だった。


 ため息を吐いてボーッとしながら、自販機の前に行く。カップラーメンなんかが売っているのを見て、なんとなく山本さんの顔が浮かぶ。


 あれから山本さんはすっかりお弁当派になったみたいだったけど、デスクで食べることはほとんどなくて、男性陣がたくさんいる休憩室で食べているらしかった。


 だから、きっと今日もここにいるかもしれない。……なんて、ちょっとだけ期待してしまっている自分もいたのかもしれない。


 そのときだった。


「あれ、円城寺さん。お疲れ様です」

「山本さん! お疲れ様です!」


 まさかの期待通りに現れたその人を見て、思わずテンションが上がってしまう。


「珍しいですね。こんなところにいるなんて」

「はい。いつもは来ないんですけど……今日はなんとなく。あ、あの、もしよかったら一緒にお昼食べませんか?」

「え、あ、いいですけど……」


 山本さんはそう言ってくれる。やっぱりテンションが上がってしまう。もう、わたしは。ワンちゃんじゃないんだから、と思うのだけど。


「円城寺さん、今日はカップラーメンなんですか」


 自販機の前にいたからか、山本さんはそんなことを言う。


「この間は、私にあんなこと言ってたのに」


 そう言って笑う。あれ、山本さんってこんなふうに笑うんだ。


「今日はお茶出ししてたから、みんなとランチ行けなかったんですよー!」

「そっか。……それで、もう決めたんですか? 何食べるか」


 山本さんは、自販機のほうに視線をやる。


「まだ決まってなかったら……これ、おすすめですよ」


 そう言って、自販機の中の一つを指差した。


「じゃあそれにします」


 普段はこういうもの、食べないんだけど。山本さんが勧めてくれるからか、なんだか途端に美味しそうに見えてきた。


「早くしないと、お昼休み、終わっちゃいますよ」

「あ、はいっ。今買ってきますっ」


 慌ててカップラーメンを買う。


 お湯を入れて、休憩室の席を取って。並んで座って、一緒に食べた。


 山本さんは美味しそうなお弁当を広げている。


 こういう時間はあまりないから、仕事以外に何の話をしたらいいか、ちょっとだけ悩んでしまって。別に会話が盛り上がるわけでもなかったけど。


 沈黙になってしまって、ちょっとだけ不安になっていたら、山本さんが唐突に言った。


「これ、要ります?」


 指したのは、あの美味しそうな卵焼き。


「今日のは、甘いのですけど。それでよければ」

「えっ!! いいんですか!?」


 ちょっと、びっくりして、心臓が飛び出そう。


「カップラーメンだけじゃ、栄養足りないって、言ってたじゃないですか」


 そう言って笑いながら、お弁当の蓋の上に、卵焼きを乗せてくれた。


「ありがとうございます」


 山本さんの卵焼きはとっても甘くて。


 ほんのちょっとだけ、だけど。頭の中まで、とろけてしまいそうだった。

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